ヘタレたち 2 <なぜ「ヘタレ化するポストモダン」なのか? その10>

pikarrr2005-11-18

「遊び」という「小さな不自由」


欲望とは、不自由への欲望である。その不自由がテクノロジーにより消失している。あるいはデーターベースによって、利便化されている。僕たちが直面しているのは、不自由が消失する不自由である。満足を享受しながら、不自由であろうとしなければならないとパラドクスの中にいる。

ここではもはや「大きな不自由」は望めない、「小さな不自由」を欲望しつづける必要がある。満足と不自由の反復。ここにボクたち不安定がある。満足しながら、不自由へということは、満足のさらに不満足を見いだす。それが「遊び」である。「遊び」とは、あえて不満足をつくりだし、それをクリアーする楽しみである。ゲームの困難さは、本来、必要のない困難さである。

そこでは、大きな困難よりも、小さな困難である「遊び」が求められる。たとえば2ちゃんねるでさえ、コミュニケーションという小さな困難を楽しむ「遊び」である。この小さな遊びは速度を生み出す。次々に作られる遊びをこなすには、小さいものである日必要があるのだ。




「多数的なもの」たち


情報化社会によって、「遊び」の細分化、クリエーター→プチクリ→極プチクリへの変化が、起きている。より価値が細分化され、誰もが容易にクリエイティブになれる。2ちゃんねるの1レスで極プチクリな発言をするなど。そしてそれは速度に対応している。クリエーターは重すぎて、速度に対応できない。

たとえば、お笑いにも顕著です。大きなお笑いよりも、キャッチなフレーズで、感性的な、ギャグ的な小さな笑いがどんどん乗り換えられている。「ゲッツ」「残念!」ヒロシです「フォ〜!」ここにあるのは、体感的なお笑いの速度です。

かつて渋谷は眠らない街、毎日が祭りなどといわれたが、2ちゃんねるであり、ネットで同じことが加速的に起こっている。これが、現代の姿である。このような「吹き上げ」が加速されていくのである。2ちゃんねるの安易な加速から逃れたブロガーでも、結局、同じことが起こっている。いまのブームはなにか?という高速の「多数的なもの」たちが起こっている。

このようなブームを渡り歩くヘタレな「多数的なもの」たち。これがおもしろい!という選択、消費に自己価値を見いだす「極プチクル」です。これは動物化と読んでしまっても良いのでしょうが、コジェーブのいうような「動物のような充足」ではなく、「脅迫的な不充足」故に、「ヘタレ化」と呼ぶのです。




ネットを蠢く狡猾な群れ


ヘタレ化とは、過剰に「小さな遊び」を求める、ブームを追いかけるような姿勢である。たとえば「祭り」とは、「小さな小さなブーム」である。このような姿は、グローバルビレッジ、スマートモブス、知民などのネットで達成される理想的な民主主義幻想、理性的な意志をもった集団でも、あるいは欲望をもつ主体群という定型な実体ではない。不確実で、不定型な実体として現れる。

だから「愚衆」ではないし、ただの「暴徒」でもない。そこにアイロニーが働くことを忘れては行けない。彼らはなかなかずるがしこく、「あえて」暴走すること、そしていつでも離脱可能なように担保している。それが「遊び」であることを知るずるがしこさを持っている。

すなわちあえて暴走という「遊び」を作り出すことによって、欲望を回収しようとしているのである。それは単に動物ともヘタレとのいえない、狡猾な集団である。しかしこの離脱、内部/外部への経験的な小ずるい彼らが、それを俯瞰する、知識、戦略を持っているわけではない。彼らは全体を動かす権力はないし、そのような意志もないだろう。ただ生きることに小ずるい、という意味でしたたかである。




なぜ2ちゃねらーはエイベックスに破れたのか?


たとえば、のまネコ問題にその傾向は顕著にでた。なぜ2ちゃねらーはエイベックスに破れたのか?彼らは祭りという圧力としてしか、働けない。交渉する主体性そのものまでは、作り得ない。そして、それは、熱しやすいが、冷めやすい。特ののまネコの場合は、本来、発散的、どこまでも拡散的である。2ちゃねらーが、モナーという神性を守るという、めずらしく受け身になったということがある。この受け身は特定の人にはわからないだろう。

エイベックスは、実体ない主体へあたかも交渉しているように、振る舞う。パフォーマンスをこれらの争いの外部へ見せ、引き延ばしつずけ、冷めるのを待ったのである。彼らの謝罪に関わらず、経済的になにも失っていないのである。

彼らは、著作権市場経済などの知識はない。そのような教養、戦略的なアイロニーはない。それはいわば、静的なアイロニーである。彼らは、内部/外部を作動し、「遊び」としてのアイロニーである。動的なアイロニーである。エイベックスとの交渉するような、高度なことは望めない。ただ圧力としてのみ、働いた。エイベックスは、2ちゃねらーとの交渉の仕方を示したと言えるだろう。

しかしこれがすべてではないだろう。たとえば、かつて2ちゃんねるの負荷危機の時には、プログラマーたちが、まるで知性な主体として動いたのである。これは、不定形故に、様々な形態をもつということであり、エイベックスの場合は、ボクが宗教戦争といったように、狂信的な形態として現れ、交渉しえなかったといえる。




抑圧されるヘタレたち


宮台がヘタレ保守と呼ぼうが、拡散する主体、拡散する世界、境界が失われ、透明になる世界において、強烈に自己を求める欲求が回帰するのは、当然の傾向である。それは多くの知識人が求める倫理の強度、「拡散せよ。主体を解体せよ。」という強迫への反発でもある。オウムへの没入、若者のウヨ化、嫌韓など、社会的な倫理とは逆行する傾向は、このような強度を強いる社会への反動という面が否めない。だれもが宮台のいう「エリート」になどなれないのである。

リベラルな知識人たちが求める世界は動物にいきつく。差異をなくし、発散へ。この運動を可能にするルールは私とはなに?と問わないことである。あるいは問うても良いか、個人的趣味の範囲でなければならない。それぐらいの空気を読む知識と教養ぐらい身に付けろよ。ヘタレども。とローティはいっているのだ。なぜなら歴史は終わったのだから、マテリアルワールドの勝利でいろんな理屈をたれようが豊かさが一番だってことだろ。ならへたれるのやめて動物化してまたーり行こうや、っというわけだ。

「だってね。イデオロギーとか宗教とか信条とかいいだすと、すぐにケンカになるじゃん。ぜったい譲るないと思うわけ。でもさ、豊かになろうよ。みんなで豊かになれる社会つくろうよ。そりゃさ、勝ち組、負け組はできりけど。平等に競争して、負けた人は勝った人が助けてあげればいいしゃん。だからヘタれちゃだめ。動物になってがんばるわよ。みんなファイト!」

みんなヘタレ隠し、動物として、生きているのである。気軽に見える女子学生でもほとんどか孤独を抱えてるらしい。いまはヘタレであることが嫌われる社会だから、みんないろいろたまっているのだ。そのために、ボードリヤールが言うように「透きとった悪」となる。へたれがあちこちに蠢いている。あるとき突然暴走したヘタレは、排除しようと、暴力となる。だから、隠れヘタレたちがネット上に表出するのは、ヘタレのオアシスとして有用であるのだ。