限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司・北田暁大(2005)

pikarrr2005-10-27

楽しみにしていた「限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学宮台真司 北田暁大 ISBN:490246506X、早速読んでみた。大変おもしろい内容になっている。特に後半の「人間でありつづけるとは?」は、宮台、北田の世代論争も含めて、スリルあるやり取りが行われている。



第一の層 「動物」・・・環境管理のテクノロジーによって与えられる動物的生に充足する人たち


宮台  東浩紀動物化するポストモダン(2001)ISBN:4061495755動物化する人間」・・・そこではもはや、近代の過剰流動性ががもたらす欠落体験が、埋め合わせとしての「人間」「全体」−総じて物語−を希求させる、というふうに展開しません。

第二の層 「エリート」・・・環境管理的なシステムそのものに懐疑の目を差し向ける人たち


宮台  過剰流動的で万物が入れ替え可能な社会。したがって、そこにいるだけで自分の輪郭も位置もわからない社会。そういう社会に人は耐えられないのではないか。動物化しきれない人は「<世界>との接触を渇望するのではないか。動物化が生じた社会では、突発的に全体性への危険な志向が生じる可能性がある−ウルトラマンジャミラみたいに人間が怪物化して降臨する−という困難だけでなく、・・・動物化した人たちを管理するアーキテクチャを設計する人たちを、いったいどこから調達するのか。

北田  宮台さんは、第二の層の存在に気づいてる人を問題化している。第一の層も第三の層も、いってみればアーキテクチャーに踊らされる動物なわけであり、宮台さんの狙いはそこにはない。そうではなく、レッシングや酒井隆史を読んで「こりゃ、やばいわ」と思えるだけの知的地肩のある層を問題にされているということですね。

第三の層 ヘタレ・・・意味を欠いた動物的生の反復に飽きたらず「全体性」と希求する人たち


北田  動物化あるいは社会学的にいうところの機能分化が進めば進むほど、同時に「人間的なもの」への欲求が過剰に噴出していく。その欲求は機能分化によって抑圧された「何か」の再現ではなく、まさしく機能分化とともに誕生した「何か」である。

環境管理型のテクノロジーが指示するコミュニケーションのアーキテクチャーにどっぷり浸かったまま、人間性「正義」「全体性」を希求している。

第三の層は一見、システムを批判する第二の層と似ているようにみえるけれども、じつはかなり違う。想定しているのは、2ちゃんねる嫌韓厨や、社会という媒介をスルーして世界と私を短絡するセカイ系などです。彼らは行為の様式としてはきわめて「動物的」でありながら、自意識のレベルではみずからの人間性と信じて疑わない。

アイロニカルなロマン主義


北田  ロマンの対象とは、到達が不可能であるが、いや到達不可能であるがゆえに、つねにそれを希求してしまいたくなるようなもの、です。「他者との完全なつながり」といったものも、実現不可能でありつつ欲望の対象となるという意味で、ロマン主義になり得るわけです。・・・ケータイというのは、そうしたある種のロマン主義の夢を現実化させてしまった装置である。

2ちゃんねる・・・では、反省性が過剰に上昇することによって、ネタ/ベタの区別を脱力させるコミュニケーションの力学が浮上しつつある。・・・2ちゃんねる的な反省を単なる「馬鹿どもの空騒ぎ」としてとらえるのでも、草の根民主主義の発露」としてとらえるのでもなく、アイロニカルなロマン主義の現代的形象としてとらえたほうが、より実相に迫れるのではないか。・・・それは再帰性が加速した現代社会一般に広く浸透したメンタリティ、またはハビトゥスなのではないか。

秩序の社会性とつながりの社会性


北田  若者のコミュニケーションは希薄化どころか、むしろ奇妙なまでに濃密化する方向製をとっている・・・たしかに他者と価値観を共有するという意味でも「社会性」−秩序の社会性−への欲求は弱まってきているように思える。しかし、空気を読む「社会性」といっていいのかわかりませんが、首尾よく他者とのコミュニケーションを継続していくという意味での「社会性」−つながりの社会性−への欲求は、息苦しいまでに上昇しているのではないか。

オブセッシブ(強迫的)なアイロニスト  「低度のアイロニスト」


宮台  2ちゃんねらーの大半は「ズラす振る舞い」にオブセッシブ(強迫的)で、「ズラす自分から自覚的にズレる振る舞い」には鈍感です。自己適用を欠いたアイロニストを、僕は「オブセッシブ(強迫的)なアイロニスト」と読んでいますが、三島が「高度のアイロニスト」だとすると、「オブセッシブ(強迫的)なアイロニスト」とは、「低度のアイロニスト」だといえるでしょう。

僕が考えている「ベタ」とは、「アイロニカルではない」という意味じゃありません。「ベタ」「アイロニカル」と対立すると思っていません。僕は「アイロニカルか否か」という軸と、「オブセッシブ(強迫的)か否か」という軸を直行させて考えます。僕が「ベタ」という概念で批判しているのは、オブセッシブ(強迫的)な振る舞いです。・・・僕が頽落だと批判するのは、アイロニーがオブセッシブ(強迫的)になる動きです。

いまどきの若い連中は、アイロニカルに見えるし、何かにつけて距離化し、相対化しています。でも、ズラす自分からズレることができない。「終わりなき再帰性の渦巻きに巻き込まれてオブセッシブになっている。・・・「お前らの振る舞いはすべて自己防衛的な動機に基づく強迫で、軽がるしく浮遊しているようでありながら、実は重い。重くて重くてたまらない。お前らはさみしさを退屈と読み替えるヘタレだらけ。相対化を自由と読み替えるヘタレだらけ。本当は自由にコミットメントしたいくせに」といえば、高偏差値女子高生なんてコロコロ引っかかるんですよ。

「コンプレックスに浸された『困ったちゃん』がオブセッシブ(強迫的)な梯子はずし」に勤しむことで、 「自己目的的なコミュニケーションの接続」の閉じを見せる。それが頭の悪い2ちゃん野郎の恥ずかしさです。この手の輩を頽落といわずして、なにをか頽落といわん(笑)。この頽落を、文脈依存性への鈍感さとして語ることもできます。・・・たしかに、対象をズラすて距離化したがる点では、いまの若い人たちはアイロニカルな戯れが好きになったような見えます。でもそうした動機を支えるオブセッシブ(強迫的)な社会的文脈については鈍感です。だから、ズラす自分からズレることができず、自分をズラそうとする他者に対して過剰に防衛的になる。はたから見ると、そのヘタレぶりは恥ずかしいほど明確です。

「ネタなアイロニー「ベタなアイロニー


宮台  僕は「ベタ=オブセッシブ(強迫的)=依存」を単に批判しただけじゃない。「現実がツマラナイから虚構と知りつつ没入する」という歴史的に反復されるオブセッシブ(強迫的)。これを克服する処方箋を出したい。・・・「アイロニカルとノンアイロニカル」の対立軸と、「オブセッシブとノンオブセッシブ」の対立軸が、直交するといった。後者が「ベタとネタ」の対立軸です。したがって論理的には「ネタなアイロニー「ベタなアイロニーがあることになります。前者を諧謔(かいぎゃく)」と呼び、後半を「韜晦(とうかい)」と呼んでいます。・・・「韜晦(とうかい)」「どうせオイラは・・・」と開き直るから「自分自身がズレる」ことに関心を持てずに「対象をズラす」ことにだけ耽溺しがち。諧謔(かいぎゃく)」は、対象をズラす自分からもズレるので、自在にアイロニーから離脱する。・・・近代が成熟期を迎え、生活世界が空洞化するにつれて、「ベタなアイロニー「オブセッシブ(強迫的)なアイロニズムが支配的になってくる。

教養主義的なアイロニズム


宮台  諧謔(かいぎゃく)から韜晦(とうかい)へ」の流れを、「教養から批評へ」というふうに表現することもできます。というのは、教養とはズレることで、批評とはズラずことだからです。・・・「教養(主義)と諧謔(かいぎゃく)のコンビネーション」が、僕ら原新人類世代の共通感覚じゃないかな。それが、後続する世代では「批評(主義)と韜晦(とうかい)のコンビネーション」へと変化する。それが僕の実感です。・・・僕らはズラす自分からズレるのに対して、後続世代はひたすらズラそうとするばかり。・・・後期新人類世代以降は、ズラす自分からズレることができないので、永久にズラすことを強迫される、不自由な連中に見えます。対象を距離化する自分自身を距離化することができない、オブセッシブ(強迫的)な連中に見えます。・・・その象徴が2ちゃんねる的なものですね。

「抵抗としての無反省」から「無反省」


北田  宮台さんのいう「教養から批評へ」の変化を、「嗤う日本のナショナリズム(2005)ISBN:4140910240*1では、「抵抗としての無反省」から「抵抗としての」が抜け落ちていく過程として描いています。・・・先行世代が押しつけてくる「主体性」の要請に抗いつつ、同時に自分たちが充足している消費社会そのものも皮肉にとらえているわけです。

もちろんアイロニーの大衆化は進んだというのは間違いありません。でも六〇年代安保にくらべて七〇年代安保は「大衆的」であるがゆえにだめだ、といっても仕方がありませんよね。・・・「操縦する側」に着目して時代を語りうるのが七〇年代までで、「操縦される側」に注目しないと時代を語れなくなるのが八〇年代以降である・・・が仮に正しければ、「頽廃」史観そのものが、七〇年代的な論理に浸されているといわなくてはならない。

七〇年代から八〇年代の言説状況を考えるとき、マルクス主義という巨大な参照項が、否定されるにせよ肯定されるにせよ、かろうじて残っていたということは重要ですね。・・・何を基準にして、自分らが議論をいけばいいのかわからない。それが、たとえば単純に依拠する準拠先というものではなく、否定すべき的であってもいいのに。とにかく、そういう参照項が消えてしまっているんです。・・・一部のネット住人や自称「保守」主義者たちは、無理にでも「反発すべき大人」や否定の対象を作り出しているわけで、・・・参照項なき時代を与件として、ものを考えていかなければならない、ということです。

エリート主義


宮台  北田さんが、七〇年代には「オブセッシブ(強迫的)ではないアイロニズムを可能にする言説空間があったと言いました。・・・七〇年代の言説空間も、言説市場な大半を占める田吾作たちにとっては、いまどきの言説空間と大差はなかったんですよ。いつも時代も「そんなもん」です。・・・言説の真の影響力とはそんなもので、ピンポイントからピンポイントにおよぶものにすぎません。・・・僕の活動はピンポイントの影響を目指すもので、多段的広がりを目指さない。・・・簡単にいえばエリート主義です。人びとに反省を広げるといったミクロ主義なやり方では、どうにもならない。・・・マクロなアーキテクチャーをつくる影響力のある少数の人々に、ピンポイントで語りかける。

繰り返すと、教養主義的なアイロニズムで人びとを動員することはできない。せいぜいピンポイントで語りかけることが、できるかどうかです。僕が人びとの動員を考えるときには、アイロニズムを持ち出しません。逆ですね。ベタに語りかけるんですよ。それが、とりわけサイファ 覚醒せよ!」(2000)ISBN:448086329X*2 以降の僕の戦略です。

パンピーには「あえて」ベタに呼びかけておいて、しかし一部のエリートには「わかる人にはわかる」ように「あえて」しておく。・・・若い人たちにベタに伝えようとしているのは、距離を取ることはすこしも自由にはつながらないということです。没入する自由−それこそがアイロニカルに没入する自由−もあるんです。課題は、距離化ではなく、没入も自在・距離化も自在という自由なんです。

操縦する側/される側  マキャベリストポピュリズム


宮台  僕のいうところの「あえて」とは、パンピー向けのネガティブな言い方をすれば「オブセッシブ(強迫的)でなく、参入離脱自由になれ」ということだし、エリート向けのポジティブな言い方をすれば「単に正しいとおもうことをいう(する)のでなく、戦略的に順序を立てていえ(しろ)」ということになります。・・・”エリート向けの「あえて」”とはマキャベリストたれということです。

北田  現在は、否定的であれ、肯定的であれ、参照項として機能する言説が存在しない。・・・「歴史の終焉」の終焉」の時代だったと思うんですね。・・・「歴史の終焉」の終焉」の時代に、みずからの歴史性のなさを自覚し、「歴史の復権に意味を見いだすことができる人たちというのは、ごく少数だと思いませんか?圧倒的多数の人たちは、みずからの動物性をやりすごすしかない。その生の形式は、端的に構造的に生み出されてきたものであって、自由のためにアイロニーの観点から「頽落」といってしまうと、身もふたもないような気がするんですね。

「操縦する側」責任倫理が実効性を持つには、操縦する側/される側という区別が意味を持つような社会状況が、存在していなければならない。現代の日本がそのような社会状況にあるのかどうか、ということが問題です。・・・高い社会的流動性共同体主義とが奇妙な結婚を実現している社会空間では、宮台さんがめざされているようなマキャベリズムを実現するのは、かなり困難であると私は思うのです。・・・エリート倫理の啓蒙につとめるよりも、「よりよいポピュリズムを目指していったほうが「手っ取り早い」のではないか、と私は考えます。

ポピュリズムの怖さやしたたかさ、不健全さとパワーととことん真摯に受け止めるのがマキャベリストである、といえるでしょう。・・・私はマキャベリズムの実行や涵養を、第一義的な課題とするつもりはないんですね。社会的な意味論の次元では、もはや「操縦する側/される側」という区別は失効している、という前提から、私は言語戦略を考えます。

*1:なぜ2ちゃねらーは「藁(わら)い」ながら「没入」するのか? 北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」 <収束するポストモダン その1>  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050306

*2:なぜ宮台は「世界」の中心で「魂」と叫ぶのか 宮台真司サイファ 覚醒せよ!」 <収束するポストモダン その5> http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050502