禊ぐモンハン生活

(98)大剣ソロ クシャルダオラ初見(失敗)
 http://www.youtube.com/watch?v=9Q2hhQE8QrA
クシャルダオラ初見行くも失敗。
せっかく耐風装備用意したのに効果がないとか、竜巻はそれだけで攻撃力あるとか。オトモすれていくの忘れてるし。
クシャは一番グラフィックがかっこいい。


(99)大剣ソロ クシャルダオラ初討伐
 http://www.youtube.com/watch?v=TxGTwPREadQ
初見から2回目でなんとか1乙しつつも初討伐。
せっかく耐風5つけていったのに龍風圧で関係ないんだ。
降りてこないし、時間は過ぎるし、
最後、瀕死からがすごい。絵的にMHW最高のできではない?


(103)大剣ソロ テオ・テスカトル初見
 http://www.youtube.com/watch?v=pZlHbDJDLgw
テオ初見討伐。
デカ頭に真溜め叩きこんでやりましたよ。


(105)大剣ソロ 上位キリン 初討伐
 http://www.youtube.com/watch?v=sf4Bjmdd2GA
2戦目でなんとか討伐成功。
1発で死ぬ破壊力がある上位キリン。今作で一番シビれた戦いかも。
あせって眠り時に大たるGの代わりに小たるおいてて起こしてしまうし。


(106)大剣ソロ 装備紹介 イビル大剣アングイッシュ対応
 http://www.youtube.com/watch?v=8zhqRlLLrMw
せっかく用意した耐風装備がクシャに聞かないという衝撃の事実もあり、最近の装備を紹介。
最大攻撃力1104イビルジョー大剣アングイッシュを活かすようにスキルを考えた。
食事しない派なので体力増強3の体力+50は必須。
大剣には必須の溜め時間短縮の集中3。
特にソロでの死亡事故の80%は気絶棒立ちからの攻撃なので、気絶無効の気絶3。
アングイッシュの問題は会心が−30%なこと。このためにせっかくの最大攻撃力がなかなか発揮できない。
そのためにまずは抜刀術3。武器出し時会心率が+60%なので一番数が多く、狙いやすい初手で確実に攻撃力をあげることができる。これで初手100〜200はでてます。
弱点特効3の有効部位への攻撃時会心率+50%で、できるだけ真溜を弱点めがけて入れて200以上、最高で600〜500でてます。
あとは適当に、キリンだと耐雷3加えたり、テオだと耐火3加えたりしてます。
ハンターランク14にしていはそこそこの装備ではないでしょうか。


(116)大剣ソロ ヴァルハザク初見
 https://www.youtube.com/watch?v=cUIvmhwUjak
ヴァルハザク初見です。
裂傷耐性3を装備していったのに全く効果がなし、うちけしの実を飲みつつなんとか2乙で初見討伐。
調べたらヴァルハザクには瘴気耐性だったんだ!


(117)大剣ソロ ゼノ・ジーヴァ初見 + 物語エンディング
 https://www.youtube.com/watch?v=AkXX7irG2ic
最後のモンスターゼノ・ジーヴァへ。
せっせせっせがんばって2乙でなんとか初見討伐成功しました。
もう1人で行くのはいやですね。
そしてハンターランクがいきなり14から29へ。
任務完了し、物語のエンディングへ。ひとまずお疲れ様です。
いま、アステラ祭中なので受付嬢がかわいい衣装をきて、ストーリーが進むのがいいですね。


(119)大剣ソロ 歴戦バゼルギウス2体 初見
 https://www.youtube.com/watch?v=bIEeX94OOqM
ハンター29から30への任務「爆ぜる鱗を超えた道」。歴戦バゼルギウス2体クエへ。
履歴見てみると、いままででバゼは一番たくさん狩ってる。大剣との相性もいい。いかに落ちた爆弾を回避するか。あとは動きも鈍いし隙も多いしざくざく会心入るし。
無事討伐完了で、ハンターランクが29から49へ。


(120)大剣ソロ 歴戦キリン初見
 https://www.youtube.com/watch?v=m20wd8c6E8A
任務「その雷鳴は天罰か、祝福か」歴戦キリン初見。
雷耐性3麻痺耐性3気絶耐性3つけて万全装備でいきました。
さすが歴戦キリン、弱る前に2乙してもうダメかと思いましたが、
地道にヒットアンドアウェイで叩いてなんとか初回討伐できました。
ハンターランクは49から一気に108へ。
100以上のベテランハンターとなりました。


(121)大剣ソロ 装備紹介 HR100超え記念
 https://www.youtube.com/watch?v=88jb4UcN5E0
HR14からわずか3戦でHR108へ。ギルドにいままでの貢献が認められたのでしょう(笑)
HR100超え記念。装備紹介。
攻撃力1123、防御力370。
攻撃では、
大剣は、今流行の竜熱機関式(鋼翼)改
無属性強化1 竜熱機関式のような無属性武器には必須。攻撃力が100上がります。
匠2 竜熱機関式は斬れ味の消耗が速いので。
弱点特効3 マイナス会心には必須。
集中3 溜が命の大剣には必須。
抜刀術(技)2 溜は外すことも多い、初手の抜刀でコツコツダメージ入れたいので
防御では、
気絶耐性3 死亡事故の80%?は気絶時の無防備から来ます。
体力増強3
属性やられ耐性3 ここにキリンなら雷耐性、ハザクなら瘴気耐性3を入れます。
あとは適当に。
耳栓はモンスターの吠えによりフリーズをキャンセルして、逆に攻撃のチャンスにするのであるといいですが、他を優先しました。
これから歴戦ができるので、よい珠を探してまた装備を考えます。

禊ぐモンハン生活

初見はソロでいくことにしてる。うまい動画はいくらでもあって、なんだかんだ初見、初討伐の必死のドタバタが面白いのかも知れない。
https://www.youtube.com/channel/UCzQBe51pcXTvzjoGO_r01cg/



(3)大剣ソロ リオレイア亜種 初見
 http://www.youtube.com/watch?v=GtXxXbBKVRk

(4)大剣探索ソロ ヴォルガノス 初見
 http://www.youtube.com/watch?v=3v2e4z6a4nQ

(16)大剣ソロ探索 ドドガマル 初見
 http://www.youtube.com/watch?v=dz8GTHgzxcQ

(30)大剣ソロ 下位キリン 初討伐
 http://www.youtube.com/watch?v=08TKknyC9cA

(39)大剣ソロ探索 バゼルギウス 初見
 http://www.youtube.com/watch?v=ZMwZR3_e6Pk

(44)大剣ガチソロ ウラガンキン初見 
 http://www.youtube.com/watch?v=pUbo7_hs2Tc

(49)大剣ソロ リオレウス亜種 初討伐
 http://www.youtube.com/watch?v=iNqHnpM6s4g]

(57)大剣ガチソロ ディアブロス亜種 初討伐 
 http://www.youtube.com/watch?v=fBVZs0N-8VQ

(79)大剣ソロ探索 イビルジョー初見(瀕死逃亡)
 http://www.youtube.com/watch?v=Gu14jkgUygo

(95)大剣マルチ イビルジョー金冠(2517)
 http://www.youtube.com/watch?v=J3AE3-LMPVY

(91)大剣ソロ ネルギガンテ初見
 http://www.youtube.com/watch?v=1VFyyDyWS9s

(98)大剣ソロ クシャルダオラ初見(失敗)
 http://www.youtube.com/watch?v=9Q2hhQE8QrA

(99)大剣ソロ クシャルダオラ初討伐
 http://www.youtube.com/watch?v=TxGTwPREadQ

(103)大剣ソロ テオ・テスカトル初見
 http://www.youtube.com/watch?v=pZlHbDJDLgw

(105)大剣ソロ 上位キリン 初討伐
 http://www.youtube.com/watch?v=sf4Bjmdd2GA

なぜ日本人は勤勉になったのか

世間は勤勉によって公平に保たれる


日本人の核になっているのが慈悲だ。慈悲とは知らない人に贈り物をすることだ。しかし贈り物は知り合いに対してするもので、知らない人から贈り物をされたら怖くないだろうか。なにか裏があるのでは?と疑う。そこで日本人が発明したのが勤勉だ。

みんなのためになればと懸命に働く。勤勉により知らない人たちに恐れられずに贈り物が出来る。みなが勤勉であれば互いに贈り物が出来て、みなが豊かに幸せになる。勤勉を誇りとし勤勉でない者を恥ずかしいとする、それが世間だ。

世間での勤勉を美徳とする大きな原動力によって、江戸時代、そして近代後も日本人は豊かさを維持してきた。

西洋の平等主義は人権という個人の根源的な平等を目指す。職業はその中の一要素でしがない。江戸時代の士農工商は階級であるとともに、職分の勤勉において対等な立場であった。日本人は明治に輸入された社会という平等の倫理圏の前から、世間という慈悲の倫理圏に生きていると言える。




世間の厳しさ


しかし世間は厳しく、冷たくもある。互いに贈り物をしあう対等な立場だから、安易に人の助けを借りることは恥であり、また安易に人と助けることも相手に恥をかかせることになる。だから弱者であろうとみずから乗り切る根性が強く求められる。

そして失敗は自らの恥だけではなく、世間に恥をかかせることでもあり、世間への謝罪が求められる。そして下手をすれば世間に居場所を失うって、自ら進退を決する。

なぜ明治以降に天皇は日本人の中心になりえたのか。一つの理由は、天皇は勤勉の神的な実践者、みなが手本とすべき存在の位置を占めた。教育勅語はいまも通用する勤勉の教えである。戦後も日本人の勤勉の伝統は変わっていない。勤勉により豊かになり、公平さを保っている。そして厳しく時に冷酷だ。

世界大戦で日本人はなぜあんなにも自己を犠牲にして戦ったのか。西洋人は軍部など階級の上から騙されたとしか考えられない。当時、国民はみな軍人という職分にあり、勤勉であった。勤勉の失敗は自らの恥だけではなく、世間に恥をかかせることでもあり、下手をすれば世間に居場所を失うってしまう。




なぜ日本人は勤勉になったのか


勤勉は世間への責務、恩返しであるが、慈悲においてはむしろ世間への贈り物である。なぜ日本人は世間に贈り物をするのか。慈悲とは仏教の基本である。日本人は仏教徒ではないが、歴史的に仏教の知的体系が日本人を覚醒させて、日本人を作った。

仏教は聖徳太子の時代に伝来し、奈良時代に国教となり、平安時代には貴族により多くの氏寺が作られた。庶民レベルで広まったのは戦国時代から江戸時代で、いまのように全国に何万というお寺が作られた。その理由は葬式仏教の普及だ。

戦国時代に荘園制度が解体し農民による自立した村と家が登場することで、家族を弔う葬式仏教が広まり、村々にお寺が作られた。仏教が身近になることで、慈悲を基本とする自由平等の開放的な教えや、読み書きなどの知識が広がり、それまでの迷信などドクマから開放された。

日本人は仏教から慈悲を学んだ。自己を犠牲にして身近な人から身近ではない人たちまで贈り物をするという崇高な精神性。江戸時代の平安の中で日本人型慈悲、すなわち勤勉を理想する倫理圏として世間が成熟していく。




勤勉と儲け


しかし勤勉の普及は一方で勤勉に働けばそれだけ儲かるという自由な市場の発達と連動していた。江戸時代の税は土地の広さと連動していたが、実際の農民の収入は土地の広さとは連動せず多かった。頑張れば生産性は上がるし、市場経済から収益を得ていた。逆に家ごとに経済的に自立した自営業の農民の問題は自由市場をいかに生き抜くか。

社会保障もないに等しく、変動する物価の知識、情報もなく、農耕による収入は天候などに大きく左右される。破綻すれば土地を失い、村の恥として排除される。現代より厳しく自由市場を生き延びなければならないともいえた。その意味でも勤勉は有用だった。

なぜ「菊と刀」は名著なのか

pikarrr2018-01-27

日本人の贈与論


菊と刀」は、太平洋戦争時にアメリカ政府が敵である謎の民族日本人を知るために、文化人類学ルース・ベネディクトに分析を依頼して作成されました。文化人類学と言えば、モースの「贈与論」が有名です。未開社会では贈与と返礼というエコノミーにより、社会秩序が運営されていることを発見しました。贈与のエコノミーとは、贈与に対して返礼するという交換を基本とします。モースの贈与論では、贈与されると返礼がマナという神的な力にまで昇華されて、人々の行動を強制します。

菊と刀」もまた贈与論の系譜にあります。日本人は恩、義理、恥などの贈与のエコノミーが強く働く人びととして、西洋人の合理主義と相対化して描かれました。この方法は多くにおいて成功していると思います。ある面で、これほど日本人の特性をうまく分析している本は他に見当たりません。

ルース・ベネディクトは日本を一度も訪れずにこの本をかきましたが、歴史から風習までよく学んでいます。天皇明治維新に間に合わせで作られた存在であることも書かれています。それがなぜあれほどの求心力を持ち合わせたのか。江戸時代から恩などの返礼の力学を天皇に集中される仕組みを明治政府が作ったからだと、的確に分析しています。

日本人は生まれながらに世間に恩という負債を持つ。社会を作ってきた先人たちへの恩、育ててくれた親への恩。義理を欠くことは日本人として許されない。そして究極的には建国の父である天皇への恩を持つ。この負債への返礼の力学が、階級社会にもかかわらず、反抗もせず日本人の社会が秩序維持される理由である。西洋人の合理性から理解できない日本人の謎の源泉であると、分析されます。




アメリカ人の贈与論


これは日本人の一面ではありますが、書かれたのが太平洋戦争時ということもあるでしょうし、文化人類学者故に贈与論という手法に頼りすぎて、あまりに日本人の忠誠を協調しすぎています。

確かに戦時中、天皇への忠誠、国への忠誠はマックスに達しましたが、それ以前は恩や義理は日本人の一面であり、むしろ江戸時代はプレ資本主義、明治以降は自由競争社会で、経済的な合理性を生きていました。

武士に統治される村社会でありつつ、実質的に社会保障制度はなく、それぞれの家は自営業の経営者であり、いかに生産性を上げるか、どのような作物を作ると高く売れるかなど、その経営手腕により、家が富むか、消滅するか決まりました。恩や義理など共同体としての協力も大切ではありましたが、それもまた自由競争社会を生き抜くためでもありました。

アメリカは、清教徒が移住した国で、敬虔なキリスト教の国です。お金持ちは暗黙の強制で多額の寄付をするのが当然ですし、またボランティアは市民の当然の義務です。日本では考えられないですが、今も民間の社会保障は国家によるものと民間が両輪で働いています。それはまさにアメリカ人の贈与文化です。その基本にあるのは、神への贖罪という負債へと返礼です。

またアメリカは開拓地なので、個人の努力と采配による経営で貧富が決まる自由競争社会で、西洋でも珍しく勤勉を尊く重視する国ですが、それはまたアメリカ人の勤勉はプロテスタントの天職として位置づけられました。すなわち神への贖罪の一つです。日本人もまた厳しい自由競争を生きるために勤勉が重視されましたが、勤勉は仏教の慈悲によって世のための奉仕としても位置づけられていました。

ルース・ベネディクトは、贈与論の系譜から、贈与の力学の返礼への義務、すなわち負債を協調します。それはモースの「贈与論」からの特徴ですが、もしかするとキリスト教の贖罪文化からきているかもしれません。西洋人はキリスト教の贖罪文化から、無意識に負債への強い思い入れがある。たとえばモースとともに、負債を重視した思想家がニーチェです。キリスト教徒を負債への返礼に囚われたルサンチマンと呼び、そこからの脱却として、ディオニソスや、超人、力への意思などを対峙されました。それだけ西洋人の負債への思い入れを表していると言えます。




日本人の慈悲論


ボクの慈悲論では、贈与と返礼うち、贈与側を重要します。キリスト教の贖罪では人類への負債から始まり、神への返礼に答えることで天国に行けますが、仏教では、涅槃に達するために、慈悲を施すことが推奨されます。

慈悲とは見返りを求めない贈与です。仏教の贈与論は巧妙で高度です。贈与は贈与であってはならない。返礼を求めたり、相手に返礼への負債を与えた時点で慈悲ではなくなる。だから涅槃には生きたいと贈与することもまた慈悲ではありません。

日本人は江戸時代に慈悲を学びました。日本人の贈与は、相手に負債を与えないことを理想とします。たとえはおもてなしは相手におもてなししていることを気づかれないように気遣う。たとえば空気を読むとは、発言することで相手が気を使うことを考慮し、相手を気遣っていることを相手に気を遣わせないように配慮する。この高度な贈与論は西洋人には理解できないでしょう。ただ日本人は曖昧だ、はっきりしない、言っていることとやることが違うとしか見えないでしょう。

菊と刀」の贈与論では、動力因として(負債への)返礼を強調しますが、慈悲論においてはむしろ世のために贈与する能動性が重要です。そしてルース・ベネディクトが階級社会と呼んで見落とした公平性が現れる。士農工商みな、世の中の為になくてはならない職分である。天皇は頂点ではなく、中心点である。ルース・ベネディクトは日本人の慈悲という高度な贈与を見落とし、文化人類学者、そして西洋人らしく(負債への)返礼を強調して日本人を分析したのではないか。

それでも「菊と刀」は、敗戦に向けての極限の中で現れた日本人の本性の一面を、的確に描いていると思います。そしてまた文化人類学としての贈与論の名作です。日本人論でありつつ、西洋人を含めた人間の一面を描いていると思います。


だから、奴隷こそが慈悲を施さなければならない。



東洋諸国民は全くこの逆である。彼らは過去に負目を負う者である。西欧人が祖先崇拝と名づけているものの大部分は実は崇拝ではなく、また祖先にだけ向けられているのでもない。それは人間が過去一切の事物に対して負っている大きな責務を認める儀式である。さらに彼が負債を負っているのは、過去に対してだけではない。他人との日々の接触のことごとくが、現在における彼の責務を増大する。彼の日ごとの意思決定と行動とはこの負債から生じてこなくてはならない。自分がこうして大切に育てられ、教育を受け、幸福に暮らしていられるのも、第一、この世に生まれてきたことからして、すべて世間のお陰であるにもかかわらず、西欧人はこの世間に対する負目を極端に軽視しているという理由で、日本人はわれわれの行動の動機が不十分であると感じる。非の打ち所のない人間は、アメリカで言うように、私は誰からもなにひとつ恩義を受けていないとは言わない。彼らは過去を度外視しない。日本では義とは、祖先と同時代とをともに包含する相互責務の巨大な網状組織の中に、自分が位置していることを認めることである。121-122


「義理」の規則は、厳密に、どうしても果たさなければならない返済の規則である。それはモーセ十戒のような一連の道徳的規則ではない。「義理」は強いられた時には、場合によっては、自分の正義感を無視せねばならぬこともあるというふうに考えられている。日本人はしばしば、「私は義理のために、正義を行うことができなかった」と言う。また、「義理」の規則は、隣人を自分と同じように愛するといこととも、なんの問題ももたない。日本人は、人が真心から自発的に寛大な行為をすることを要求しない。彼らは、人が「義理」を果たさなければならないのは、「もしそうしなければ、人びとから、「義理を知らぬ人間」と呼ばれ、世人の前で恥をかくことになるからである」、と言う。「義理」にどうしても従わなければならないのは、世間の取り沙汰が恐ろしいからである。P174


菊と刀」 ルース・ベネディクト 講談社学術文庫 ISBN:4061597086

しかしあのもう一つの「暗い事柄」、すなわち負い目の意識、「良心の疚(やま)しさ」なるものは、一体いかにして世界に現れたのであるか。・・・これら従来の道徳系譜論者たちは、例えば「負い目」というあの道徳上の主要概念が「負債」という極めて物質的な概念に由来しているということを、ただ漠然とでも夢想したことがあったろうか。


道徳の系譜」 ニーチェ 岩波文庫 ISBN:4003363949

みそけん、大いに語る。その3

ここ数ヶ月、5ちゃんねるの哲学板で語った内容を掲載します。
第三弾は、「時間とはなにか」スレッドで語った内容からです。どうぞ♪

なぜディープラーニングAIブームは胡散臭いのか




■なぜディープラーニングAIブームは胡散臭いのか


最近のAIブームって胡散臭いよね。結局、囲碁、将棋に実績を上げただけでしょ。そもそもなにを持ってAI なのか?AI の名のもとにやりたい放題の気がする。

あとAI 化が人事関係で進んでいるのが気になるな。私は知らない。AI が決めたんだから、AI になぜかはない。ただ結果があるのみ。AI 責任転嫁時代。AI の自動運転で事故。私は知らないAI がやったことだ!法的にはこれから。


以前のAI は絶対解を追求していた。いわば神を作ろうとしていた。だからフレーム問題に陥るなどうまくいかなかった。彼女が「馬鹿!」といったとき、その意味、あるいは返答の正解などない。

新たにディープラーニングAIは、神ではなくいわば長老を作る試みだ。正確でなくても、長老なら豊富な人生経験から何らかの適切な解を得る。それが正解でなくても。実際、人間もそう行動している。

長老を作る方法がディープラーニング(深層学習)。たとえば将棋ならAI 同士でひたすら勝負をされる。疲れを知らないからずっと将棋をやり続ける。人が千年かかってできる対局数を一週間でこなす。1年やらせれば、人類が百万年かける対局ができる。すると、超将棋名人、長老が出来上がる。長老は負ける可能性もあるがとにかく超強いだろう。そしてそのデータはコピーできる。長老たちが多大の経験を交換し合う。スーパー長老が生まれる。

でも長老は考えているわけでなく、経験を選んでいるが、人は長老がどのような経路で解にたどり着いたかを知ることはできない。

ようするにAI と言っても、重要なのはプログラムより経験学習データなので、まだ新米のAI から長老AIまでいる。自動運転AI もいま運転を勉強中だ。問題は将棋ならいくらでも、繰り返せるが、現実は難しい。運転シミュレーションを使って学んでも、どこまで現実に対応できるか。


ディープラーニングが人の学習を真似て成功したとすれば、今度はそれ故に限界もある。人の経験は反復できないことの方が多い。将棋で成功したのは反復が容易だから。反復として与えないとディープラーニングできない。世界を反復として切り取ること。果たして、人の経験はそんなに簡単に、反復として切り取れる。LOT で、世界を監視するようになると、多くの環境データを手に入れて可能になる?

だからディープラーニングAI はうまく反復学習できないと馬鹿のままということです。世の中の多くは学習させることが難しい。だから多くのAI はバカです。


面白いことは、人間が考えているということは、実はディープラーニングと同じことをしているのではないかということ。なんか発想とか、創造とかえらそうに言いながら。

いかなる知も経験知であることは、哲学的にはウィトゲンシュタインが証明した。いまだに納得できない馬鹿がほとんどだか、歩くことも、見ることも、数学も、経験知。

以前のAIがフレーム問題に陥ってフリーズしたが、ディープラーニングはフレーム回避できる。人と同じように、とりあえずできることからやってみる。むしろ人の方がフレーム問題に陥る。思春期、片想い。人工知能に恋はできるか。


むしろどのAI が賢くて、バカか、わからないことが問題か。AI の判断だから仕方ないが、神のお告げになっている現状が怖い。

宗教までいくかどうか分からないが、AI 占いは当たり前になりそうだね。判断に困るとAI に聞く。それが正しいかは誰にも分からない。AI が言ったから殺したとか。

最もAI が普及しそうな分野は、人が判断したくない、責任を回避したい分野であることは確かだ。前のNHK特集では、囚人の仮出所判断に使っているのがあったが

絶対に、AI は信仰化する。将来、おそらく誰もがマイAI を持ち、何でも相談する時代が来る。

要するに、人のフレーム問題を回避する手助けにAI は活用される。人は日々フレーム問題を生きて、結構な負荷だから。特に日本人はフレーム問題に陥りやすい国民だからなあ。

AI はバカのままでも人が賢いと信じればいい。それが落としどころか。確かにAI 友達ほしいな。悩みを聞いてもらって、要所要所で判断してくれる。でもたまにはケンカしそうだけど。

結局、言語ゲームのごとく、コミュニケーションは錯覚で成立し、それが楽しいわけだから。AI 彼女はいいよね。


あと、ディープラーニングの限界として、人の学習は反復学習だけではない。もう一つ大きな要素が快感。一回の快感、あるいは不快で、学び、慣習は作られる。これは、AI には学習できない。

そもそもウィトゲンシュタインの慣習論以降、アメリカで慣習研究は伝統がある。ディープラーニングの根はその当たりから来てる。ウィトゲンシュタインも慣習は、反復訓練からつくられると考えていたから、それを継承してるが、フロント的に言えば、フェティシズムは一回の快感で作られる。ディープラーニングフェティシズムを学べない。

人が一回の体験から学習するとすれば、ディープラーニングはついてこれない。特に感情的なものはその傾向が大きい。

昨日まで赤色が好きだった人が、事件に会い血を見て、赤を見たくもなくなった、ピーマン嫌いの子がヒーローがピーマン好きなのをしって次の日からピーマン好きになる。ブルゾンチエミが一夜にしてスターになり、皆が熱狂する。このようなフェティシズムを反復としていかに追従できるか。ビックデータから反復として導き出せるか。

アマゾンにしろ、ナビゲートがいつも物足りないには反復からしか学習できないから。一瞬で気に入ったフェティズムは追従できない。車の自動運転は交通ルールを守っている範囲はいいが、フェティシズムな車好きの法を越えるような運転に対応できるのか。


ボクが興味があるのは、AI はおもてなしを再現できるか。日本人独特のこの難解な技術。フレーム問題すれすれで回避する絶妙の技。

ち相手へサービスするだけでなく、相手にサービスすることが相手に負担にならないかをサービスする。

そして相手にサービスすることが相手に負担にならないかをサービスすることで、逆に相手が気を使ってしまわないかをサービスする。

さらにそして相手にサービスすることが相手に負担にならないかをサービスすることで、逆に相手が気を使ってしまわないかをサービスすることで、相手が恐縮してしまわないかを、サービスする……

という、フレーム問題すれすれをいい感じで、場に合わせて調整する、日本人のみが可能な超高度な技術。

これがAI化ができれば、世界は日本のように幸福な国になるけど。パナソニックで開発できないか。おもてなしAI 、そして世界中のLOT に組み込む。日本企業にはおもてなしAI をぜひ開発して世界に広めてほしい。


ディープラーニングとは、現場主義のこと。全体を俯瞰するではなく、多く現場を経験させて、熟練されること。ビックデータを使うにしても、それを抽象化して法則を見出すのではなく、現場の経験として学ばせる。

昔から哲学には、抽象化、プラトン主義に代表される。客観主義と言われるものと、儒教や仏教など東洋思想に代表される行為主義があって、西洋哲学だと、行為主義はヒューム、ウィトゲンシュタインが代表的。ディープラーニングは行為主義をベースにしてる。あとはボランニーの暗黙知とか。暗黙知の例で言われるのが自転車乗り。どのように自転車乗りに乗ってるのか。抽象化して法則性を見いだすのが難しい。客観主義の臨界が、ゼノンのパラドクスとか、フレーム問題とか。以前のAIは客観主義だった。ディープラーニングは行為主義。


また近代以前は活版印刷もなく、デイープラーニングの世界だった。だれもが見よう見まねで技を盗む。知は身体伝承され、実働を伴わない言葉のみの知は、うさん臭いものとされた。孔子ブッダガヤそしてキリスト教でも。

実働的知より抽象的知が上だという転倒は、近代に起こった。なんと言ってもその功労は、ニュートン力学である。ニュートン力学の抽象的知の衝撃は世界を一返した。しかし最大の功労者は貨幣だろう。貨幣は抽象的知が世界に浸透し富として力を持つ、

ディープラーニングはこのような人類史上の知の再転倒と考えると面白いかもしれない。これからは実働知、現場主義が重視される。そのときのなにが起こるのか。ダウンサイジング?真の民主化

みそけん、大いに語る。その2

ここ数ヶ月、5ちゃんねるの哲学板で語った内容を掲載します。
スレッドは、「カール・マルクス」、「ものすごい勢いで誰かが質問に答えるスレ」、「仏教哲学」。
第二弾は、「ものすごい勢いで誰かが質問に答えるスレ」、「仏教哲学」スレッドで語った内容からです。どうぞ♪

なぜ日本人の精神は仏教が作ったのか
なぜ慈悲は経済なのか
なぜ日本人は技術によって世界に慈悲を広めるのか
なぜ日本人はすべて慈悲を基本とするのか
なぜリベラル圧には逆らえないのか




■なぜ日本人の精神は仏教が作ったのか


まず仏教の素晴らしさを知らなあかん。というか、キミの中にすでにあるわけやが、なんと言って寛容。キリスト教イスラム教のような原理主義排他主義ではない。だからインドから中央アジアを通って中国、そして日本へ。広がるたびにその地に合わせて変化する。だから日本人の仏教は日本だけのもの。

たとえば日本で仏教言えば葬式仏教。そんな仏教は日本にしかない。葬式仏教は日本人だけの仏教。そもそもインド仏教に墓なんかない。輪廻転生で魂が生まれ変わるから墓なんか意味ない、死んだら体は川に流すだけ。

でもこの葬式仏教こそが日本人には大切。なんでか?葬式、墓とは、家やから。日本人は家を基本とする。日本人は仏教徒かどうかはわからんが、仏教が日本人の精神性を高度に育てた。そしてはじめて国民レベルで空を達成した。



縄文時代


太古の日本人を考えるとき、一番は日本語だろう。中国語とも朝鮮語とも違う発祥不明な謎の言葉。稲作の伝来とともに、中国大陸から化が入って来た。それ以後に、この謎の日本語をもって伝来した人々はいないわけで、するとそれ以前に日本語が日本列島で広く使われていた。

なんといっても縄文時代は、1万年以上という世界一長い文化を継承していたわけだから、日本語の起源は1万年以上あると考えた方がいい。そして稲作伝来で、弥生人が多く到来したとしても、言葉が日本語のままだったということは、征服された訳でもない。いまでに水田稲作伝来前に、農耕が行われていたことがわかっているし、水田稲作という生産性の良い農法が伝わり、日本にいた人々も学んだと考えられる。


聖徳太子


それまで、竪穴式住居だ土偶という中にいきなり聖徳太子の時代に仏教がやってくる。今でもお寺より木造とか、仏像とか、すごい技術だよね。それがいきなり輸入されてくる。といっても、一番はその思想だから。文字もなかったから日本にはどかーんと、今でも高度な仏教思想が流れ込んでくる。その衝撃たるや。

中国には、仏教の前に、老荘思想儒教などのこれまた高度な思想があった。中国で仏教と混ざって、日本にやってきた。特に唐の時代は中国の第一仏教ブームだった。その後、中国では儒教時代になるんが、日本ではその中国仏教が根付いていく。

稲作のあと、中国大陸から文化はどんどん入って来て、有名なのが、儒教と仏教伝来の聖徳太子時代だよね。聖徳太子は、仏教に関する論文をすでに書いている。十七条憲法は、明らかに儒教、仏教の影響のもと書かれているんだけど、なぞなのが、第一条に「和をもって尊しを成す」をもってきたところ。和を一番にする考え方、仏教にも儒教にもない。日本人独自の考え方があるんだろうね。和を重視って、いまだに日本人らしくて面白い。すでに、日本人の精神性はできていたのか。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/66_yuimakyo/index.html

聖徳太子によって日本で初めて解説された仏典の一つ「維摩経」。「理想の生き方は、世俗社会で生きながらもそれに執着しないこと」「すべては関係性によって成立しており、実体はない」「だからこそ自らの修行の完成ばかりを目指さず、社会性や他者性を重視せよ」。維摩の主張には、既存仏教の枠組みさえ解体しかねない破壊力があります。それどころか、現代人の私たちがつい陥りがちな「役に立つ・役に立たない」「損・得」「敵・味方」「仕事・遊び」「公的・私的」のように、全てを二項対立で考えてしまう思考法をことごとく粉砕します。

聖徳太子がこれを選んだのか偶然か。必然か。まさに今の日本人につながるし、さらには現代人でも難解な空の真髄。最初に覚醒した日本人は聖徳太子か。そして江戸時代に庶民レベルの覚醒に至る。


<奈良平安時代


韓国は唐に征服されたこともあり、いまだに儒教が国の基本なんだけど、日本は儒教的なものの影響を受けたんだけど、本来儒教というのは、論語の道徳であるよりも、儀礼体系なんだけど、そういうのはほとんど採用していない。日本人が影響を受けたのは仏教。そして仏教も中国で儒教化されたのが中国仏教なんだけど、また日本人は変わっていて、仏教を国家管理にしたんだよね。

僧侶になるのも国家資格がいる。そして僧侶に求められたのは、国家安泰の祈祷。それで空海は名をあげる訳だけど。日本は悪霊を信じていた。無念で死んだ人々、有名なのは菅原道真とかいるけど、後は天皇になるために、多くの血族を殺すわけだし、怨霊化して国を滅ぼすと考えて、卑弥呼の時代から、祈祷による国の安泰が天皇の一番の仕事だった。だから意味不明に遷都を繰り返してた。怨霊から逃げるために。陰陽師とかもあるんだけど、最新の祈祷技術が仏教だと考えて、国で抱え込んだ。なんともはや、日本人独特だね。

そもそも儒教には禅譲という考え方があって、徳のある人が代々、皇帝を引きつぐと考える。だから血族ではないんだけど、ご存じのとおり、天皇には禅譲はない。天皇の血統が天皇を続ける。なにせ天皇は神の子供なので、徳があるのはあたり前。だからそれが未だに続くって世界最長なわけだけど、

ここにも日本独自がある。ようするに疑似単一民族だから、多民族による革命がないわけだよね。いままで天皇へ変わろうとしたのは、平将門ぐらい。

中国大陸からの文化をいい感じで吸収して、独自の改良する。まさに近代に今度は、西洋文化を速やかに吸収する。清国が儒教などの古い文化から簡単に近代化できなかったのとは、大違い。


<平安鎌倉時代


日本で庶民レベルで仏教が広まった一つが、平安時代源信の往生要集。 これは、死後の極楽、地獄を絵的に臨場感たっぷりに書かれている。 良いことをすれば極楽に、悪いことをすれば地獄に落ちてこんなひどい目に合う。 だから生きてるうちに慈悲を施しなさいと言うわかりやすい道徳本。 空もなにもない。 このわかりやすくが受けて、庶民レベルに仏教倫理が受け入れられた。平安時代の幼稚な仏教観の時は、慈悲ポイントを貯めるみたいな気軽さがある。 いじめられた亀を助ける。慈悲ポイントを5点! 死ぬまでに100点貯めて、極楽に行こう!的な。

鎌倉時代親鸞歎異抄はいわば、この幼稚な仏教観への対抗になっている。善行をすれば極楽に、そんなもんじゃない。 鎌倉以降が新仏教と言われる一つが、庶民レベルに仏教の真髄である空が教えられていくところにある。 それでも、この極楽、地獄観のわかりやすさは、日本人の死生観としていまも当たり前に根付いている。

善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない 」 といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。

歎異抄」3章

私は善人である、良いことをしたから救われる。そんな打算的、そして小さな事に救いはない、ということ。まさに慈悲ですよね。真の慈悲とは仏の慈悲であり、私ごときの打算は慈悲とはおこがましい。悪行と善行を越えたところ、空において、救いはある。。(超意訳)

親鸞歎異抄にしても、読みやすいが精神的に高度だ。親鸞は地方に飛ばされて、そこで教えを広めたが、そこは倫理的に低い野蛮な人々の世界だったと思う。そこでわかりやすいように、高度な倫理を広めていった。


<戦国時代>


日本において、仏教が庶民へ果たした役割は、今で言うと西洋近代化の科学技術、民主主義、自由主義に近いんだよね。ここがわからないと日本の仏教まったくわからない。

仏教が広がる以前の日本は、迷信、ドグマの世界。特に日本人は祟り、穢れを恐れた。人を死に貶める伝染病みたいな感じ。

空海が名をあげたのも、雨乞いの祈祷だった。祟りによる日照り、飢饉を、回避する。仏教の一番の力は、清めること。怨霊を成仏させたり、穢れを清めたり、それによって、いままで人が近寄れなかった暗部を清め、開拓した。昔話でも、鬼とか妖怪を、坊さんが退治するという話しがあるが、まさにそれ。

その最大が死。いままで穢れると避けられていた死を、清めて、成仏させる。人々は葬式を上げることができるようになった。そして、倫理。偏見、差別、欺すなど、まだ野蛮な日本人を、慈悲を教えることで、倫理的な人間に、いまでいうリベラルな人間に作り替える。

さらに仏教はその時代の実働的な能力もあった。読み書きを教える。法など、社会の仕組みを教える。また実際に多くの僧侶は全国ネットワークを使って、商人としての流通を担っていた。村々に、貨幣を流通させる。あるいは金貸しのようなこともする。

すなわち野蛮な日本人を、リベラルで知的な人間へ変える。そして生活も迷信をドグマを取り払い、文明化させる。

一部では、現代リベラルよりむしろ仏教による改革の方が進んで面がある。それが慈悲。職分主義。勤勉。西洋近代化は、科学技術の進歩によって、物質的に豊かにするが、個人主義に陥り、経済的な格差を生む。孤独を生む。


<葬式仏教>


実際、日本人の死生観というのは良くわからない。 本来仏教は輪廻転生で、死んだら魂は現世の行いに合わせて、生まれ変わる。 それを永遠に繰り返す。これはあくまで魂個々の運動で家族でさえ一期一会。 このサイクルから抜け出すためには悟りを開かなければならない。

でも日本人の死生観はちょっと違う。魂は家族とひも付いて、先祖の霊になったりする。本来仏教にはお墓、位牌はないが、祖先が帰ってくる目印としてあり、生きている人は供養する。さらにはなにか輪廻して、現世に生まれ変われることが喜びみたいな感じがある。中国では融合した儒教観を大きくごちゃごちゃになってる。基本的には、仏教の生きてることが苦であるのに、現世大好き、家族大好きな日本人。

戦国時代以降、農民も仏教を信仰するようになる。その一番が葬式仏教。それ以前、農民に葬式やお墓はなかった。荘園制から惣村という農民自治へ進む中で、土地と人が結びつき、家族、先祖が生まれて、家族を弔う需要が生まれて、それに答えたのが一部の僧侶。そもそも仏教に、僧侶自身を弔うことはあっても、庶民を弔う方法なんてなかった。仏教も生きてる人を救済することを目的にするから。

戦国時代から江戸時代にかけて、葬式仏教のニーズに応えるために、村に一軒のお寺時代が生まれる。すると、お寺は葬式だけでなく、多様な役割として機能する。知識機関、僧侶は知識人だし倫理を持つ、教えを請う、問題解決、手紙を書いてもらう、寺子や、お寺は宗派の全国ネットワークを持つから情報機関、お寺はネットワークを使い、商売の仲買も行ってた。

そんな農民とお寺の密接な関係は、新たな価値観をつくることになる。今の日本昔話なんかは、その中から生まれてきた倫理観をベースにしたりしてる。僧侶は知識人だから作家でもあったから。そして仏教の真髄である無我、そして慈悲、空観が日本人の基底になっていく。

無我とは、自他不二の倫理。自己を否定して他人に合一する方向の運動。他人を知るにはまず自分を否定すること。現代なら禅的と言う方がわかりやすいか。日本人は禅的だ、言われるが、それは文化の基底に空観があるから。

自他という二項対立を脱構築するために、まず自己を否定する。我が!我が!が嫌われ、謙遜するというのもそのため。曖昧と言われるもの、二項対立を回避するため。西洋人が耐えられない宙づりも平気なのは空観を身につけてるから、無用な争いを避けて、寛容でいられる。


<江戸時代 世間>


そして江戸時代の平安の中で生まれたのが無我の倫理圏として世間。みなが自己を否定して、世間のためを考えること。だから我が!我が!は、世間の倫理から嫌われる。

江戸初期に流行ったのが殉死。主君が死ぬと、身近な家臣はあとをおい自害する。武士道精神。確かに武士道という言葉は当時なかったが、山本常朝の葉隠に書かれたように、「武士とは死ぬことと見つけたり

忠臣蔵もまた武士道。常朝は忠臣蔵は武士道としては甘いと批判した。真の武士は、作戦を練るのでなく、その時すぐにただ仇討ちに向かう、死をかける

このような武士道を抑制しようとしたのが幕府。戦国時代も終わり、いつまでも殺伐としてると、いつ幕府に刃向かうかわからないから、それで儒教を導入した。

儒教は合理的だから、殉死とか、仇討ちとか、非合理的な行為を処罰した。忠臣蔵に対しての儒学者の判断が、処刑でなく、切腹だったのは温情だろう。世間の注目もあるし、武士道もわかるから、名誉ある死を与えた。

このような武士道が戦国時代にあったかは疑問。江戸になり、戦さがなくなる中で、武士が武士として生きるために、精神的な洗練に向かった。葉隠の山本常朝も、元禄の人だから戦さをしたことはなかった。

忠臣蔵にしても、武士の精神が理想化していって、それが実際に具現化したのは、世間が武士かっこいー!ってなったんだろう。もう武士は、役者だったと言える。赤穂浪士自体も酔っていた面もある。

殉死には有名な阿部一族事件があるよね。主君が死に家臣が殉死する中で、幕府の儒教的な殉死禁止により、殉死できなかった男が、周りから卑怯者呼ばわりされて、家族共々、殉死してくれと頼まれて、殉死する。いざ殉死すると、幕府の命令に背いたと、家の格を落とされて、それに家族がブチ切れて暴れて、幕府により家族もろとも殺される。

この武士道と儒教の差分はなにか。儒教の合理性を超えた美学。これは仏教の空からきたものだろうね。無我。我を滅して君主のために、さらには君主というより家臣としての役割を全うすることに、死をいとわない。

実際に戦国時代という実践ではどうだったか、戦国時代はもっと打算的な利益を求めるだましあいだったろうが、むしろ江戸時代に武士とはなにか?これからどうしていくべきか?という中で、洗練されてきたんだろう。そこには世間圧がすごかったという。それは現代タレントが不倫や軽犯罪を叩かれるのとは基本的には変わらないだろう。世間とは倫理である。

武士道という言葉は、明治にできたが、言葉がないから武士道がなかったわけではない。客観視されたのが明治だろう。明治に日本人思想はなんだと聞かれて、答えたのが武士道。しかし実際の武士はどうなんだろうね。そこまで格好良かったのか

江戸幕府から元禄当たりまでのまだきな臭い時代。最初の武士道的成熟は、武士がサラリーマン化する中で、武士とは何かが考えられた。殉死して見せたり、仇討ちしたり。赤穂浪士の頃は最後の侍的のことでないかな。だから庶民も熱狂した。

でも武士道の最盛期は、太平洋戦争だよな。明治以降、武士道は武士から庶民に移植されて、昭和には総国民武士化が完了する。敗戦後も、それは続いて、ボクらはみんなサムライだから。


<明治時代>


明治以降の近代化、富国強兵政策で、この日本人の無我は利用された。世間のためにが、国のために、天皇のためにすり替わり、仏教は破壊されて、国家神道にすり替わった。近代化は西洋キリスト教原理主義をベースにするから、日本人も原理主義的な強さが必要で、国家神道原理主義が捏造されて、仏教は排斥されて、無我の思想だけが利用された。


<戦後>


戦後、国家神道は否定されても、仏教が復活することはなかった。ただ世間の倫理は、江戸時代からずっと言葉にされない慣習として、日本人のベースとして続いている。戦後も経済戦争は続くから、会社のために!日本国のために!が残るのは致し方ないよ。それは近代の宿命さ。

現代でも、リーマンだろうが、バイトだろうが、主婦だろうが、そのベースには、世間のためにある。しかしそれを原理にはしない。みなができる範囲で世間を思う。いまの日本の豊かさは世間の倫理からできている。単に豊かになっただけでなく、みんなが世間ためのおもてなしを考えるから、住みやすい社会ができている。

最近、20秒電車の出発が早かったと鉄道会社が謝罪して、世界が驚いたが、それも世間への気遣いから来ている。これはやりすぎ感もあるが、日本人はみんな多かれ少なかれこのような気遣いはする。日本人以外はわからないだろうが。

日本人は空観能力という素晴らしいものを持っていることを自覚することが大切だと思うんだよね。変に利用されないためにもさ。




■なぜ慈悲は経済なのか


経済とは人は一人では生きられない。交換せずには生きられないという基本的な原則のこと。人がいるところには必ず経済がある。経済のもっとも原初の形態は、贈与交換。貸し借り。

wiki カール・ポランニー

経済の定義
人間は自分と自然との間の制度化された相互作用により生活し、自然環境と仲間たちに依存する。この過程が経済だとした。また、経済は社会の中に埋め込まれており(Embeddedness)、経済的機能として意識されないことがあると主張した。ポランニーは、「経済的」という言葉の定義について2つをあげる。1. 実在的な定義。欲求・充足の物質的な手段の提供についての意味。人間とその環境の間の相互作用と、その過程の制度化のふたつのレベルから成る。2. 形式的な定義。稀少性、あるいは最大化による合理性についての意味。前者の経済過程の制度化は、場所の移動、専有の移動という2種類の移動から説明できる。従来の経済学では後者が重視されているが、それは狭い定義であると指摘した。

日本人にとって、空や慈悲は、観念ではなく、現場的な経済です。

経済の基本の法則は、

贈与交換 贈り物とお返し、
再分配 税、
貨幣交換 お金による等価交換。

そして、慈悲は、

慈悲型の贈与交換。 返礼を求めない贈与。おもてなし。

まさに日本経済の豊かさは、慈悲型の贈与交換によって、みなが返礼を求めず贈与しあうことで支えられている。それは、日本人が空観をもっているから。そして日本人が謙遜するのも、経済の一環。

貨幣交換 (お金による等価交換) → 自由主義経済
再分配 (税) → 国家
贈与交換 (贈り物とお返し) →家庭、友達、親しい人々

これはどの国でもある。そして日本では、

慈悲型の贈与交換 (返礼を求めない贈与。) → 世間をみんなで豊かにする。おもてなし。

空、慈悲は、精神論ではなく、経済そのもの。

農業社会の前、狩猟社会では、原始共産制とも言われる社会ではあったと言います。一つの村が一つの家族のような。農業が発展すると富の蓄積ができて、その富を巡って、闘争がおき、勝った者か権力者となる。その権力範囲が初期の国家でしょうが。近代に繋がる巨大な国家は、それらを束ねる絶対主義国家の登場と言われます。

このような絶対主義国家は大航海時代など、農業を超えた公益によりより巨大な富が生まれたからです。

絶対主義国家と、近代民主主義国家は連続性があります。集約されて巨大な国家の富をいかに管理するか。そしてさらに発展するにはどうすればいいか。その解が自由民主主義です。

イタリア都市国家ポルトガル→スペイン→オランダ→イギリス、フランス。海外交易をめぐり、欧州の強国は移りました。これは富の移動であり、また政治体制の変化でもあります。絶対主義国家から、自由民主主義国家へ。

三段階に、経済構造を示しましたが、それぞれに主要な交換様式は先にあげたものになります。

原始社会 贈与交換 (贈り物とお返し) →家庭、友達、親しい人々

農耕社会 再分配 (税) → 国家

近代資本主義 貨幣交換 (お金による等価交換) → 自由主義経済


日本の場合、江戸時代は基本は農耕社会ですが、ブレ資本主義経済が育ち、江戸は世界一の商業都市でした。その中で日本人の慈悲型贈与交換は、農耕、資本主義経済を補完する形で広がりました、

再度、日本人の空、慈悲型贈与交換とは、すなわち勤勉です。勤勉とは一生懸命働くとではなく、世間のためにはたらくことです。近江商人の教え。「買い手よし、売り手よし、世間よし」。この世間よしが勤勉です。今もトヨタの社訓でもあります。

鈴木正三


どの仕事もみな仏道修行である。人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである。仏道修行で無い仕事はあるはずがない。一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えている。本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである。自身とはつまり仏であるから、仏の心を信じるべきである。

石田梅岩


士農工商は、天下が治まるために役立ちます。その中の一つでも欠けてしまったら、世の中はうまく動かなくなるでしょう。士農工商を治めるのは君主の仕事であり、君主を助けるのは、士農工商の仕事です。侍は、位をもった臣下です。農民は、野にある臣下で、商工は市井の臣下なのです。臣としては、君主を助けるのが正しい道です。


日本で勤勉のような自主的な経済活動が発展した理由はいろいろあるが一つは、戦国時代の下克上秩序崩壊が上げられる。飛鳥時代天皇を頂点とした中央集権を制定したが、実際は豪族、貴族とのせめぎ合いが続く。それが貴族の私有地である荘園制である。

貴族が私有地として土地を囲い、農民を働かせる。平安時代以降は荘園制の時代と言える。それが変わるのが戦国時代の混沌である。

権力構造の変化の中で、農民は自立し自治的に惣村と言われる自治村を運用し出す。村は治安維持の武士、商人、そして教育機関、情報機関としてのお寺を内包する。

戦国時代も収まり、秀吉、家康はこの自治村を利用する。荘園制では中間搾取が横行したが、より直接村から税を徴収する。それが新たな権力者と農民ともに有効である。検地で公平な税を、刀狩りで武士で、商人を城下町に移す。日本の農民が西洋のような農奴でなく、自治的、そして生産性を上げればそれだけ自らの富となる勤勉性はここから来る。

さらに自治において大きな役割を果たしたのがお寺である。主には葬式仏教。葬式の始まりは、家族を生み、そして先祖を生み出す。そして村としての共同体としての助け合いを生み出す。これを利用したのが、家康の寺請制だ。


贈与交換は、人間の経済活動の基本だが、その基本は知り合いに限られる。困ったときは助け合う信頼関係を作る。慈悲型は、助け合い圏がより広くなる。必ずしも顔を知らなくても、みなで助け合おうという経済だ。

日常の労働を仏行とする。わざわざ祈る必要も、座る必要もない。働くことそのものが仏行であり、慈悲である。この画期的な発明。

思い出すのがウェバーで有名になったプロテスタンティズムの天職概念。労働が天職という神に与えられた奉仕である。それが資本主義の原動力となった。日本人の職分仏行論、すなわち勤勉はこれに近い。しかし日本人の勤勉は、資本主義の初期に限らない。いまも変わらない。

勤勉の発明は、たとえば目の前の困っている人を助ける必要はない。他人に冷たくてもいい。ただ自らの仕事を全うすれば言い。貢献は間接的であることが重要だ。

様々な宗教の慈愛のような高度な行為を求めない、ただ自分の仕事を行うだけで、慈悲仏行なのである。高潔な精神性を求めない。理性も求めない。ただ懸命に勤勉であればいい。

西洋では、心の中に宿る絶対神に忠実、と言うことでしょ。そこにはすでに最初から絶対的な価値がある。しかし仏教では、神はいない。みなでともに向上していく。それが日本人の勤勉だ。


西洋においては、労働より思惟が高い地位にあります。肉体よりも精神が高尚です。勤勉の地位は低い。プラトン主義ですね。しかし西洋においても、プラトン主義が力を持つのは近代です。科学がプラトン主義だからです。

日本人も科学を重視しますが、日本人らしいとは科学よりも科学技術を重視します。技術は、プラトン主義だけでは上手くいかず、現場での調整が重要です。勤勉です。

西洋人はとかくプラトン主義であり、設計主義です。理想的な解があることを信じ、求めます。しかし日本人さ現場主義です。理屈では上手くいかないことを知って、最後は現場での調整、さらには改善します。それは理屈ではありません。

そこに空があるのです。理屈に囚われない。いつも脱構築する。そしてその原動力が世間ためです。すごい理論を構築して、我を誇るより、実際に世間の役に立つことが大切です。だから勤勉は公平でオープンソースです。日本にもジョブズ級の人間はたくさんいるでしょうが、無我を美徳とします。




■なぜ日本人は技術によって世界に慈悲を広めるのか


多くの家電製品はアメリカで発明されて、日本でおもてなしを組み込まれて中国で作られ、世界中に広がる。日本の工場での、品質、改善。かつては日本の経済発展の推進力と言われて、たとえばアメリカ製品は品質が悪く競争にならなかったものが、いまや海外でも日本人式の工場運営が広まって、高い品質を達成するようになっています。まさに空が広まった例ですね。

確かにこのようなシステムはマニュアル化されて、広まった面もありますが、それとともに従業員への教育、訓練が大切です。勤勉さはマニュアル化できない。

果たして、西洋思想と日本人の品質思想は、どちらが世界へより大きな影響を与えているんでしょうか。

最近、オゾンホールが小さくなったというニュースがありました。まさにここ数年の環境技術の成果ですね。環境技術と言えば、日本です。車にしろ、エアコンにしろ、快適を進めつつ、省エネする。ここには名もなき多くの技術者の勤勉さとサービス残業があったわけです。名もなく地球を救うって、超クールじゃないですか?さすが日本人ですね。

ほら日本人は勤勉の国だから、電車の管理も高度なように、電力の安定供給もすごいんだよね。海外だと結構不安定だったり、地域的にムラがあったり、だから日本はその分、自然エネルギーみたいな不安定な発生源を嫌う。クールで安定と言えばやっぱ、原子力だったんだけど、福島で使いづらくなって、だから火力でクリーンということで石炭発電を力を入れてるわけ。日本独特な事情だから世界的はわからんだろうね。

アメリカで開発された品質管理、生産管理、フォーディズムテーラー主義。そこから日本は多くを学んだ。しかし日本で成功したのは、そこに決定的な違いがあったからですね。それが空です。

アメリカ人は、大量生産の効率化を目指した訳ですが、日本人はそうではなく、おもてなしを組みこんだわけです。安くて、良いもの、使いやすいもの、世間が喜んでもらう。それはアメリカの品質管理と決定的に違うわけです。

日本人は空によって、とかく過剰になりやすい。たとえばガラパゴス化ですね。サービス精神が旺盛でやり過ぎる。

最近、電車が20秒速く出発してしまって、鉄道会社が謝罪して、世界が驚愕しました。世界的には数十分の遅れとかあたり前でしょう。とかく過剰になる。

擁護するつもりはないですが、日本人の品質偽装も、20秒なんですね。過剰品質故に不良が多く出る、そうすると社内ノルマの中で20秒ぐらいいいんじゃない、となってしまう。

松下幸之助も、日本の技術者はとかくやり過ぎる。それよりも、安く世間に提供することを目指した訳ですね。


日本人の空の一つの批判が、保守に傾きがちと言うのがある。すべての対立を回収する強力さからは革命は起こりえない。だから江戸時代から現代まで日本には革命はない。江戸時代に多くの一揆があったが、それは体制への抗議であって体制そのものの反対はこれっぽっちもない。戦後も自民党の一党政権が続いているのもしかりだ。これは日本人が権力に従順であるのとは違う。左翼構図、権力者と非権力者の二項対立が成立しない。権力者も日本人である以上、権力者たりえない。

近代化の中ですっかり日本史は左翼に捏造されて、武士と農民の関係は権力の二項対立になってしまったが、そもそも武士と農民は職業である。職業で区分しているであって、階級で区分しているのではない。江戸時代に以前から日本の農民は自立性が高く、自治を行い、そして国に税を納めていた。

武士の役割は今で言う行政、政治家である。彼らは民主的に選ばれたわけではないが、より専門職だった。そして職業を全うしない、勤勉でない者には世間は黙っていない。世間圧は武士において強かった。

この構図は今の自民党政権でも変わらない。彼らが政権にいられるのは、勤勉に務めて、世間を読み反映するからだ。党内、さらに野党と合議を目指す。その中で世間の反応を見る。

このような自民党政治は、先進国でも独特だ。西洋では、選挙で民意が問われて、政権を取ると与党の方針に進む。そのために定期的な政権交代によるバランスが重要になる。トランプが暴走しているが、任期があり実際に政策が執行されるのは、次の大統領のときだから、そのまま進めるか、次の大統領選で問われる。

先の日本で民主党が政権をとったときに、西洋式に党内、野党のと、調整はあまり行われなかった。世間を読むこともなかった。それが左翼のやり方だが、それが心情的に日本人の反発を招いた。空気を読めない左翼のイメージをより明らかにした。

日本では政治家はまさに江戸時代から世間の空気を読む。すなわち権力者と非権力者の対立を空により解体し、勤勉な日本人、すなわち世間の一部であることが大切である。


日本人は世界的に見て、そんなに他者に優しいか。おそらく直接的にはキリスト教徒の方がずっと優しいです。電車でお年寄りに席を代わるのに、シルバーシートなんていりません。ボランティアは市民として当然の行為です。多くにおいて日本人は他人に薄情です。日本人はあからさまな他者救済を好みません。

ここにも空があります。空においても、強者と弱者は解体されます。困っているから助ける。それでいいんでしょうか?それは自分が業者で相手が弱者として決めつけているようなものです。また助けられる方も弱者認定されて恥をかくかもしれません。

シルバーシートは、気兼ねなく他者を助けて良いしるしです。そこでは弱者であることを認めた人がいます。助けても相手に恥になりません。やや面倒くさいですが、それが、空です。それだけ難解で簡単に国民レベルで実現するようなものではありません。

日本人が空の実践として発明したのが、職分仏行論です。みなが勤勉に働くことが仏行である。このような間接的な慈悲では誰が強者とか弱者とか、あからさまな我もありません。このような空、慈悲の実践は日本人の発明です。

直接的には他人に冷たく厳しい日本人は、間接的に優しい。そして西洋に比べても、豊かで公平な社会を実現しています。日本人はお百姓さんに、技術者に、働く人々に、そしてその作られたものに、感謝します。

こうして、日本人は初めて空を国民レベルで実践しえた人々になりえたのです。日本人は、数々の奇跡を起こしています。江戸は世界一の人口を誇る大都市でしたし、調和されたエコシステムは、その清潔さはその時代では奇跡的でした。明治には短期で西洋に追いつき、戦後も奇跡の復活を遂げます。これらの根底にあるのは勤勉です。勤勉は懸命に働くことではなく、世間のために働くことです。空による労働です。


いまは高度成長期体制の延長だから、日本人の勤勉が閉塞してる。 勤勉を正社員雇用で賄うのは限界。 だからいままで率先していたサービス残業議論が出てくる。

時代に合わせて勤勉を発揮できる環境づくりということで、安倍内閣働き方改革はすごく大切なんだけど、国ができるのは大枠だから、基本は民間の力で変わっていかないと行けない。まだまだ時間がかかりそうだ。

いかに日本人の勤勉の力を活用するか。そこに日本人の未来がある。

日本の大企業も活力を失って、自由に勤勉を発揮できる状況にない。効率を求める処理的な仕事が増えてる。それに対して、ネットの登場で、安価に生産手段が手に入るから、個人が様々に生産する時代。今は、それらは一括りで趣味と言われている。

ようするに、個人の生産物を販売する手段が不十分だから。様々な得意な作業を販売する時代になるんだろうな。闇では、特定の企業をウイルス攻撃するハッキングが売りに出されているらしいが。

そこで注目されているのが、シェアリングエコノミーだ。
(続きは、みそけん大いに語る。その1参照)




■なぜ日本人はすべて慈悲を基本とするのか


仏教の最大の謎は、価値相対化の先に、西洋のように相対化、神経症の精神崩壊に陥らず、慈悲が立ち上がってくることだ。しかしそうではなく、慈悲は空に至る唯一の方法であり、慈悲により初めて、価値相対化が可能になるのではないだろうか。どちらにしろ、仏教の悟りは論理ではなく、体験なので、言葉では表せない。

慈悲の実践とは、見返りなくより知らない人により多くを与えること。返礼を期待してより身近な人により多くを与えるという文明の原点と言われる法則、すなわち贈与交換に逆らうこと。価値相対化であり、これはまさに神の行為とされてきた。

慈悲の特別さのもう一つは、これが自然の恵みのメタファであること。自然の恵みは見返りなく、分け隔てなく与える。しかし人が見返りなくより知らない人により多くを与えることは、頭がおかしい。やはり我が大切だから我に近い人に見返りを期待して与える。ここでは、自他が解体されている。生死しかり、そして有無も。まさに空である。

自然の恵みは空である。西洋の相対主義はどこにもいかない。ただの崩壊でしかない。しかし慈悲は空に近づく。相対主義でありつつ、崩壊しない地点。

慈悲は自然の恵みのようなものだとしても、仏教は慈悲を語るのではなく、慈悲の実践すなわち空に至ることを目指すものだ。

たとえばそのための有名な言葉は、親鸞の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」
これは弱者こそ強者に慈悲を施さなければならない。と言ってもいいだろう。日本人は現に実践しているこの意味を、西洋人は理解できないだろう。

慈悲は自然の恵みのようなものであるというのは簡単だが、実際に人がそのように振る舞うときに問題になるのはなにか?そこにこそ、キリスト教の慈愛とは異なる仏教の慈悲の真髄がある。

与えることそのものはそう難しくない。共感、同情、困っている人を助けるというのは、人の本能と言えるほど、基本的な特性だ。西洋人が仮にそれを愛と呼び特別なものに感じるとすれば、キリスト教の為だろう。あたかもそれが、神の教えのように再構築した。

難しいのは与えることではなく、見返りなく与えること。たとえば困っている人がいて助ける。そのときに助けた人が余計なことすると、言われると、せっかく助けてやったのに、なんだ!となる。与える、助けるとき、人はそこに自分を強者、相手を弱者、そして見返りの心理が生まれる。これもまた人の本能と言えるほど、基本な特性だ。

自分の恵みのように与えるとは、そこに強者、見返りの心理を持たないこと。これは、ほぼ人には無理な行為だ。しかし慈悲による空は、それを求める。

しかし困ったことに、慈悲の試練はそこでは終わらない。与える、助けるとき、自分は強者、見返りの心理が生まれ、与えられる相手は弱者、負債の心理をもつ。

慈悲は、見返りを求めない、とともに、相手に負債を与えないことを求める。そこに強者、弱者の関係が生まれないよう、求める。

たとえば自然の恵みでさえ、人はそこに負債を感じ、自然に感謝し、崇めるというのに、それを生むなという。慈悲いかに困難な実践かわかる。その不可能にこそ、唯一の空への実践としての慈悲がある。


日本人の道徳はこのような難解な慈悲が基本となっている。

たとえばおもてなし。西洋人の道徳則は合理的だ。困っている人がいれば与える。そこに強者、弱者が生まれたとしても、それで困っている人が助かるならそれでいいじゃないか。

おもてなしの理想とは、サービスを与えることだが、相手にサービスを与えられることに感謝する。すなわち強者にならずに、相手がサービスを与えられることを重く思わないようする。すなわち負債を与えない。

このように日本人の道徳則はすべて慈悲を基本とする。自らが強者にならないよう、。相手を弱者にしないよう、配慮することを基本とする。配慮の道徳だ。おそらくこのような配慮の道徳則をもつ民族は日本人以外いないと思う。

たとえば空気を読む。空気を読むとは、自らが強者にならないよう、。相手を弱者にしないよう、配慮しあうことを基本とする。

たとえば勤勉。勤勉とは、懸命に働くことではない。自らが強者にならないよう、世間(相手)を弱者にしないよう、配慮し勤めることを基本とする。

日本人が空に達してと言うことではないが、空の心を基本にしている。それを日本人の頭は知らないが、体が知っている。

実際、江戸末期以降、日本を訪れた西洋人が日本人召使いを雇ったときに驚いたのはこれだった。西洋の召使いは言われたことをする、する前にはお伺いを立てるのを基本とする。しかし日本人の召使いは慈悲を行う。主人に配慮しより自ら良い選択を行う。西洋人は少しプライドを傷つけられるとともにその配慮に驚き、心地よさを感じる。それが日本人の勤勉である。奴隷だからこそ慈悲を施す。




■なぜリベラル圧には逆らえないのか


ピラミッドが作られたぐらいだから、昔から算術はある。しかしそれを数学とすること、すなわち抽象化することは違う。設計など具体的な現場的実用的な知を、抽象化する意味がどこにあるのか。その起源と言われるのがピタゴラス教。ピタゴラス教は、算術を抽象化可能ことに、この世界の普遍的法則を見た。簡単には神の啓示を受けた。快感。そして神の言葉を探し求めた。

その弟子のプラトンはそれをさらに拡張して、数学を超えて、イデアとして拡張した。それはキリスト教神学などにも応用されるが、

しかしこのピタゴラス教が真に花開くのは近代だ。ニュートンが惑星の運行を簡単な数式で表したとき、世界が快感に打たれた。そして神の言葉探しが始まった。

ピタゴラス教は秘技であり、当時において変人集団だった。プラトンにおいてもそれは変わらないだろう。その変態が普遍であり正義とされる現代はなんなんだろう。近代以前、言語学と言えば修辞学であり、論理学はごくごくニッチだった。この現代の異常性はなにか。

なぜ変態ピタゴラス教、プラトン主義が近代に世界の普遍となりえたのか?この理由は簡単で、儲かるからだ。

数学、論理を基本とした科学技術は力となり、金を生む。すなわち農業社会から資本主義という経済的な変態へ移行させた。世界の価値観は、ピタゴラス教へと一気に変わった。

なぜ儲かるのか。行き着くと、なぜ世界は数学で記述できるのかとなる。実際に数学は科学技術として現実的に巨大な力を作り出すわけで、それが普遍、真理だから考えたくなるとは当然だ。

なぜ世界を数学で記述できるのか。数学は独立した知識体系で、発見ではなく、発明だ。新たな手法が開発される。現実との関係を持たないために、ある程度自由に改良される。さらには、世界を数学で記述できることは、論理的に考えても偶然でしかない。必然性を証明できることは不可能だ。

その中で、数学が世界を記述できる理由としては、もともと数学は算術から発生したということがある。算術は建築など現場を記述できるように考えられた。その抽象化から生まれた数学も、その特性を受け継いでいる。たとえばユークリッド幾何学の定義は、建築的であることが知られている。

しかしこれで言い尽くされたか?やはり数学は神が世界を設計した言語であり、それを人間が探すというピタゴラス教はあまりに魅力的、快感であり、現代では疑うことが難しい教えだ。


しかし当然問題もある。数学があまりに強力なために、人間も取り込まれてしまう。数学にすべてを抽象化するので、代替可能にする。1は1である。一人は1個であり、一粒である。それ対抗して近代に人権主義が生まれた。一人を1個に還元しないように。かけがえのない人として扱うように。

たとえばこれはものについても言える。近代以前、工芸品しかなかったが、近代には、大量生産品と、かけがえのない芸術品に分かれた。ピタゴラス教が協力である故にそれを補完する。そしてアウラな芸術品は高額となる。

さらに科学技術に対して、アウラを扱うのが近代哲学だ。もはや哲学は世界の真理を扱うものではない。近代、哲学は科学を補完して、アウラな人権を扱う倫理学となった。

科学の経済合理性に対して、アウラな人権倫理、それで本当に人は救済されているのか?アウラな人権など、すなわちリベラルとは、後ろめたさからくる都合の良い言い訳ではないか。

だから日本人はリベラルに警戒する。リベラルとは、異なる科学技術の扱いを編み出している。日本人は近代に、科学技術、産業、資本主義を素早く取り入れ自分のものにした。しかし方や、民主主義についてはいまだに根付いていないと言われる。ここにピタゴラス教に陥らない日本人の空の智慧がある。

経済、すなわち合理性と社会、すなわち民主人権主義の間に、世間、すなわち空、すなわち勤勉がある。

人権主義、平等、民主主義には、その最初に個人が前提とされている。等しい個人、ここに隠されたピタゴラス教。たとえば現代のリベラルにわかりやすい。平等という暴力。伝統や文化を排除する不寛容さ。

この平等主義に対して、日本人は空を持って対処する。男女平等を笑う。幼児性欲への不寛容を笑う。捕鯨反対を笑う。それが世間である。世間では曖昧さを曖昧さのままに生きる。世間の中では曖昧さの恐怖から発狂しない。


再度言えば、近代において、工芸品は、量産品と芸術品に分かれた。それは救済だろうか。経済合理性の空間から逃れていない。芸術品もまたその一部だ。

人権も同じことが言えないだろうか、多くにおいて、人は量産品として処理されている。このために個人という還元は重要である。それを人類といってもいいだろう。人類は近代に発明された。それ以前は、人間を一括りにする考えはなかった。そして個人の人権が意味するものはなにか。この芸術品は何を意味するのか。

世間はこの個人への還元をくじく。だからといって、経済に反発して、貧しくてもいいと言うことではない。経済も発展させる。どのようにか?勤勉によってである。それぞれが世間へ貢献することによって。

再度、言おう。全体の調和という美しさに現実を閉じ込めるピタゴラス教は狂っている。しかし近代にそこに力が宿り、そして富を生み出した。その時、妥協の産物として、個人、人類、平等、人権が生み出された。そこにあるものまたピタゴラス教の美しさに見せられた狂気である。

平等は美しい故に正しいのであり、まさに狂気である。平等、個人はグロテスクでしかない。誰も一人では生きられない。現場の泥くささには、個人、等しいなど存在しない。

ならば、不平等でいいのか。これこそトリックである。平等と不平等の対立など存在しない。平等こそが不平等を生む。

ならば、もっとベタに言えば、原始社会は平等ではないが、公平だった。日本人はそれを国家レベルで成立させている。空を使って。

経済的に言えば、平等とは等価交換、公平とは贈与交換、世間は慈悲型贈与交換により大規模な公平を達成する。

等価交換は、人を選ばない。どの人種だろうが民族だろうが、金を持っていれば交換する。ただし金だけの関係だ。交換したあとのたれ死のうが知ったことではない。それが自由平等だ。

贈与交換は貸し借りだから信頼関係でしか成立しない。だから原始社会のような小さな集団では公平な関係を作る。困ったものは貸し借りにより助けられる。しかし知らない人は排除する。

日本人の慈悲型贈与交換は、見ず知らずの人々との貸し借りを可能にした。慈悲とは見ず知らずの人に見返りなく与えること。勤勉であるとはそういうことだ。売り手よし!買手良し!世間よし!

平等がいかに経済合理的に都合が良いかわかる。人権という名の下に、抑圧されて隠されているものは。

日本人の慈悲型贈与交換は、見ず知らずの人々との貸し借りを可能にした。慈悲とは見ず知らずの人に見返りなく与えること。勤勉であるとはそういうことだ。

より具体的に言えば、勤勉の発明は、たとえば目の前の困っている人を助ける必要はない。他人に冷たくてもいい。ただ自らの仕事を全うすれば言い。貢献は間接的であることが重要だ。

それによって、国家単位の贈与交換を可能にした。

平等は、貨幣と深い関係を持つ、貨幣は最大の平等主義者だ。相手が誰だろうか、貨幣を持つかどうか、それがすべてである。現代ではこれは当たり前すぎる。

しかし歴史的に、貨幣交換は特殊な交換であった。たとえば貨幣交換をになってきたのは商人であるが、社会的に忌み嫌われてきた。ベニスの商人

歴史的に基本となってきたのは贈与交換である。貸し借り。現代でも、家族や親しい人たちの間では、贈与交換が基本である。親しい人たちに、貨幣等価交換を強いるのは失礼でもある。貨幣等価交換は美しい。瞬間に精算されることの美しさ。しかしそれはグロテスクである。

貨幣等価交換はとても失礼で、不快な行為である。それは関係の精算だからだ。貨幣等価交換のあとにはなにも残らない。赤の他人だ。

贈与交換、貸し借りは、決して精算されない。永遠に続く信頼関係であり、困ったときに助け合う。


現代、個人が孤立することが問題になっている。それは平等の当然の帰結だ。平等は貨幣等価交換に支えられて初めて成立する。貨幣等価交換を国家レベルで成立させるために求められる。自由主義経済の発展は、貨幣等価交換、そして個人を平等に分断させることでしか、成立しない。人が個人という粒子となり、自由にブラウン運動するとき、自由主義経済は最大に活性化される。

その流動性の中で個人は孤立し、自らの位置を見失う。そして多少、何割かの粒が死のうが、全体の運動には大きな影響はない。平等は社会保障で補完される。それは金の補充である。

リベラルとは個人に干渉せず、金を与えて最低の生存を保障することである。ベーシックインカムは個人に最低の金を与えられて、好きに暮らせるから気楽かもしれない。その気楽で、自由と思っていても、自由主義経済のブラウン運動として、踊らされている。最大限に個々の関係性は貨幣により精算されて、分断されて、すべてを貨幣に依存するしかない。

人々は、歴史において、貨幣等価交換の強力な精算性を嫌い、排除してきた。それは共同体を分断するものだ。そして贈与交換を基本としてきた。決して精算されない交換関係。困ったときは助け合う。

共同体内の信頼関係を基本として、流動性は抑えられて、個々人は共同体内で役割を持つ。平等ではないが公平である。公平でなければ信頼関係が成立しないからだ。近代の自由主義経済のように経済成長はしない。進歩もない。同じ時が流れていく。

ただし贈与交換の大きな問題は、規模に限界があること。信頼関係が成立するには、赤の他人ではだめで、集団の規模に限界がある。そして共同体がいくつもできる。そして共同体間で絶え間ない争いが起こる。

それを補完するための装置が世界宗教である。世界宗教は、共同体を超えて、神の下に緩やかだか大きな規模の助け合いの信頼関係を作る装置として生まれた。キリスト教しかり、仏教しかり。

遠隔型贈与交換である。同じ信者だから知らない者同士でも信頼して助け合おう。共同体間の争いを緩和して、共同体からこぼれた人々を救済する。日本人の慈悲型贈与交換もこの一種といえる。


リベラル圧にはなかなか抵抗できない。やがて日本のイルカ漁はなくなり、捕鯨もどんどん縮小していくだろう。

リベラル圧とはなにか?国際標準であることだ。西洋ではこんなに人権が進んでいる。日本は遅れている。

それは単に思想的なものではなく、経済的な圧力を持つ。世界経済の中でしか生きられない以上、世界の常識に従うことになる。そうすることが、経済上、効率的、合理的になるからだ。

捕鯨など儲かりはしない。なら無理に続ける必要はない。イルカ漁にしても経済的な何の意味もない。

そうしてどんどん日本もリベラル化しているが、では世界標準にすべてが向かうのか。

性関係の問題は、難しい問題だ。男尊女卑の問題、そしてロリコン問題。オタク文化は国際標準としては、取り締まりの対象だろう。あからさまに幼児を性の対象とすることはリベラルには認められない。国際倫理団体からの活力もあり、ロリコン防止法は成立したが、まだまだ実質的な稼動は低い。最近、るろうに剣心の作者が所持で逮捕されたが、有名人をつかまえて社会的に圧力をかけるのは、麻薬などで見られる常套だ。全くのざるという訳でも内容だ。これらはオリンピックに向けての町の景観からも圧力が強まると言われる。

最近では、コンビニのエロ本も問題になっている。あれも近いうちになくなるだろう。今どきコンビニでエロ本を見るのはお年寄りか?今後、売り上げもどんどん下がるし、なくなるとは時間の問題だろう。

少年マンガのグラビアも、リベラル的には問題とされている。そこまで厳しくなくてもと思うものが、数年すると、世界の常識が変わる。

みそけん、大いに語る。その1

ここ数ヶ月、5ちゃんねるの哲学板で語った内容を掲載します。
スレッドは、「カール・マルクス」、「ものすごい勢いで誰かが質問に答えるスレ」、「仏教哲学」。
まずは、第一弾。「カール・マルクス」スレッドで語った内容から、どうぞ♪

なぜ農業社会では人権は成立しなかったのか
なぜ自由主義は格差を生み、共産主義独裁制に落ちるのか
なぜアメリカはかっこいいのか
なぜ自由主義は格差を生み、共産主義独裁制に落ちるのか その2
なぜ自由主義は成立できてるのか
なぜ日本はもっとも成功した社会主義国家になったのか
なぜ日本は世間社会主義なのか
なぜシェアリングエコノミーは、真のIT革命なのか。




■なぜ農業社会では人権は成立しなかったのか


農業社会から資本主義社会へのシフトは、人類史においても画期的な出来事だろう。マルクスもそれは否定しなかった。なんといっても「マルサスの罠」を抜けたのは画期的だ。農業社会では、社会全体の生産性を上げるためには、新たな土地を開拓し、耕地面積を広げなければならなかった。しかしそれは簡単には進まない。対して、人口は性交により簡単には増える。特に避妊ない時代だ。だからいつも人余りの時代だった。中絶はないので、生まれてすぐに間引きする。あるいは育っても土地を次ぐ長男以外は売られる。

でなくても、家を出て自らの生きる糧を得なければならない。その一番が兵隊になること。すぐに食料にありつける。うまくすれば出世できる。帰る場所もないので闘いで死んでいくことがほとんどだ。各国は土地の略奪をかけて、無駄に余った人口を使って絶えず戦争する。勝てなくても無駄な人が死ぬので意味がある。このように農業社会ではマルサスの罠から、人はいつも過剰で価値は低かった。人権なんてなきに等しい。

資本主義社会は、このマルサスの罠を突破した。経済が農業から、工業、商業へシフトすること、すなわち社会が分業体制になることで、社会の生産性は土地から解放される。人は労働力として、いるだけ価値を生む。人口と国民総生産の関係は比例するようになる。国家は人口を、国民として明確な境界を設けて、他国への流出を防ぎ、抱え込むようになる。そして国の生産性をあげるために、義務教育を実施する。国民の知的レベルを上げて、優秀な労働力にしあげて、国民総生産を上げる、すなわち経済成長率を目標に国家運営を進める。また国家単位で、人の生存を管理するよう、様々な衛生管理政策が進められて、人の価値が上がるとともに、人権概念が生まれて、民主主義、そして法治国家へとシフトし、各人が自由に競争して、さらに経済の成長を目指す。

人類史において、マルサスの罠でほとんど増えなかった人口は狂ったように増えていく。そしてそれでも、それだから経済は成長して、社会はどんどん豊かになる。

農業社会が階級制だったのは必然ともいえる。そもそも社会は人口全体を養うだけの富はない。人権という概念は成立しない。当然、社会の中で生存の競争が起こる。そして上流は自らの生存を保障するために、同じ人間ではない、すなわち違う生物だという構造を作る。下流は教育もなく、自らを下等な動物であることをただ受け入れて、日々農作業に従事する。それが原始社会から農業社会移った何万年か、続いてきた。資本主義へシフトするまで。

しかし資本主義へシフトするはじめは、多くの問題、格差を生み出した。農業社会の人に価値がない文化の中で、資本主義のシフトでは、人は奴隷として働かされた。そして資本家は農業社会での搾取以上の膨大な富を独占した。戦争も農業社会での延長で常態化したが、兵器の強力化により、今まで以上の戦死者が生まれた。

それが改善され出すのは、二度の世界大戦の教訓を得てからだ。現代でも軍事費は増え続けているが、基本的に先進国同士は戦争をしない。高度に発達した豊かな社会、また各国同士が国を超えて密接につながる経済では、戦争はあまりに非経済的な行為である。

農業社会の戦争のように、他国の土地を奪うことが自国の豊かさに繋がることはもはやない。やるならば経済戦争だ。




■なぜ自由主義は格差を生み、共産主義独裁制に落ちるのか


社会主義思想は、資本主義化が進む早い段階からあった。フランス革命ではまだ自由と平等は切り離されていなかった。貴族制から解放されて、より自由な経済活動をしたい程度のものだった。左翼的にはプルジョア革命である。

ブルジョア革命により資本家主義が進む中で、農業社会の文化から、労働者は下等な生物のように扱われることが問題になり、自由と分かれて、平等が重視される思想、社会主義、そして共産主義か生まれる。資本家が独占する生産手段を労働者の管理下において、共同運営し、生まれた富を平等に分ける。このコンセプトはマルクス以前からあった。

多かれ少なかれ、このような社会主義は取り入れられていく。特に国家運営としての社会主義化が進む。第一次世界大戦後の世界恐慌のあと、自由主義の危険を知り、国家が経済に介入する。国家が銀行を積極的に管理して、銀行を中心に産業を調整することも、当然、社会保障制度の充実など。国家社会主義党のヒトラーは、ハイウェイの建設など国家事業を推進して、第一次世界大戦で崩壊したドイツ経済を立て直した。またアメリカでは、ルーズベルトニューディール政策として、国家主導の産業推進を進めて、経済を回復させた。日本もまた満州に始まる国家主導経済を本国でも導入して、国家総動員体制を推進する。

これらの国家社会主義化が、産業としての軍事の強化にも繋がり、第二次世界大戦に繋がったのは皮肉だ。第二次世界大戦は、遅れて産業化して国、ドイツ、日本、アメリカが先にいたイギリス、フランスに挑んだ闘いだと言える。国家社会主義はその力をため込む役割を果たしたと言える。

自由競争をやめて、生産手段、富を等しく分配する共産主義は、社会主義の中でもハードルが高い。第二次世界大戦中にロシアで、共産主義国家が誕生したのは画期的である。なぜロシアなのか?一つは資本主義化が不十分で、自由主義陣営の抵抗が少なく、農業社会が中心であった後進国であったためか?世界大戦後に本格的な運営に入ったが、一時期は経済も成長して、資本主義の不況を尻目に、未来の政治システムとも言われたが、結局、ソ連の崩壊とともにその失敗が明らかになる。ほとんどの共産主義を目指した国家は独裁制に移っていった。

富を分配するために、富が中心で管理されるために、中心に権力が集中して、一度手に入れた中心の座を譲らず独占した。中央集権の危険が起こった。ほぼすべての共産主義国家で同じ問題が起こることが決定的な欠陥ともいえる。

生み出された巨大な富をどのように運営するかは、資本主義の基本的な課題である。自由主義の対策は、格差はあっても、自由競争により流動されること。いかなる金持ちも競争にさらされて、富を失う可能性があることである。

資本主義は、分業体制で飛躍的に生産効率が上がりこれだけ豊かな生活ができている。分業体制を支えるのが貨幣。すべてが貨幣価値に一元化される、すなわち商品となることで、分業体制が成立している。お金さえあればなんでも買える。だから人は分業体制の一部として働くだけで良い。

資本主義の問題として上がるのが格差。格差も自由競争の結果だから、資本主義の原動力なんだけど、格差が固定化する面がある。

ピケティが示したように資本主義は格差を固定させる面がある。労働による努力より、金融の方が金を生む。すなわち金持ちに優位。それは自由競争の不徹底なんだろう。金持ちには情報においても、優位な話しがくるし、知識も集まる。




■なぜアメリカはかっこいいのか


自由主義では、自由競争のリスクは避けられて、勝ち組は勝ち組で徒党を組み、負け組を排除し続ける。それは当然のこと。特にアメリカは、この傾向が強い。恐ろしい富の集中があり、それを許容しているのが、アメリカ文化。自由競争を超えて、弱肉強食を許容している。強いものが勝つのは正しい。

アメリカニズムの基盤を考えると、一つはピューリタンニズム、二つは開拓精神、三つは合理的科学主義。ここから生まれたのが、キリスト教原理主義プラグマティズム自由主義、自由競争、科学至上主義、ハードボイルド。

アメリカでは、開拓精神から言葉より実働が重視される。結果を出すものが正しい。だから自由競争も許容される。タフであること。

それでいて、ピューリタンニズムから厳しい倫理は重視される。排他的な面も強い。根強い黒人差別も、キリスト教原理主義と結びついている。白人至上として。

そしてなんと言っても、特徴的なことが、科学主義。マッドサイエンスの国だ。深い科学信仰があり、すべてを科学で記述できると考えている。心理学、認知科学社会学、遺伝工学、経営学、特に人間科学においては飛び抜けている。

たとえばIQはアメリカで開発されて、アメリカではIQで人間の良し悪しを図る。日本ではIQはネタでしかない。そんな数値で人間が測れると考えない。

20世紀はアメリカの世紀であるが、いまにつながる豊かな消費社会を作ったのはアメリカの、タフな勤勉さと、科学的合理性である。楽観的科学的主義。

アメリカはいまも啓蒙主義を生きている。19世紀のタイムカプセルである。啓蒙主義とは、楽観的な科学主義である。科学的な合理性で世界を設計することで、人々が幸福になると素直に信じられていた時代。理性とは人を科学的な合理性に位置づけための単位である。プロテスタンティズム啓蒙主義を持って、彼らは海を渡った。

そこから最初に生まれた思想がプラグマティズムである。実動を重視する。結果がすべてである。またそこ時代にアメリカ人が熱狂したのが進化論だ。特に社会進化論。弱肉強食は社会の摂理であり、格差はあって当然のもの。ヒトラー社会進化論を重視し、科学主義により、ユダヤ人を虐待したが、いまも世界で社会進化論を信じているのはアメリカ人だけだろう。

遺伝子工学認知科学、心理学、クローン技術、経済学、経営学ゲーム理論など、社会科学がアメリカが中心であるのは、楽観的科学主義により、倫理が低いからだ。マッドサイエンスの国。うるさいのは、キリスト教原理主義ぐらいだ。キリスト教に抵触する部分で急にうるさくなる。中絶や、進化論を信じないとか。

もう一つ、楽観的科学主義がアメリカ以外で、後退したのは、世界大戦の影響が大きい。楽観的科学主義のもと、突入した世界大戦において人々は地獄を見ることになる。科学的に発展した兵器の前に、人は動物になる。人権は失われて、名もなく消えていくのみ。その極限がホロコーストである。欧州もアジアも、傷を負った。ただアメリカだけが、本土を戦場とせず、むしろ世界一に成り上がった。その後、ベトナムイラク戦争を経験するが、遠い国の出来事だ。

IT革命がアメリカ人にしか無理なのは、IT革命は科学的合理主義の上に立っている初めて可能だ。IT革命は簡単に言えば、サービスをセルフサービスにして、コストを下げること。情弱は排除する弱肉強食、すなわち社会進化論の系譜がある。

特に日本人のように情弱を含めて補完することを基本とする国には無理だ。マイクロソフト、グーグル、アマゾン、ツイッターなどなど、いまや世界企業の彼らも、ユーザーへのサービス体制はなきと言って良い。

人々もパナソニックには文句を言うが、グーグルに文句を言っても仕方がないことを知っている。

そこにはまた、選民思想がある。セルフサービスできない、自己解決できない奴は情弱、負け組。社会進化論的に劣った人間。

アメリカ人のIT革命はいつもこの選民思想を基本に躍進してきた。最近のiPhoneに熱狂し、ガラケーを蔑視する日本人は、アメリカニズムの選民性の優越に乗っかっている。

弱者を置き去りにどんどん進むアメリカのかっこよさ。弱者に配慮し続けて全体を考えて、なかなか進まない日本人。

だからアメリカ人は競って、勝者になろうと競争を繰り広げる。それが活性となる。弱さを見せない。実行し勝つ。ハードボイルドだね。




■なぜ自由主義は格差を生み、共産主義独裁制に落ちるのか その2


マルクスの革命論はどこまでも論理的なもの。唯物史観があって、農業社会から資本主義社会、そして社会主義と移る。そして資本主義がなぜ社会主義へ変わるのかも、資本論において必然的。

実際、革命に暴力的なもんがあってもそれは変化のための結果であって、暴力革命ではない。

逆に言えば、それがマルクス主義の弱点。論理的に出来過ぎている故に、もろい。なぜ共産主義はことごとく、独裁制となるのか。簡単に言えばあまりにも人間を信じすぎているから。左翼はいつも甘い。

ピケティも資本主義が絶対的に世界を豊かにしていることは否定していない。ピケティが問題にしてあるのは、格差が固定すること。金持ちは金持ちで居続ける、

マルクスは資本主義を否定したわけではない。先の階級制社会からのプルジョア革命としては評価した。しかしそれだけでは不十分でプロレタリア革命が必要と考えた。必要というか、プロレタリア革命が起こり社会主義へ移るのが歴史の必然と考えた。たとえば資本論で商品、貨幣がいかに偶然の脆いものかを示すことで、世界恐慌により破綻をきたすと考えた。

シュンペーターイノベーション論は別の文脈から生まれた。セイの法則のように、資本主義は初めは生産が先行していた。いかに安価に大量生産するか、作れば消費はあとからついてくる。

生産も飽和に近づく中で、シュンペーターイノベーションのように、経済発展は、創造的破壊により、非連続に発展するや、ケインズのように消費重視の経済学へ変化する。実際、フォードの安価な自動車の大量生産は画期的であったが、すぐに単に安いだけでなくデザインなど付加価値を求められるようになった。


ケインズ有効需要論で、無駄な公共事業でも需要を作る出すことが、経済の発展に繋がるという、現代のマクロ経済論の基礎を作った。マクロにおいては無駄遣いこそが人々を豊かにする。それまでの、ものを大切に、清貧の思想とは逆の世界がマクロにはあるという、現代でもなんだかんだ言って、経済政策はケインズを基本としている。

ハイエクケインズのライバルで、アメリカの新自由主義政策で脚光を浴びた。自由な経済活動こそ、社会を豊かににする。これはピケティの資本主義の格差論と対立しない。まだまだ自由が足りないから、格差が生まれると考えることができる。自由が中途半端だから富を持つものが有利に働く、それがいまの資本主義だ。

要するに、ピケティは過去のデータから格差の固定を明らかにしたか、なぜかまでは明らかにしていない。

やはりポイントは資本だろう。資本とはなにか。交換手段でも、蓄蔵手段でもなく、積極的に金を生むために活用される金だ。金を貸す。そして時間をおいて返すときに増えて返ってくる。貨幣は交換手段においては、等価交換であるが、資本は金を使った贈与交換なのである。

贈与交換はそもそも信用を基本にする。信用なく、ものを貸しても返ってくる保証はない。等価交換はその場で一瞬で等価に精算されるので信用はいらない。

信用とはなにか。相手を見極めることだ。自由主義は、経済性を最優先に自由競争を行うことを求められる。相手が誰かではなく、もっとも経済的によい条件の相手を選ぶ。公共事業の入札が理想だ。

しかしここで資本の信用はグレーとなる。誰を信用するか。ここに客観的な判断は難しい。そして好き嫌いや、あるいは個人的な裏金など、おもわくが入る余地が生まれる。贈収賄

マルクスは資本そのものの金の分配を問題にしたが、贈与交換としての信用には触れなかった。なぜかわからない。アダムスミスなど正統派経済学を目指すマルクスは、贈与交換のようなグレーなものは入れたくなかったのかも知れない。この贈与交換、信用を排除したマルクスの潔癖さがその後の共産主義の躓きとなる。

なぜ共産主義はかならず独裁制に陥るのか。すなわち中央は贈収賄にまみれるのか。中央に集まる巨大な富の分配過程で生まれると、贈与交換に対処する機構がない。中央の官僚は潔癖でしかあり得ない。それが、マルクスの真面目さだ。

資本主義では、富は社会に流動して、中央に集まるのは一部である。さらに自由競争、機会の均等は簡単にギャンブルの世界だ。偶然が絶えず侵入して、誰にも負ける可能性がある。政府も偶然から無縁ではない。

柄谷がくじ引きで官僚を決めると言ったとか。まさに共産主義の中央に偶然を侵入させないと、信用という魔物を排除することはできない。権力は、必ず腐敗する。特に共産主義社会において、ということ。

今では贈収賄ゲーム理論において理にかなっている。長期間継続するゲームにおいて、信用により仲間を作ることが、決定的に有利である。ゲーム理論ごときが示すものは、当然人は社会で実行している。

すなわち贈収賄は貨幣交換に先行する。人は贈収賄を基本に経済を運営してきた。貨幣等価交換は最近後からきた新参者だ、交換とはそもそも贈収賄なのである。この基本的なことがマルクスにはわからなかった。

いまだに韓国は汚職国家だし、中国は習近平汚職撲滅で党員の大量粛清を行った。日本もリニア事業で大手ゼネコンたちの談合が問題になっている。

ある意味当然である。できるだけ自由競争を回避して贈与交換にすることが、勝負には合理的である。賭け事をするなら、元締めを味方にすることがもっとも確実な必勝法だ。先に贈与交換があり、近代に自由競争が入ってきた。

ハイエクの積極的な自由主義とはそのような意味でもある。さすが自由主義の祖ヒュームの継承者。自由競争は、徹底しないと雑草は増え続ける。自由は放任ではなく、自由は積極的推進するものだ。社会に偶然を侵入させて、活性化することで経済発展は生まれる。

マルクスは、資本が生む金を問題にした。これを労働者からの搾取と考えた。なぜ金が金を生むのか。金を貸すことは、返ってこないリスクを伴うからだ。投資することで、回収できないリスクがある。資本家はそのリスクを背負っている。そのリターンだ。

資本はそう簡単に金を生むわけではない。ケインズのアニマルスピリット。リスクのないところでの投資はリターンも少ない。さらに多くのプレーヤーがいて自由競争にさらされる。儲かるのは、リスクの高いところ。ベンチャーや、途上国など、未開の部分にアニマルスピリットで投資するときに儲かる。

問題は、この部分への投資の公平性。このような情報は裏情報になりやすい。金持ちに話が回ってくる。あるいは、リスクが高い投資は貧乏人には難しいなど。

すべて贈与交換が問題なんだよ。身近な人と助け合うという人間本来の性向。金持ちは金持ちで助け合い、リスクを減らす。自由主義は自由競争をスローガンにするがどこまで言っても限界がある。基本、自由競争なんて恐ろしいこと誰がやるの。

逆にブルジョワ革命は、贈与交換を解体にある部分成功したから、いまがある。ブルジョワ革命の起こした人類史の格差問題の解決。それを認めるべきだね。

なんと呼ぼうが、ブルジョワ革命は起こり、人類は解放された。結局、安倍政権のいまの日本は、人類史上、最も豊かで公平な社会であるんだから。その事実は認めないと。

再度、まとめると、資本主義において、金が儲かるのはリスクの高いイノベーションへのアニマルスピリット。そして成功して一度勝ち組になると、勝ち続けやすくなる、

流動性が低く、格差が固定しやすい。だからリスクを生む状況が定期的にあることで、流動性が生まれる。それが戦争。戦争だけが格差を解消する。それがピケティ論。




■なぜ自由主義は成立できているのか

wiki
社会主義(しゃかいしゅぎ、英: socialism)は、個人主義的な自由主義経済や資本主義の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想、運動、体制[1]。歴史的にも社会主義を掲げる主張は多数あり、共産主義社会民主主義無政府主義国家社会主義なども含む[2]。

社会主義はフラン革命前?からあるわかりやすい考えだ。富をみんなに等しく分ける。むしろわからないのが自由主義。みんな好き勝手にやれば豊かになる?自由主義はどう考えても、人の思考からは出てこないだろう。やはり大航海時代以降の、実際に進んだ歴史、重商主義重農主義の流れのなかからしか出てこない。

大航海時代の交易により生まれたいままでにない巨大な富、まず重商主義はそれをゼロサムゲームとして、国家間で取り合った。自国に溜め込むことが最も富む方法と考えた。重農主義では、ただ交易の利益だけでは発展がなく、それにより自国の農業の発展を重視した。しかしここから飛躍がある。違う富は溜め込むものではない。活用してより富を生む。それも国家管理を離れてより自由に。こんなことだれも信じないし、現にイギリスが成功するまでは。

この発想は、実際に外交官として飛び回ったヒュームの実地の経験がなければ生まれなかったかもしれない。まさに活発な交易の現場で、肌で感じたんだろう。無駄な干渉はやめて自由にやらせれば良い。

それ以前に、ヒュームがフランス啓蒙主義から離れていたのが重要だろう。フランス啓蒙主義の合理性からは単純故に社会主義しか生まれてこない。イギリス啓蒙主義は、関係性重視の系譜がある。社会の基盤は、黙約、共感にある。その道徳哲学しか、自由主義という発想は生まれないだろう。みんな自由にやれば社会は豊かになる。いまだに信じがたいこの思想。

方や、ヒュームは、ベンサム功利主義の元と言われる。アダムスミスの神の手という楽観主義に比べて、効用を経済学に導入して、合理的な分析した。自由主義は単に人の善意によるものではない。効用を得られるという合理的な判断をもとにしている。そこにあるのは、ゼロサムゲームを超えたウィンウィンな関係だ。互いに協力して互いに効用を得られる。

しかしどちらにしろ、19世紀末のまだ楽観的な時代であることは確かだ。20世紀に入り、実際に運用が始まると現れたのは、凄惨な格差社会である。

ヒュームの思想はハイエクに継承されるが、実際に見直されるのは、20世紀末の新自由主義である。社会主義は、国家社会主義として世界大戦を生み、共産主義の実験は壮大に失敗し、そして現代、ヒュームに回帰した。

それでもいまだに自由主義はなにか謎である。管理のいない自由放任の世界。なぜそれがこんなにうまくいくのか。

その一つの解を与えたのが、ウェーバーの資本主義の精神とプロテスタンティズムの倫理である。勤勉であることが自由主義を支える。現にイギリス、アメリカとプロテスタトの国が成功している。特にアメリカ人は勤勉である。その根底に開拓において、働かなければ生きていけないこと、さらに働けば実るという体験がある。西洋では労働自体が卑しいものという思想がある。西洋の勤勉とは古い思想に囚われないことが重視である。

そして日本。世界一の勤勉の国である。当然、プロテスタンティズムではなく、独自に仏教から導き出した。特に江戸時代末期から勤勉思想が広がり明治の近代化の発展を支えた。その後も、戦後の高度成長期、そしていまも変わらず。日本人がピケティの格差論に当てはまらない理由の大きな理由の一つがここにある。

なんだかんだいって、民主主義の一番の問題は金がかかることだよ。1回セックスすると子供ができるわけで、ねずみ算式に人口は増える。急激に増える人口に対して、人権を確保して、平等を維持する。どれだけの金がかかるか。その意味で、自由主義は経済的な解だよ。
機会の平等の元、自然にゆだねる。金がかければないなりにやりくりする。

そこに言われるのが、北欧信仰。北欧では高い税金を払う代わりに、社会保障を充実されている。人々の充実度も高い。でも小さな規模だからできるんだろうと言われる。ようするに、北欧の経済は閉じているわけではない。輸入もすれば輸出もする。自由競争に値段の下がった製品や、途上国の安い製品を買っている。だから北欧のようなことを世界レベルでやったとき、もう逃げ場はない。閉じた中で成立できるか。

あるいは、ベーシックインカム。最初にある程度のお金を等しく渡す、って、それが無くなったらどうするの。社会保障費をそこに使ってると、もう補助する財政ないよ。共産主義のように、経済そのものを国家管理する。平等にする。言うのは簡単だけど、人の活動全般を管理するってどうなの?




■なぜ日本はもっとも成功した社会主義国家なのか


アメリカの占領政策にある。最初、アメリカは日本が再び戦争に走らないよう、軍部右翼を抑える政策にでた。日本の愛国政策は禁止、教育は左翼系の支配下になる。この時に平和憲法ができた。

しかしすぐにソ連との対立が始まり、朝鮮戦争が勃発。方針は真逆になり、右翼を解放、左翼を抑えて、日本に軍隊を作り、朝鮮に出撃するよう迫る。そのときできたのが自衛隊、そして自民党55年体制

政治は、アメリカとの安全保障条約とともに保守が引っ張ってきたが、教育現場はいまも左翼が強く、愛国教育をガードしている。保守政治国家でありつつ、愛国を語ることがタブーの国になった。ここまで自分の国を誇ることができない民族も、世界的に他にいないだろう。

愛国はグローバルスタンダードだよ。自国を誇ってあたり前。アメリカ人とは愛国すぎ。自分たち大好きすぎだろう。

日本人のほんと面白い特性で、日本人のことを語るとき、ネガティブにしか語れない。トラウマ的失語症になった。戦後後遺症だな。

それでも政治は保守が勝ち続けるのが面白いところ。言葉にしようとすると、言葉がでなくなるんだろう。精神的病だよ。

日本人の精神性は仏教の無我から来てるから、自らを主張せず、謙虚であることが美徳なんだけど、この場合は、謙虚と言うよりも、言葉が出てこない失語症。精神的病に近い。世界では賞讃されているのに、自らガラパゴスとか揶揄する。日本人を一番否定するのは日本人(笑)

日本人の精神性の原点がどこか、周り見てみればわかる。お寺だらけ。時代劇でも、みんな信心してるだろう。仏教だよ。仏教は無我の宗教。西洋が有我なら、日本人は無我。自らが出ず、相手を立てることを美徳するんだよ。空気読むのはうまいのに、なんでうまいかもわからん。無我を美徳とするからだ。

西洋は有我の思想、日本は仏教から無我の思想。特に、世間主義。日本人の富は国有ならぬ、世間共有財産の面を持つ。ある種の社会主義的であるが、共有が無我に支えられている点で大きく違う。また共有は国家運営ではなく、世間には中央がない。

もうみんなすっかり忘れてしまったが、明治以降、日本は今よりずっと自由競争社会だったということ。企業は株主を重視して、株式から資金を調達して、そして株主に還元する。従業員の流動性は激しく当然、終身雇用などない。景気が悪くなればバサッと首にされててる。また会社自身も競争が激しく、できては消えるを繰り返す。資金のあるものは株主になり儲け、労働者は低賃金ですぐに首を切られる、まさに自由主義格差社会

さらには明治政府の地租税改革は、農民に厳しく、地主に有利な税制だった。明治政府はとにかく金がなかった。江戸幕府、そして各藩は金がなくて借金だらけで、抵抗なく廃藩置県に応じたと言われる。それを引き継いだ明治政府も借金まみれで、しかし産業育っていたい時代、金を取るのは農民からしかない。税金を払えない農民は地主に土地を売る。地主、資本家が富み、農民、労働者が貧しい超格差社会だった。

産業振興もあり、企業に課する税金は安いだけでなく、殖産産業で政府が投資した工場を資本家にただ同然で払い下げる。いまのアメリカに近いような格差社会だった。

明治政府は左翼を徹底的に弾圧した。欧州視察の時代はまさに西洋革命の時代で、左翼の恐ろしさをまざまざと見てきたからだ。超格差社会でありながら、西洋のように労働運動が抑圧される。その頂点が昭和恐慌だった。世界恐慌と連続して起こった恐慌に、農民、労働者は子供を売るほど、苦しんだ、

その中で立ち上がったのが、右翼の青年将校たちだ。彼らの多くは農家の出だったら。226事件までの数年間は青年将校たちによる財閥幹部、政治家を狙った暗殺、そして国家社会主義を目指したクーデターが繰り返された。結局、226事件にしろ、クーデターは失敗に終わり、彼らは逮捕されて処刑された。しかしこれ以降、政治の主導権は軍部に移った。そして軍部、官僚主導の昭和維新政治改革が行われた。

それは国家総動員体制として、軍事費調達の政策の面が強調されるが、そこには、自由主義格差社会から国民のための国家社会主義的な政治転換の意味も大きい。まず株式相場は政府の管理下に置かれ、配当は制限された。企業は株式相場からの資金調達に変わり、国家からの管理された補助により資金調達する。すなわち国家による統制される。産業全体が官僚指導により進む。従業員の雇用安定として、終身雇用が推奨され、また中小企業を積極的に活用するよう推奨された。官僚はまた税金を地方へも回し、全国的な貧困対策を推進する。まさにここに日本型国家社会主義体制ができる。これにより日本の格差は解消して、景気も回復する。しかしすぐに戦争に突入する。

日本で初めて国家社会主義的な実験が試みられたのが満州である。日清、日露戦争で勝ち取り、満州事変後、国家にまで拡張した。鉄道網、そして豊富な地下資源など、国家主導の産業統制が進められた。その中心人物が、昭和の怪物岸信介である。そう、安倍首相のおじいちゃま。政府から鳴り物入りで派遣されて、その手腕で軌道に乗せる。その時に手本にしたのが、ソ連の計画経済と、ナチスドイツの国家社会主義である。その後、岸信介は日本に戻り、日本の国家総動員体制づくりを手伝うことになる。

多くの人が勘違いしているが、敗戦後、アメリカによる民主化が進んだと思っている。確かに、軍部は解体されて、民主主義化は進んだが、戦後から続く国家社会主義体制の解体は不十分だった。

その理由は、アメリカは産業分野には比較的手を入れなかったことと、すぐにソ連共産主義との対立で、日本の民主化を抑えて、戦前の官僚などを復活させて、運営を任せた。官僚主導の国家社会主義的な面は、法律含めてそのまま残された。そしてそれが結果的に、護送船団方式と呼ばれて、高度成長に活躍することになる。

敗戦後、岸も戦犯として拘束されるが、釈放後、政治家に転身し、自民党立ち上げの主翼メンバーとなる。自民党内、かつての国家総動員の人脈を駆使して、官僚とともに、戦前の国家社会主義的な運営を継続する。すなわち官僚主導の国家運営、その後、岸は首相となり、あの全共闘運動の抗争の中、やや強引な手法で日米安保条約を成立させる。

国家社会主義的な面を改革しようとしたのが、小泉内閣構造改革政策だ、金融などいくつかの面で、昭和維新以来の自由主義的な法改正にこぎつけた。しかし全体から見ればまだまただ。今となっては、格差の増加、非正規雇用はまさに小泉規制緩和で増加した。いまや失われた世代と言われている、そしていまの安倍政権は、政府主導の大企業への投資など、むしろ国家社会主義へ回帰している面が強い。

昭和維新岸信介国家社会主義は、北一輝を手本にしたわけだが、北一輝西郷隆盛を尊敬していた。なぜ西郷隆盛は明治政府と対立したか。そこにあるのは、西洋型自由主義を急速に取り入れる明治政府と、日本型社会主義?にこだわる西郷。

昭和維新は、西洋化に対する日本人の伝統的社会主義の揺り戻しがあり、そのときにできた法制度がいまだに運用されているというのが、日本型国家社会主義だろう。

北一輝は、226事件青年将校たちとともに処刑される。実行犯でもなければ、首謀者でもないのに、ただ226事件の精神的な師であっただけで、危険人物として。

しかし結局、その後、北一輝国家社会主義を学び、日本を作っていった。いまの日本の建国の父ともいえる、

北一輝国家社会主義の特徴は、西洋型の貨幣分配を基礎にするのに対して、献身的道徳による国家社会主義。日本人伝統の道徳を基礎にした。まさにいまの日本の国家社会主義の原型。要するに勤勉を基礎にした社会主義岸信介北一輝信者だった。

北一輝の思想
天皇は国民の支配者ではなく、国家の一機関。
ブルジョワ市民社会個人主義ではなく、献身的道徳による国家社会主義を実現すべき。
・国家は支配者の権力装置ではなく、国民の平等な政治的団結を示す社会。

サービス残業も日本人の美徳だったし、むしろみんな喜んでやった。それでいまの日本の繁栄があるんだけど、いつから悪者になったのか。いま、サービス残業を無くそうとしているのは労働者側ではなく、経営側であるのはポイントだね。




■なぜ日本は世間社会主義なのか


現代は百姓は農民のことのように言われるが、漁業も百姓だ。そもそも日本は自然に恵まれている。周りは海がある。海とはハイウェイだ。江戸時代より遡っても、農民は単に農業だけに従事していない。

さらには日本の農民の自治は戦国時代に遡る。秀吉や家康の全国統治は、すでにある農民たちの自治村を管轄したに過ぎない。基本的に、村の運営は農民に任せる故に、統治できた。日本の基盤は、戦国時代以降の、農民による自治村にある。それまでの荘園制度から、自治村へ。誰が統治しようがそれは揺るがない。それは明治になっても変わらない。

勤勉革命は江戸後期に起こったが、勤勉は自治であり、やればそれだけ豊かになる独立性から来ている。自治村故に根付いたものだ。

江戸時代はプレ資本主義だった。元禄に江戸で消費社会が花開いた。そして広がり、江戸の後期に各地の土地で消費社会が活発になる。農民はただ田畑を耕していただけではない。現代の地方の名産品の多くは江戸時代に作られた。農民は現金収入を得るためにも積極的に市場に参入した。もう一つは、武士は儒教的精神性から商売を嫌った。商売による利益を賤しいものとした。このことからも税収を農業からの年貢に絞り、商人からの徴収は緩く、農民もまた商業に積極的に関わった。日本人の勤勉の理由の一つがここにある。頑張ればそれだけ富が得られる。

農業から、とくに米を税収の中心に据えることで、それを現金に替える米相場が重要になる。しかし消費経済で緩やかにインフレしていく中で、米の価値は相対的に下がっていく。これによってどんどん幕府、藩の財政は悪化していく。このために江戸幕府がとったのが、享保の改革寛政の改革など、倹約令だ。消費を抑えて、インフレを抑えて藩の財政を立て直す。しかしそんなことで消費社会はとまるはずはなく、江戸末期には各藩の財政は破綻状態にあった。それに比べて、商人や農民はむしろ消費社会と勤勉ブームで潤っていた。

江戸はすでに世界一の大都市で、治安、清潔の面でも世界に他に例を見ない。結局、武士という世界に例を見ない真面目な支配者層故に、豊かで公平な社会が実現されていた。

農民の貧困は、幕府の取り立てではない。主に飢饉だ。こればかりは仕方が無いが、単に飢饉ではないのは、すでに市場経済故に、飢饉になると商人は米価をつり上げるために、米をため込む。いまのような国家の経済政策もなく、商人はやりたい放題。だから農民は、商人に打ち壊しに向かう。

すでに市場経済故に、飢饉になると商人は米価をつり上げるために、米をため込む。すると市場から米がなくなり、飢餓がサラに進む。

商人への税、運上がどこまで機能したか怪しい。そもそも商人がどれだけ稼いだか、知らないわけだから。冥加金はさらに怪しい。幕府が金がなくなったときに泣きついただけともいえる。土地の広さと連動した年貢に比べれは、ざる。

なぜ幕末、薩摩が力をつけたか。全国的に金欠の中で薩摩藩は沖縄などの産物を、長崎で外国に得る権益を持ち、財政的な潤っていたからだ。それを軍事に費やすことができた。

世界のどこに献身に働き、清貧を貫き、領民が贅沢する支配者層がいるだろう。西洋の支配者は労働を卑しいものとして、いかに領民から金をとって贅沢するかしか考えない。なぜなら支配者と領民は異なる人間種なんだから。

この伝統は日本の公平の伝統は今も引き継がれている。西郷隆盛を敬愛した北一輝国家社会主義、献身的道徳による国家社会主義とは、このような江戸時代からの流れで理解しなければならない。

明治に入ってきた勤勉は、プロテスタンティズムの勤勉をもとにした工業的なものだ。たとえば時間通りに仕事をする。秒単位で機械にそしてみんなで同期して働く。この意味で、明治に日本人は役に立たなかった。時間的な同期など気にしないやりたいようにやるから。しかしそれも義務教育などで克服していく。もともと勤勉なんだから、やり方を覚えるだけだ。

明治政府は、江戸時代に自主的に行われていた勤勉活動を国家推奨として、取り開けで推奨した。日本人は明治時代に勤勉を学んだのでなく、工業的な勤勉を学んだ。工業的な勤勉とは、分業。多くにおいて、時間的な連動だ。たとえば近代の軍隊もその特徴は連動にある。

話を戻すと、西郷隆盛を敬愛した北一輝国家社会主義、献身的道徳による国家社会主義とは、このような江戸時代からの流れで理解しなければならない。そしてなぜ日本が最も成功した社会主義国家になりえたかも。

社会は、明治にソサイエティの訳語として作られた。それ以前は、世間の一般的に使われて、いまのようなネガティブな言葉ではないどころが、ポジティブな言葉だった。世間はもともと仏教用語で世界のこと。倫理的な意味があった。

そもそも商売は、町人にとって生涯の仕事であり、親子代々に伝える家業であった。西鶴は、自分と家業との関係において、家業にはげみ、諸事倹約をまもることの必要性を説くいっぽう、<家業>と<世間>との関係において、「世間」の道徳にしたがうことの必要性を説いているのである。・・・西鶴の作品には、「世間」を道徳基準のよりどころとするような表現がなんと多いことであろうか。たとえば「世間並に夜をふかざす、人よりはやく朝起して、其家の商売をゆだんなく、たとへつかみ取りありとも、家業の外の買置物をする事なかれ」、というふうにである。P60-66

「世間体」の構造 社会心理史への試み 井上忠司 講談社学術文庫 ISBN:406159852X

江戸時代のウチとソトは、いまでいえば、ミウチと、大きなウチ。というのは、世間は自分も帰属して、価値観が通用する世界だから。今の外国のように、まったく価値観が通用しない外があると考えていない。だから渡る世間に鬼はなし。ミウチではないが、話せばわかり合える世界。

もう忘れられているんだが、江戸時代の人は思っている以上に仏教的な価値観の世界を生きていた。倫理も仏教基準だし、極楽と地獄。それが世間。

「いつまでいっていても仕方のないこと 。早く早く殺して殺して 」と 、最期を急げば 、「承知した 」と 、脇差をするりと抜き放し 、「サアただ今だ 、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 」といっても 、さすがにこの年月 、いとしい 、かわいいと 、抱きしめて寝た肌に刃が当てられようかと 、眼もくらみ 、手も震えて 、弱る心を引きしめ 、取り直してもなお震え 、突こうとはしても 、切っ先はあちらへはずれ 、こちらへそれ 、二 、三度ひらめく剣の刃 、あっと一声だけ上げたお初の喉笛にぐっと通るや 、「南無阿弥陀 、南無阿弥陀南無阿弥陀仏 」とえぐり通し 、えぐりつづける徳兵衛の腕先も弱ってゆく 。弱りきったお初を見ると 、両手を伸ばし 、断末魔の四苦八苦 、哀れといってもいい尽くせない 。「自分とても遅れようか 。息は一度に引き取ろう 」と剃刀取って喉に突きたて 、柄も折れよ 、刃もくだけよとえぐり 、ぐりぐりえぐりつづけると 、目もくらみ 、苦しむ息も 、暁の死ぬべき時刻をむかえて絶えはてた 。誰が告げるとはなく 、曾根崎の森の下風に乗って噂が伝えられ 、広まりつづけて 、身分の高下にかかわりなく大勢の人たちの回向を受けて 、未来成仏疑いのない恋の手本になった 。

曾根崎心中 冥途の飛脚 心中天の網島 近松門左衛門 角川ソフィア ISBN:4044011036

明治に社会が生まれたときに、社会は民主主義世界だから、世間はネガティブに捉えられるようになった。それでも、今も日本人は社会でなく、世間を生きている。世間の皆様に迷惑をかけないように。

日本の会社主義は特殊だと思うが、終身雇用とか、人生、家族そのものが帰属する。西洋では会社は会社、コミニティはコミュニティ。

社会は、個人単位、民主主義の法が基準。世間は、イエ、村単位、勤勉、正直、献身が基準。

日本の場合は、世間社会主義。世間は国家も政治家も自称左翼も、日本人すべてを内包する。日本人には、西洋的な、国家と市民、資本家と労働者の対立概念が薄い。みんな、世間じゃないか。安倍首相だって世間、話せばわかる。法律なんでいざとなれば改訂すればいい。法で裁かれたから償ったと思うなよ。世間がゆるさん。だから自民党一党政治で問題ない。自民党は世間のことを良く聞く。だってみんな世間なんだから。

世間を一番繁栄する政党が勝つ。左翼は世間を無視して暴走するから絶対政権は取らない。民主党のときもやばかった。合議を無視した暴走した。世間はカンカン菅直人、もうみんな二度と政権とらせないと言ってる。

自民党はとにかく合議だから。党内合議。野党と合議。世間と合議、だから日本の国会の法案成立率は低い。

日本人の格差を語るときに注意が必要なのは、日本人の経済は個人単位ではなく、家単位ということ。父は豊かで息子はそれに、寄生する例は多い。だけど、個人ベースでは息子は貧困になる。息子は贅沢に暮らしてるのに。

個人単位の集計と、家単位の実際故に、社会保障が貧しくない人たちにばらまかれてる。しかしさすがに政府は、家単位の話はできない。だから国の借金増やしても、どんどんばらまく。その方が支持率も上がるし。

結局、国債は国民の貯金で賄われてるから、国の借金で国民が潤い、さらには貯金が増える。
それで借金が賄われる……まあ、いいんじゃない?(笑)

大きな流れでは、親世代は金を持ち、それに息子世代は寄生する。しかし孫世代まで金が行かずに、子供の貧困は進んでいる感じかな。早く親世代は死んで、遺産を残して、孫世代まで潤わせるんだな。

なんだ、かんだ、いまの日本は歴史的にも絶頂期にある。国家社会主義として成熟している。成熟しすぎた故に怠けて子供を作らない。少子化。これはマジやばい。移民誘致をいつ進めるか、待ったなし。みんな外国人と仲良くやれよ。日本人ならできる。世間に外国人も招き入れよう。

日本人は、政治でも、世間を重視する。左翼が忖度で首相を批判するのは笑う。左翼なら忖度なんかで批判するな、法を基準を語れよといいたい(笑)

一般的に福祉国家は、社会保障費の充実だが、日本は社会保障費ではなく、雇用の安定により、社会主義を実現している。日本では個人に金をばらまくより、家を中心であることもあり、雇用を安定することが一番の社会保障と言われる。安倍政権も、もっとも重視したのが、失業率を下げること、新卒内定率。大企業の収益を安定させて、関連会社、取引先などの雇用を安定させる。

賃金が上がらないことが問題になっているが、実はサラリーマンは目先の小金を望んでいない。会社が安定し、雇用が安定することを望んでいる。

安倍政権の若者の支持率が高いのも、新卒内定率が高いことが要因と言われるよね。新卒で正社員になることが、その後の経済的な安定によりつながる。少しぐらい賃金が上がるより、会社の安定を望む。

さらに日本人に取って雇用は特別な意味があって、世間的に正規雇用になって一人前、社会的正員とみなされる。

日本では勤勉思想により、仕事は収入を得る手段でなく、社会的な貢献の意味を持つ。互いに貢献し合うことで、社会の豊かさを保っている。安価で豊かに暮らせる社会。これら日本の豊かさは雇用の安定を基本に成り立っている。

西洋ではサービスは商品だから価格に比例する。エコノミークラス、ビジネスクラス、ファーストクラスに分かれる。でも日本では全般的にビジネスクラスのサービスが提供される。コンビニでさえ、ある程度のサービスを期待できる。おもてなしの国。

そのかわり、サービス業の生産性が悪い、一人当たりのGDPは低くなる。それでみんな豊かに暮らせるんだから問題ないと言われる。またIT産業では、日本の消費者は悪名が高い。IT産業とは基本がセルフサービス化により、人件費を下げることだか、日本の消費者はセルフサービスのいうサービスの低下に納得しない。もとサービスします!いう日本語にあるように、サービスにはただの意味がある。サービスに価格意識がないから単なるサービス低下、手抜きととらえる。




■なぜシェアリングエコノミーは、真のIT革命なのか。


マルクス社会主義は結局何を目指したのか。共産主義国家のような国家管理型の共産主義か、あるいは夢のアソシエーションか。アソシエーション的な国家は成立したことがないが、今後、真のIT革命が起これば可能性がある。

シェアリング‐エコノミー(sharing economy)

物・サービス・場所などを、多くの人と共有・交換して利用する社会的な仕組み。自動車を個人や会社で共有するカーシェアリングをはじめ、ソーシャルメディアを活用して、個人間の貸し借りを仲介するさまざまなシェアリングサービスが登場している。シェアエコノミー。シェアエコ。共有型経済。

最近は、個人投資や、直接労働を売るシステムが広がってる。自分の得意を時間単位売る。

個人に投資する「VALU」サービス、仕組みとリスク・危険性・問題点
http://cslbook.com/business/5312/

あなたの30分が商品になる!?空き時間を売るタイムチケットとは?
https://hintos.jp/articles/timeticket_20170120/ #hintos

ネットでいまだにシェアリングエコノミーが広がっていないことの方が不思議だ。実はシェアリングエコノミーの手前まで来ている。交換されるのは、関心。いいね!ブクマなどを交換する。なぜこれが現金にならないのか?

単純に簡単に払えるお金がないから。ただそれだけだ。グーグルに儲けさせるなら、コンテンツ製作者に金を払うべきだ。

いまのITは便利だが、従来の大企業型を活性化する役目しかしていない、真のIT革命とは、集金システムを変えること、すなわち資本主義の金の流れを変えること。それで産業革命に匹敵する革命が起こる。ネットが広まってまだ20年。

IT革命は、生産、流通の民主化を行った。かつて大企業が高い投資でしかできなかったことが、個人で安価にできる。そしてそれを必要な人に届けることもできる。ただ最後のパーツがなかった。そこから金を取る方法。だからみんなネットに無料で公開する。一生懸命働いても趣味にしかならない。そしてそのネット上の人々が作った有用な商品、宝の山から金をとるのがグーグル、ユーチューブなどアフィリエートなどわずかな金を生産者に払って

でもいま換金手段がやっとできつつある。まあ、ビットコインは失敗したが?それに変わるものが次々出てくる。あるいはメルカリみたいな仕組みも広がりつつある。要するにC to Cだね。

今一番も問題は、C to Cの支払いシステムがない。あっても、中間マージンが高い。現金を渡すように、1 円単位の支払いをできる交換システムがなければ、C to Cは成立しない。

なぜならネットは一人1円を一万人集めるシステムだからだ。今のネット上の価値交換は、いいね!だ。関心交換は活発だ。これを貨幣価値化するには1円単位が重要になる。

シェアリングエコノミーの重要な特徴は、それが商品貨幣等価交換ではないということ。
そこにあるのは、贈与交換なのだ。

たとえばいまもっとも成功しているシェアリングエコノミーはメルカリだ。なぜヤフオクよりメルカリなのか。その利用者に女性、主婦が多いことがポイントだ。彼女たちは単に金がほしいだけではない。私のいらなくなったものを活用してください、という贈与交換要素がある。単に等価交換なら金を払った分の品質か、問題があるが、贈与なら品質が悪くても仕方ない。それは等価交換の二者の精算ではなく、多くにコミュニティの助け合いであり、そしてある種の善意の好感というコミュニケーションを楽しんでいる。これがシェアリングエコノミーの本質である。慈悲エコノミーなのだ。

農業自給自足社会から、大企業型資本主義社会へ、そしてこれから誰もが小さな生産者である民主型資本主義へやっと移行する。まあ、いままでのIT革命は前走、これからが本番だね。

誰もが生産、精算手段を持つことで、金の稼ぎ方が多様になる。すると今までのような正社員労働への依存が減る。雇う側と雇われる側の非対称。すなわち雇う側が有利な状況は解消される。各人が独立した生産者となり、また消費者となる。大企業に労働時間を売るモデルへの依存が弱まる。

おそらくそう遠くないうちに実現するだろう。すでにみな、大企業労働から離れて、趣味を含めて時間を使っている。そこに取引が入るだけ。労働形態はかなり多様になる。労働は、一部を大企業に売り、個人間で売り買いして、また労働へと拘束も減る。

唯物史観によれば、革命は下部構造、すなわち経済形態の変化でしか起こらない。シェアリングエコノミーは、生産の民主化であり、ビジネスが、B to B、B to Cから、C to Cへ。長らくお待たせしましたが、やっとそこまでテクノロジーがついてきました。

現在、グーグル、アマゾン、ツイッターなどは、みなの無償の労働コンテンツを元に膨大な収入を得ている。それを少しでも、正当に労働者に返す。今後もナビゲート機能は重要で、彼らの仕事はなくないだろうが、一人勝ち、搾取は許せない。

世界の富の創出の基礎にある・・・生産消費の価値が実際に、経済専門家が計測している金銭経済の総生産とほぼ変わらない規模があるのであれば、生産消費は「隠れた半分」だといえる。同様の推測を世界全体に適用し、とくに生産消費だけで生活している何億人もの農民の生産高を考慮すれば、おそらくは見失われている金額が五十兆ドルに達するだろう。

これらの点がきわめて重要なのは、知識革命がつぎの段階に入るとともに、経済のうち生産消費セクターが目ざましく変化し、歴史的な大転換が起ころうとしているからである。貧しい国で大量の農民が徐々に金銭経済に組み込まれていく一方、豊かな国では大量の人がまさに逆の動きをとっている。世界経済のうち非金銭的な部分、生産消費の部分での活動が急速に拡大しているのである。日曜大工やDIYの類に止まらない広範囲な分野で。この結果、まったく新しい市場が開かれ、古い市場が消えていく。生産消費の役割が拡大するとともに、消費者の役割が変化していく。医療、年金、教育、技術、技術革新、財政に大きな影響を与える。バイオ、ナノ・ツール、デスクトップ生産、夢の新素材などによって、過去には想像すらできなかったことが誰でも、生産消費者として行えるようになる世界を考えるべきだ。P294-296 


「富の未来」 アルビン・トフラー (ISBN:4062134527