なぜ2ちゃねらーは「藁(わら)い」ながら「没入」するのか? 北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」 <収束するポストモダン その1>

pikarrr2005-03-06


嗤う日本のナショナリズム


北田暁大「嗤う日本のナショナリズム(2005/02)ISBN:4140910240。60年代から現代まで、連合赤軍から2ちゃんねるまでを、「世界と自己の関係性を測定する行為としての「反証」を歴史的に振り返」っている。あとがきにも書いているが、論理の正当化のために、あまりに限られた点を繋ぐという、「有徴的な素材を選択してしまった」「反省」されているように、あまりに軽快に物語が語られすぎていると、思う人は多いかもしれない。

本書における区分は以下のようになっている。

①60年代〜70年代前半 自己否定から総括へ 連合赤軍

世界と自己、主体との関係を再帰的に問う、という近代人であることの要件を、極限まで突き詰めた連合赤軍「総括」

②70年代なかば〜80年代初頭 消費社会アイロニズム=(60年代への)抵抗としての無反省 コピーライターの思想

性急な反省を迫る思想主義と距離を置き、「無反省」という反省へ向かう。そしてメディア論的、消費社会論的なリアルの捕捉を試みる。消費社会的なリアリティと密接にかかわったアイロニズム

③80年代 消費社会シニシズム=無反省  なんとなくクリスタル、元気が出るテレビオレたちひょうきん族

消費社会的な行動様式が大衆化する中で、60年代への抵抗が抜け落ち、「無反省」となる。アイロニカルであることから、消費社会的シニシズム

④90年代〜2000年代 ロマン主義シニシズム 2ちゃんねる

第三項(「マスコミ」「資本」といったギョーカイ)の存在感が限りなく希薄化した行為空間において、「繋がり」の社会性の上昇によって、アイロニカル・ゲームは80年代よりも過酷になる。そして過剰な複雑性に対応するためにロマン的な対象(ナショナリズム「反市民主義」)が導入される。アイロニカルでありながら、実在主義的ともロマン主義的とも形容できるような奇妙なポジショニング(シニカルな態度をとりつつベタな感動を指向するポジショニング)が成立する。




人間とはアイロニカルな存在である


ボクも近いことを考えてきたこともあり、この本を踏まえて、少しまとめて見たいと思う。ボクは「テクノロジー還元主義者?」であり、近代以降の「歴史」はテクノロジーの発展が支えていると考えている。このために、このようなポストモダン以降は、コミュニケーション、メディアテクノロジーの時代であるといえるだろう。

自意識とは「私とはなにか?」というメタ的な視線をもつということ、再帰性をもつ存在であり、アイロニカルであることが「人間」の要件でもある。だからギデンズが、再帰的近代」というときには、「再帰的モニタリング」の反復が加速されているということだろう。その加速化を支えているのが、情報量の増大ということだろう。

アイロニカル、あるいはシニシズムは、「人間」であることに内在するものであり、ポストモダンにおいて、あえてアイロニズムシニシズムと呼ばれるとき、情報量の増加による再帰的モニタリングがさらに加速していることを表しているのだろう。




「偶有性と単独性」の間のゆらぎ


このようなテクノロジーからポストモダンを語れば、情報量の増加は、自己同一性を解体する。様々な言説にさらされることによって、「私とはなにものであるか」という確信は絶えず揺らぐことになる。たとえば、リオタール的なポストモダン定義、そしてマークポスターによるポストモダン的メディア論で示されているのは、「自己は脱中心化され、散乱し、多数化され」るという現象である。

われわれが直面しているのは・・・マクルーハンが考えたような感覚の組み変えではなく、むしろ主体の全面的な動揺なのである。情報様式において、主体はもはや絶対的な時間/空間の一点に位置しておらず、また物理的で固定された視点をもってそこから何かをするかを合理的に選択判断したりはしない。その代わりに、主体はデーターベースによって増殖され、コンピュータによるメッセージ化や会議化によって散乱し、テレビ広告によって脱コンテクスト化されたり再同定されたり、電子的なシンボル転送において常に溶解されたり、材料化されたりしているのである。

情報様式論 マーク・ポスター (1990) その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040402#p1

しかしポストモダンのもう一つの、さらに重要な点は、この主体の散乱という拡散過程の中で、如何に主体は確保されるのか、ということである。自己同一性を保つか、なにを信じるか、自己をどの言説に確保するか、すなわち拡散の反作用として収束過程である。

「人間」はどのような多量な情報量にさらされ、主体性がゆらいでも必ずどこかに主体性を収束させる。それが一時的なものであっても、その担保がなければ「人間」でいることはできないだろう。だから拡散と収束は、まさにコジェーブ的な動物と人間の間の、ボクのいう「偶有性と単独性」の間のゆらぎであるといえる。そしてポストモダンにおける情報テクノロジーの発展は、そのゆらぎを大きくしているのである。




ポストモダンの臨界点


ここには、ポストモダンの臨界点を見ることができるのかもしれない。すなわち宗教であれ、思想であれ、モダン的な主体性が確保されており、それが拡散していく(ことが問題視される)過程。ポストモダン的な脱構築アイロニズムシニシズムはこのような拡散過程への視点である。

それに対して、情報テクノロシーの進歩によって、確保すべき主体性がある程度拡散し、希薄になり、逆に、どこに主体性を収束されていく(ことが問題視される)過程。北田氏のしめすロマン主義、ロマン的な対象、あるいは「感動の全体主義、大澤の「アイロニカルな没入」がそれに対応するだろう。

ボクたちはまたシニカルで居続けることはできない。いつまでも流行を追い続けることができないし、コミュニケーションを否定することはできない。いつかはどこかの静的な知識に帰属し、「私とはなんであるか」を見いだそうとして、リアリティを勝ち取ろうとする。このような「ナイーブさ」シニシズムは共存するのである。ボクらはみな多かれ少なかれ、「不気味なもの」なのである。そしていかにうまく「不気味なもの」に帰属するかが、重要であるともいえる。
(知識社会 その5) なぜボクたちは利己的であるように振るまうのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041029#p1




主体なき集団的没入


現在、多くの論説で問題視されているのは、ポストモダン的な収束過程である。主体性を拡散することの反動としての収束は、拡散が進めば進むほど、その揺れ戻しとして「過剰な力」を生む。そして多くにおいて、その力の向かう先は、論理的(それはまた個人的)になぜそこなのか、という解答を持たない。

なぜなら、再帰性が上昇した社会における収束過程は、個人的な反動としてよりも、他者たちとの活発なコミュニケーションとして、他者たちとの「差異化運動」として、拡散された中から立ち現れるような自己組織化的な形で立ち現れる「主体なき集団的な没入」として現れるからだ。

オウム信者は自己の認知と特異な他者(第三者の審級=麻原)の認知を二重化して捉えている限り、虚構を虚構として相対化すること(=アイロニカルに認識すること)ができる。しかし実際の行為の水準においては、虚構を本気で信じる特異な他者に準拠せざるをえないために、「その虚構を「本気」で文字通り演ずるほかない。」オウム信者における、このようなアイロニーと本気との共存を大澤は「アイロニカルな没入」と呼ぶ。
嗤う日本のナショナリズム 北田暁大 P220

ここでは、特異な他者(第三者の審級)としての「麻原」は確かに神的な大文字の他者の位置を占めているが、それは実体的な麻原ではなく、主体に内在して「麻原」であり、その象徴的な「麻原」は、オウムというコミュニティの関係性の中で形成されていくものである。いわば、様々な事件はどれほどに麻原の意図に添っていたのかと、いうことである。いわば、麻原自身も、オウムという自己組織的なコミュニティの中の「麻原」といういち配役でしかなかったのでないか、ということである。それこそが、自己組織化的な形で立ち現れる「集団的な没入」ではないのか。そしてここには「着地することが目的化された着地点」としての「過剰性」がある。




「主体なき集団的没入」の不気味さ


なぜ「この私」「世界(思想)」短絡するのか、、なぜ容易に全体主義的な感動」を生むのか(北田)、なぜオタク的に没入するのか、イラク人質バッシングのようなサイバーカスケードあるいは、「不透明さと無根拠さがつきまとうハイパーポピュリズムなのか(東)、というような視点は、「主体なき集団的没入」への違和感である。それは、過剰性への違和感とともに、「主体がみえない」というとらえどころになさへの違和感ではないだろうか。

どこからどのように立ち現れるのかわからない「主体なき集団的没入」の不気味さ。そこでは論理性、思想、宗教などの言説そのものは、奇妙に回避されている。ボクが語ってきた「神話なき神話の世界」であれ、「偶有性から単独性への転倒」も、このような収束過程についてへの言及である。

近代における様々なイデオロギーは、主体とは社会的な人である、自立した理性的な人であり、人々はそのようなイデオロギーを理解して、それぞれに与して社会が良くなるためにはどのようにすべきかと、の議論を闘わせてきたという「近代的な幻想」の上に成り立っています。しかしポストモダンにおいて暴露されたのは、人々は自立した理性な主体などでなく、イデオロギー形而上学に立脚した信仰的なものであるということです。

ボクはこのポストモダン傾向は、現代における情報化の影響によるものであると考えています。多量で高速で伝達される情報が近代的な言説(=大きな物語)を揺らしているのではないだろうか、ということです。そしてネット社会は、さらにポストモダン的な傾向を強めています。ネット上のただのおしゃべりが、「世界へ発せられる言葉」となり、自己組織的にサーバーカスケードとして現れます。それは、「主体なき言葉」です。
なぜ知識人は2ちゃんねるにショックを受けるのか? ised@glocomの倫理研第1回の議事録を読んで http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041204#p1

宮台の「あえてベタ」という「戦略」も同じ視点があるだろう。そこには、拡散の反動としての「過剰な収束」をコントロールしたい、という思いあるのだろう。しかし人は拡散し続けることなどできない、どこかで「ベタ」へ収束するものである、と考えれば、「あえてベタ」というアイロニカルには、またベタが要請される。その収束が「主体なき集団的没入」である場合には、「ミイラ取りがミイラになる」、それが「アイロニカルな没入」ではないと言うことはできないだろう。




「TV的大衆像」への没入


「主体なき集団的没入」という自己組織的な現象は、ポストモダンに限った現象ではないだろう。しかしテクノロジーの発展による情報量の加速が、拡散、収束というゆらぎをを活発化させているのである。その意味で、主体の収束において、大切なものがマスメディアである。それは消費社会的な「集団的没入」を支えてきた。(たとえば、消費社会的な「集団的没入」については、こちらを参照。溢れる余剰 その2 社会的コミュニティから記号コミュニティへ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040503

その中でも特にTVの影響は絶大である。たとえばTVの初期にアメリカンファミリードラマによって、人々が消費社会へ「没入」していった、というようなことから始まる。マークポスターのいうように情報を流し続けることによって、主体を散乱させる効果があるとしても、TVが普及する中で、人々はTVと「鏡像関係」にあり、一つの収束した形として「TV的大衆像」として主体性を確保してきたといえる。特に、なにが正しくて、なにが間違いがという、一つの主体像、「倫理」観を提供しつけてきたのである。

たとえば、北田氏が示した80年代に、元気が出るテレビオレたちひょうきん族などの「消費社会シニシズム(=無反省)」として指摘したように、マスメディアが様々に多様化していく中で、保守化する「TV的大衆像」が解体されたときに、それは、「TV的アイロニカルな大衆像」として生き残るのである。(たとえばTV的な「集団的没入」については、こちらを参照 なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040807#p1




2ちゃんねる的な「集団的没入」


そして現在のネット社会を迎えた中でも、、「TV的大衆像」の没入傾向は変わらないだろう。それはまさに2ちゃんねるそのものが示している。

2ちゃんねるが成功したもう一つの理由として考えなければならないのが、マスメディアとの関係ではないだろうか。2ちゃんねる住人の増加は、バスジャック事件など、マスメディアで取り上げられることによって膨らんできたのではないだろうか。最近では、人質事件でマスメディアに「モラルのない無法集団」として取り上げられたように、マスメディアが2ちゃんねるの記号意味(シニフィエ)を反「大衆」的として報道することによって、「2ちゃねらー」はマスメディア的「大衆」と差異化された2ちゃんねるという記号コミュニティへの帰属意識を深めていく。2ちゃんねるという記号コミュニティは、2ちゃんねるというシステムではなく、2ちゃんねるという記号コミュニティが存在し、2ちゃんねるという記号コミュニティに帰属しているという「2ちゃねらー」の意識によって支えられているのである。
溢れる余剰 その6 2ちゃんねる/大衆 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040511

2ちゃんねるの特徴として語られることは、コミュニケーションそのものが目的化し、メタメタメタ・・・なシニカルなコミュニケーションが続くということである。またボクは、2ちゃんねるを、価値を飲み込み解体する脱構築装置」と呼んだ。そしてその拡散過程、そして収束過程において、TV的大衆像との差異化が行われている、といえるだろう。

たとえば、最近あったあびる優祭りの意味は、TV的大衆像幻想への攻撃、差異である。ほんとは誰もあびる優の犯罪まがいそのものに関心などないだろう。あびる優、あるいはTV局の、放送でそのような事実を放送したというミスそのものへの嘲笑であり、「TV的な大衆像」のへまを、倫理的な偽善性を嗤うのであるが、またそのシニカルそのものも目的ではない。

祭りそのものが目的なのであり、祭りの中から、不気味に収束し立ち現れる2ちゃんねる的主体像」を喚問しているのである。それはTV的大衆像の差異化されることに現れやすい故に、「TV的な大衆像」のへまはかっこうのネタとなる。祭りとはそのような幻影へ「アイロニカルに集団的に没入」しているという、「みんな2ちゃねらーだよね」という共同体幻想であり、主体性を獲得したいという快楽である。そして、TV的大衆像とは、自分自身であり、また欲望すべき他者である。そして2ちゃんねる的主体像」とは、TV的大衆像と差異化され、より収束しただろう自分自身の獲得である。




「巧妙化」する没入


没入する対象そのものに意味はない。たまたまその場にあったというようなものである。没入すること、主体性を確保することそのものに意味がある。そしてそれはたとえば「あえて」のような主体の思考のレベルでは行われない。なぜならばどのような思考もアイロニカルな視線が進入するからである。そうではなくて、「アイロニカルな集団的な没入」として、「アイロニカルな議論に夢中になって、他者の後を歩いていると、気がつくとそこにたどり着いていた。もう後にはもどれない。」というレベルで、没入するのである。拡散が進めば進むほど、その反動としては収束は過剰で、そして「巧妙」に行われる。


ボクですか・・・ハニーへの愛へ没入中です・・・