なぜ引きこもりはプライドが高いのか。 その2 働かないのか、働けないのか
ワーカーホリック(仕事中毒)
なんのために仕事をするのか。仕事とは社会的に貢献することで対価を得ることでしょう。ボクの場合は、まずはお金のためだ。もしいま仕事をやめると多少の貯えはあるが、将来立ち行かなくなる。ではお金のためだけか?違う。いまの仕事があまりにつまないと、違う仕事をさがすだろう。仕事には多くのつらいことがつきまとうが、仕事のつらさと楽しさは相補的であり、ボクは仕事の楽しさほど楽しいことはこの世にないのではないかと思っている。
たとえば、特に日本人はあなたは誰か?という問いには、帰属する会社名、部署、役職を答える傾向があるという。すなわちそのような立場によって自分であるということだ。そしてそのような立場を失うことは、自分を失うことである。これはワーカーホリック(仕事中毒)の構造でもある。仕事をすることによって、自分であるということだ。そして「仕事の楽しさほど楽しいことはこの世にない」と言うボクは、仕事人間の傾向があり、仕事に自分の居場所を見いだしている面が強いといえるだろう。
若者の居場所
阪神大震災のとき安否確認、支援で機能したのは地域コミュニティでなく、会社であったと言われている。現代において、歯車、奴隷と言われようが、仕事が私がなにものであるかの居場所を与えてきた。しかし最近の経済不況の中で「居場所」を提供できなくなっている。リストラにより年功序列的な居場所の解体ということはあるが、実際はより企業は内部指向を強めた面もともいえる。
ライブドアとフジ問題のとき、会社はだれのものか?と言われたが、従業員重視の日本ではリストラをなるべく回避し、すでにいる社員の居場所を確保し、若者の採用を控える、あるいは正社員として雇用しない、というように、若者にとってより居場所として機能していない、といえる。当然、ポストモダン的価値の多様化は若者自身ももはや居場所を企業に求めなくなっている傾向もあるだろう。
家庭でも学校でも会社でもなければ、若者はどこに居場所を確保しているのか。趣味的なものだろう。さらにネットの発達は趣味的なコミュニケーションの場を作り出している。
引きこもりホリック(中毒)
このような居場所から、人を切り離すことは難しい。私とは居場所であり、そこにある価値だからである。私とはこのような依存でしか存在しえない。だから人は自分を保証するコンテクストは「命をかけて」まもる。最近のねまネコ問題が2ちゃねらー以外からはわかりにくいのは、2ちゃねるというコンテクストを守る闘争だったからだ。*1
そして、引きこもりは、自分を保証してくれる一つの居場所として機能している面があるのではないだろうか。特に最近は、「引きこもり」という名称が一般化し、たまたま引きこもったから「引きこもり」なわけではなく、「引きこもり」になるために引きこもるということが起こっているだろう。
そこには、「引きこもり」としてのコンテクストがある。彼らなりの思想があり、ブライドがある。自分がこれは引きこもりであることに満足しているということではない。ホリック(中毒)であり、やめたくてもやめられない依存関係にあるということだ。
だから引きこもりをやめろといわれても、新たな居場所がない、ということは、私の消失を意味するために、命をかけて死守する。自分自身が引きこもりから脱出したいと思っていてもである。
引きこもりの定義
しかし「引きこもり」は本当にコンテクスト、一つのコミュニティ的な価値を見いだしているだろうか。2ちゃねるも多くにおいてただ人が集まり、好き勝手にコミュニケーションしているだけで、コミュニティとしての価値を持っているわけではないと言われる。しかし今回の「のまネコ問題」などでは2ちゃねらーは自分達の価値をエイベクスに主張しえた。そこのは「コンテクストの闘争」があったように思う。
引きこもりの苦しみは古いコンテクストを強要される苦しみだろうか。そこに実社会的コンテクストとの闘争はあるだろうか。あるいは、それぞれがただ引きこもり、逃げているだけなのか?
そもそも引きこもりとはなにかは、とてもあやふやである。
ひきこもりの定義
90年代後半に、度重なる犯罪から世間でもひきこもりという言葉が使われるようになりました。その定義は、 6ヶ月以上自宅にひきこもって社会参加しない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの というのが一般的です。つまり、精神科に通わず6ヶ月仕事や学校へ行っていない人のことをいいます。ひきこもりの原因は、不登校からというのが一番多いようですが、コンプレックスや人間関係など原因は多種多様にわたっています。
しかし最近、定義上はひきこもりになってしまうけれども、ひきこもりに入れていいものか?という若者が急増しています。そこで、ニートというイギリスで生まれた言葉を当てはめるようになりました。ただ、ひきこもりとニートの違いはよくわかりません。ま、定義にこだわってもしかたありませんけれど、ニートについても見ていきたいと思います。
ニートの定義
ニートは「NotinEducation,EmploymentorTraining」の頭文字(NEET)からの造語で、非労働力人口のうち、15〜34歳の未婚で、職業訓練も含め、学校に通わず、家事や家業の手伝いもしていない者と定義されます。そしてさらに、4つに分類されます。
Ⅰヤンキー型 反社会的で享楽的。「今が楽しければいい」というタイプ
Ⅱひきこもり型 社会との関係を築けず、こもってしまうタイプ
Ⅲ立ちすくみ型 就職を前に考え込んでしまい、行き詰ってしまうタイプ
Ⅳつまずき型 いったんは就職したものの早々に辞め、自信を喪失したタイプこの分類は4つにわけているようで、私が思うに実質2つにしか分けていません。下3つは環境によって変わってくるだけで、性質は同じだからです。学校で自信をなくすか、面接で自信をなくすか、会社で自信をなくすかの違いだけで、3つとも自信喪失型には変わりありません。ヤンキー型の人は友達も多く人間関係はうまくでき、面接も無難にこなしますから選ばなければ就職はできます。食うに困れば仕方なく働きだすはずですから生きていくことには問題ありません。困ったのはそれ以外のニートで、最近急増しているのがこの自信喪失型です。就職しないのではなく、できない人たちですからこれからの行く末がとても不安です。
ひきこもり・ニートからの脱出 http://www.ne.jp/asahi/hiki/neet/hiki.html
引きこもり状態は身体を弱体させる
引きこもりを考える別な面として、心身の乖離を考える必要がある。思春期セカイ系*2も同じことがいえるが、思春期とは心身のバランスが崩れる時期である。ベタにいえば、誰でも引きこもり的な生活リズムでは気力が減退し、そこから社会的に回復するには心身のリハビリはいるだろう、ってことだ。だからまず引きこもりは身体のリハビリからはじめよ、ってことになる。
「居場所(コンテクスト)としての引きこもり」と「引きこもり的な身体の弱体」を対比すると、コンテクストは人間的な価値観である。どのようなときにどうふるまうかの文化である。それに対して動物は身体に対応する。心身二元論的な、身体/精神、あるいは、コジェーブ的な「人間/動物」に対応する。
動物系引きこもりと居場所系引きこもり
すなわち、働けないのか、働かないのか、ということである。引きこもりとは分類してみよう。。
居場所系引きこもり・・・人間的、反社会的、引きこもり。ニート、フリーター系。引きこもりであることに自覚的、引きこもりのために引きこもりになる。引きこもりに便乗している面あり。バイトなどの経験があるが、めんどくさくて(居場所見見いだせずに)やめる。社会的な自立を絶えず考え、ときに今の社会に不平不満をもつ。
動物系引きこもり・・・動物的、脱社会的、引きこもり気が付くと引きこもっていて、なにをどうすればよいかわからず、ただ享楽的にネット、ゲームに没入し、ときに自分でも抑えられず、暴力的になる。
特に動物系引きこもりでは、彼ら自身がコンテクストをもてない社会的弱者であるため、社会の中に彼らを救済するのコンテクストが組み込む必要があるだろう。この場合には強制的な対応により、心身のリハビリからはじめる必要があるだろう。
居場所系引きこもは、ニート、フリーターなども含む、現代社会の問題である。家庭でも学校でも会社でも居場所が消失しつつある中で、若者が趣味的なもの、あるいはネット上の匿名の繋がりに居場所を求めるときに、身体の置き場所は、もっとも安心できる閉じこもった部屋だろう。
ただ明確にどちらかという分類できるものではない。身体を閉じた部屋に長期間置くことで、身体が弱体し、動物系引きこもりになることも多いだろう。すなわち、働けないのかから働かないのか、働かないから、働けないのか、ということである。
*1:「のまネコ」インスパイア問題はなぜ「戦争」なのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050914
*2:なぜ「思春期セカイ系」なのか。 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050727#p1