セカイ系はなぜナルシシズム的なのか?

pikarrr2005-08-12

クロノスとカイロス

考える名無しさん
象徴界優位の空間→クロノス、想像界優位の空間→カイロス

一時期というか今でも、スローとか超早送りとかのCMとか流れてるよね。あれってたいしたことない映像でも、それなりにもつんだよね。なんでもつのかは、恐らく観察視点の解体、変更がそこにあるからだと思う。ああいう空間はカイロス的空間とか呼ばれたりしてスーパーフラットなどのオタ系評論によく出てくる。具体例ペキンパー、ジョンウー、マトリックス的スロー梶原一騎、少女漫画的な世界。

一般的にスロー空間がカイロス的とされるが、俺は盗んだバイク的な高速空間も象徴界のまなざしを加速化させ解体し、現実界よりの快楽を引き出そうとしている意味でカイロス的に含めて良いのではないかと思っている。共同幻想に対する私的幻想のようなものとして。時間、空間、重力といった認識を可能にしているクロノス空間がゆらぐときにカイロス空間は出現すると思っている。

ぴかぁ〜
へーおもしろいですね。なんか独特な解釈ですが、どの本にくわしいですか?

考える名無しさん
独特でもなんでもないんだが・・・斉藤環「文脈病」ISBN:4791758714)の中の「運動」の倫理」*1とかのパクリ以上の内容はない。

考える名無しさん
カイロス時間」「クロノス時間」という言葉、その文脈は、斎藤環戦闘美少女の精神分析ISBN:4872335139)が言い出したのかもしれん。それからあちこちでそういうことが言われ始めた。サブカルチャー解体神話」ISBN:4891943602)にもあったかな。*2 *3

考える名無しさん
全然、独特ではないよ。でもカイロスって言ってるのは斉藤ぐらいかな?「文脈病」ISBN:4791758714)に乗ってると思うよ。一応、ぴかさんのフィールドに乗っかったんだが。竹熊っていう漫画編集者の講演なんかでもカイロスって言ってたような。普段、俺の脳内ではフラットと表現している。村上隆でぐぐってみたら?狩野派の話とか出てくると思うぞ。東のサイトでもスーパーフラットについて語ってるな。




■空間の意識、演出空間がカイロス
ぴかぁ〜
ボクは「続 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか」*4で、自転車をとばす子供から、速度への快楽について書いたのですが、これは無垢(未知)を征服したということをまなざしへ知らしめる達成感の反復と考えました。またこれがテクノロジーをつかうことの快楽の根源、といいました。スロービテオにもおなじような空間の征服の快楽があるのではないでしょうか。

クロノスが象徴界優位なら、無意識ということで、いわばそこに空間がある、時間があるという認識はない空間となりますが、スローや、早回しは、そこに空間、時間が出現する、意識するということ、すなわち空間の出現がカイロスでしょうか。映画「マトリクス」でいうとあれは空間、時間の制約を超越するかっこよさですね。特に最後のネオが生まれ変わるときなどそうです。それは逆にボクたちが空間、時間にいかに制約されているかを意識させるといえます。と考えるとカイロスは制約の露出であり、空間を力学的闘争の場に変える?

言われた「盗んだバイク」も力学的制約との闘争であり、それは尾崎的?社会的な闘争のメタファーとして行われる考えられますね。

考える名無しさん
普段は身体の重さとか気づかないからね。時空の征服による全能感は、未来派ぐぐると結構あるよ。映画でも西部劇はもちろん、月世界旅行2001年宇宙の旅ミクロの決死圏、アンダルシアの犬といったメリエス的な果てけではなくてリュミエール的日常の中の「失われた時」という果ての追求なんかも芸術家という症状の全能感を満たすんだろうね。高野文子はそこがすごい。

考える名無しさん
高野文子ってそういう面白さなんだな。日常を書いているだけかと思っていたが。大島弓子あたりの系譜かな。

考える名無しさん
尾崎の場合は闘争というより脱出に限りなく近い気がする。

ぴかぁ〜
ベタだけど、ウルトラマンゴジラはなぜ動きがスローに表現されるのか、とかね。重量感、空間の制約の表現ですね。ほんとに彼らがいるとあーなるのか?単なる演出でしょうか。

なんかキスがへたな人は唇と唇の線しか意識しないが、うまい人は二人の間の空間全体を意識するという言葉を思い出しました。キスも演出ですからね。空間の意識、演出空間がカイロス

考える名無しさん
初期の高野文子はそうですね。「田辺のつる」綿の国星なんかはコンセプトは近いですよね。でも大島はモノローグ優位なのに比べて高野は「おともだち」あたりからは初期からあった映画的カメラ割りをさらに洗練させてますよね。前者がほしのこえだとすると後者は「大砲の街」に近いですね。

考える名無しさん
大砲の街って大友克洋のでいいのかな。客観的な視点が大島に較べてはっきりしてるってことか。大島はかなり同調率を高めないと楽しめない感じがあった。




■人間能力の制約を超越しようとする運動
考える名無しさん
「空間の意識、演出空間がカイロスというより、射程距離はもっとあると思うな。空間だけでなく、時間、意味など全般的に当てはめてもいいんでない?音楽でもセリーという単位からはずれたものは不協和として認識されますから。坂道、廃墟、穴、など妖怪が住みやすそうな場所ベンヤミンがパサージュと呼ぶようなところはクロノス空間がほつれやすくなっているのでカイロスっぽくなるんでは?

考える名無しさん
ああなんかわかるな。そんな深くない井戸に石ころ落としても妙にゆっくり落ちていく感じ。落ちた水音が反響して妙に粘っこく聞こえる感じとかかな。>大砲の街そこまで読み取るか。なるほどな。ちょっとメビウス的というのがわからんけど。敵も見えずに際限なく続く戦時下はたぶん実際は重苦しさがあるはずだけど印象としては軽くなってる感じか。

ぴかぁ〜
ボクは速度への快楽、空間の征服をテクノロジーと使うことの快楽につなげました。空間の制約とは、人間の能力の制約であり、テクノロジーとは、人間能力の拡張であるということです。たとえば、スローであり、バイクであり、そこには人間能力の拡張があります。そこにいままでとは異なる体験があり、無垢の征服がある。カイロス空間とは、空間の意識、演出空間であるなら、テクノロジーそのものが、カイロス的であるといえます。カイロスとは、人間能力の制約を超越しようとする運動である、とも広げられます。

ぴかぁ〜
先の「フラット」の話につなげると、カイロス空間とは、空間の意識、演出空間であるなら、フラットもその表現方法の一つということになります。 単純には二次元化は、空間を征服するための簡略法というような ことになります。これはマンガは子供のもの、あるいは 低予算で空間を好きなように演出できるということですが、 マンガ、アニメなどは、もはや簡略法を越えて、一つの表現方法に なっていますね。

たとえば村上隆などは、これを日本の文化としてつなげている。 たしかに、水墨画、浮世絵など、白黒的、二次元的な表現 文化がありますね。 このあたりは、斉藤的には作者の顔、文脈ということになるのでしょうか。

二次元は逆説的に三次元よりもより、複雑な空間演出が可能になる。 たとえばCGの動きのなさ。マンガバリに動きを持たそうとする ソフトが開発されているとか、ありますが、 鉄腕アトムの角は、三次元的には破綻している、ほどに 空間を超越している。

ぴかぁ〜
たとえば、人間は空間を3次元で認識しているのかということもありますね。絵画の意味は、それが人が世界をみるように、世界を描くということですね。それはまさにカイロス空間である。CGの3次元は、データ処理の関係で、まだ物理的な3次元空間への制約がある、ということで、二次元の方がより超越的であり、カイロス的にリアルである、人間に認識に近いということがいえます。カイロス空間は、空間の超越であるとともに、認識世界に近く、まなざしの世界でもある?




セカイ系というカイロス時間の超誇張的使用
ぴかぁ〜
クロノス、カイロスを適当に?使っていたところがあるので、「文脈病」ISBN:4791758714)の「運動」の倫理 (斉藤環)」*5読みました。



精神科医中井久夫氏は、その初期の論文でクロノス時間とカイロス時間の区別について述べている。クロノス時間は、時計で計測されるような物理的時間を指し、カイロス時間とは人間的時間を指す。「楽しい時間が瞬く間に過ぎ去る」「過去が走馬燈のようによぎる」そうした体験を可能にしているのが、このカイロス的時間である。そして現在が過去と未来をはらみつつ進行しうるとするなら、それは主としてこのカイロス時間の健全な機能に依存している。

きわめて多くの漫画と、その影響下にあるアニメに共通する志向性がある。「無時間性」への志向である。それは神話的な無時間と言うよりは、もっと個人の想像力の生理に根差した、イマジネール(想像的)なものの本質であるような無時間性である。・・・こうした無時間性は、おそらくイマジネールなものの起源とも言うべきナルシシズムに根差している。

特権的瞬間の表現として、歌舞伎の見得などもこれに該当する表現であるかも知れない。キメのポーズ、すなわち装飾的な構図において瞬間をひきのばすこと。この描写が濫用されるとき「体験の無限性」が志向され、特権的瞬間のむさぼりがおこる。いずれもすぐれて口唇期的な欲望、すなわち一次ナルシシズムなしには成立し得ないものだ。・・・こうしたカイロス時間の誇張的使用が、さきに述べた「講談的時間」のような形でアニメに無時間性を導入する結果になる。

斉藤環



ぴかぁ〜
カイロス時間の誇張的使用」は、イマジネールなもの、ナルシシズムに根差している、というようなことですね。たとえば、ボクが、「速度へ快楽は、無垢(未知)への征服感、あるいはテクノロジーの快楽が空間の征服の快楽、カイロスとは人間能力の制約を超越しようとする運動である。」というときには、空間を、制約を自分のいのままで操りたいというイマジネールな、ナルシシズムなものである、ということになるのでしょうか。

カイロス時間の誇張的使用」のイマジネール、ナルシシズム性は、セカイ系につながるものでしょう。斉藤がマンガのもつカイロス性を指摘するのは、マンガ、アニメにおいてセカイ系が生まれてきたことともつながります。ボクは、速度へ快楽からテクノロジーの快楽、そしてカイロスとは人間能力の制約を超越しようとする運動である。」 というときに、エヴァ最終兵器彼女ほしのこえなどのセカイ系が、テクノロジー、さらに人間能力の超越と密接に関係していることにも、つながるのではないでしょうか。

しかしこのレベルのナルシシズムを、斉藤が批判的に語るのは、過剰な気もしますが、ラカン派の去勢至上主義?的という感じでしょうか。斉藤のオタクへのある意味の厳しさはこの辺りからきているのでしょうか。