精神病的ミクロ認識と神経症的マクロ認識

pikarrr2006-03-10

人はなぜ宝くじを買うのか


たとえば、雲行きから天気を予測する場合、いままでの経験に照らし合わせて、「この雲行きだと、雨が降りそうだな。」と予測します。これは、ある意味、「統計的な認識」です。一日を単位として、それが反復されている。その毎日毎日の経験値(母集団)に照らし合わせて、天気を予測する。このようなある単位=「ミクロ」が反復しているという想定で、予測が行われますことを「ミクロ認識」と呼びたいと思います。

それに対して、経験値とは別に、「今日はなにか良いことがありそうな気がする。だから今日は晴れだ。」と予測する場合もあります。これは、反復のない今回1回限り=「マクロ」の認識であり、「マクロ認識」と呼びたいと思います。

人間は世界を、「ミクロ認識」「マクロ認識」の相補的な関係で認識していると、考えられます。たとえば、宝くじを買うことを考えます。宝くじを確率的に考えると、「購入者」は必ず損をするんです。「発行者」の儲けは、「購入者」の払ったお金−宝くじの当たり−経費α、です。これは必ずプラスになります。だから確率的(「ミクロ認識」)では、宝くじ買う理由はないんです。しかしなぜかみな宝くじを買います。それは「この私!なら当たるんじゃないか」「奇跡は起こる」というように、拠なき「信頼」という「マクロ認識」によるものです。




「ミクロ認識」儀礼「マクロ認識」的冗談


このような認識は、日常で働いています。たとえば、「おはよう」と話しかける場合、経験的(ミクロ認識)には、「おはよう」とかえってくるだろうと予測しています。特に強く意識しなくとも、こーいえば、あーいうだろう。こーいわれれば、あーいおう、ということが、予測されています。社会というのは、このようなミクロ認識が儀礼化しているための「安心」な場として作動しています。

しかし「おはよう」と話しかけた場合に、「おまえを殺す!」などの、予測もしない不確実性な反応が返ってくる可能性があります。これは、どのような親しい関係でも、相手が本当はなにを考えているのか、どう行為するのかはわからないという意味で「他者との断絶」であり、マクロ認識が作動する理由の一つです。

冗談というのは逆にこのような「マクロ認識」の作動を利用しています。ミクロ認識な安心の場をあえて破り、予想しないことを起こし、場を緊張させ、その後安心な場への復帰に「笑い」が生まれます。




「ミクロ認識」的トラウマと「マクロ認識」的空想


マクロ認識の「信頼」「欲望」論で語ります。ミクロ認識の究極とはなんでしょうか。全てが経験値的に(予定調和に)作動する世界。ここでは、もはや「この私」は必要とされません。統計的な「私」とは誰での良い一人であり、簡単にいえば、人の体の中の1細胞のようなものです。一つの細胞が死んでも、すぐに隣の細胞がその機能を代替します。これが「この私」のトラウマでなくて、なんでしょうか。

このトラウマから、逃れるために、「この私」の意味を求めます。確率的には買う必要がない宝くじを買い、「この私なら当たる。1億円当たったら、あれもしよう、これもしよう」という「空想」を見るのです。ここでポイントは、人は必ず「信頼」する、「空想」をみるということでなく、ミクロ認識がトラウマ的だから、なおさらマクロ認識的な空想をみて、欲望するのです。欲望論的にいえば、「宝くじは当たらないからこそ、買われる」ということです。

科学的、確率論的とは、ミクロ認識です。しかしこれは、ミクロ認識が正しくて、マクロ認識が曖昧ということでなく、宝くじというものをどのように認識するのかの違いです。




「精神病」的ミクロ認識と神経症的マクロ認識


ミクロ認識とマクロ認識の究極を考える場合には、人間と動物の「断絶」を考えないといけません。動物には「この私」(自意識)はありません。だから本能(あるいは遺伝子命令)と経験値(ミクロ認識)で生きています。すなわち動物は群れの「1つ細胞」としてのただ生きるのです。ミクロ認識は「生」純化します。これをニーチェ力への意志と呼びます。

しかし人間は、動物と違い「この私」という自意識を持っています。だからミクロ認識のみで「生」純化状態では、「この私」が消失することに耐えられません。だから人は動物のような純粋な「ミクロ認識」を持ち得ません。純粋なミクロ認識の前では、「この私」は解体され、精神病になります。

だからマクロ認識が作動し、「生」を疑い、「この私」の意味を求め、「空想」の中で「信頼」して生きます。人間のミクロ認識は、マクロ認識という空想によって囲まれています。しかしどこを差がしても、「これが私だ」という「この私の意味」は獲得されません。マクロ認識は「この私」を過剰に欲望しつづけます。だから「人間はみな神経症なのです。」

マクロ認識は「生」を危険にさらすことで成り立ちます。確率論的に正しくないはずの宝くじを買う、盗んだバイクで走り出す・・・そして追いつめられると、「この私」に意味がないと「生」を抑圧し、自殺することがあります。これはフロイト「快感原則の彼岸」ラカン「死への欲動」です。 動物は、ただ生きるのみで、自殺しません。

「機械」にはマクロ認識がなく、経験値によるミクロ認識で作動します。だから人工知能「動物」を再現できるでしょうが、「人間」は再現できません。確率論的に正しくないはずの宝くじを買う、盗んだバイクで走り出すような神経症人工知能は必要ですか?世界を滅ぼします。人間のように・・・




否定神学化するマクロ認識


現在、ボクたちのおかれた環境は、ミクロ認識>マクロ認識なんです。日々あふれる情報はマクロ認識(信念)を解体し、ミクロ認識へ導きます。「この世界は確率的だ。人が生きる意味などない。ものごとを素朴に信じるヤツは馬鹿だ。神などいない、もはや死んだんだ。」

このトラウマ的ミクロ認識に耐えられるのでしょうか。確かにこの中で窒息しかけている面はあります。「ならなんのために生きているんだろう」と。このために宗教にはまるなどもありますが、現在、信じることはそう容易ではありません。

そのような中で、人々は、むしろミクロ認識を指向しています。ここには逆説的な戦法が隠されています。それは、「この世界は確率的だ。人が生きる意味などない。ものごとを素朴に信じるヤツは馬鹿だ。神などいない、もはや死んだんだ。」ということがわかっているこのオレ様!すごい」。あるいは「この広大な宇宙論の前でおれはちっぽけだ」ってしってるおれってかっちょいい!」ということです。

信念(マクロ認識)を徹底に否定することで逆説的にマクロ認識を確保する。これは否定神学と呼ばれます。現代はこのように巧妙にマクロ認識(信念)を作動させ、「この私」を救出しています。このような機械論(ミクロ認識)指向に隠されたマクロ認識をボクは「機械論の欲望」と呼ぶわけです。
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