なぜ悪口をいうとすっきりするのか

pikarrr2006-04-15

ネットに溢れる悪口


悪口をいうのは、一般的にはある対象への悪意があり、それを表現することであり、 その対象への攻撃である。このような悪意は精神分析的に検討されているように複雑である。たとえば対象への愛着である転移は良性では愛であるが、悪性では悪意となる。たとえば嫌韓の裏面にはより好韓傾向の増大があり、排日の裏面では好日傾向がある。ナショナリズムの裏面にはグローバリズムがある。

しかし嫌韓などネット上に溢れるヘイトスピーチは、必ずしも対象へ攻撃することが目的であるように見えない。むしろ誰でもよいが悪口をいう、いわずにはおれないような飢餓感さえ感じてしまう。言いたい何かがあるのではなく、何か言うことそのものが目的化するのは、ネットの特性だと言われる。

何かを伝えるためにコミュニケーションするのでなく、コミュニケーションすることそのものが目的化している。誰かを攻撃するために悪口をいうのでなく、悪口を言うことそのものが目的化している、ということである。ネットでは悪口でなくても、言葉そのものに意味がない「荒し」などの悪意の行為も同様である。

悪口で重要なことの一つは、それを言うことが悪いであるがわかっていることである。すなわち正しいとはなにかわかり、その上であえてその正しさを破る。二つ目は、悪口は聞いてくれる誰か(他者)がいることを必要とするということ、他者(観客)へ向けて発せられるということだ。そしてその他者とは正しさが共有され、その悪口が悪口であることが理解されることである。




悪口の社会的効果


これを前提にして、悪口は大きく二つの効果があるだろう。一つは場(内部)をコントロールすると言う意味で社会的である。たとえば悪口は、場(内部)に緊張をもたらす因子を緩和するというツッコミ的に発せられる。たとえば悪意はなくても、場(内部)にうまくとけ込めずキョドった人が場に緊張を与えるときに、緩和しようと悪口は言われる。

より強く場(内部)をコントロールする場合、悪口をいうことでその人を外部に排除し、自分が帰属する内部へその他の人たちを帰属させようとする。たとえば自分がその場にとけ込めない不安から、誰かをイジメ、自分を内部に帰属させる。嫌韓的な発言は、日本という虚構の共有体験の内部を作り出すというナショナリズム的な効果がある。さらに過激な悪口はそのようなタブーを言えるという暴力の誇示として、自己顕示によって回りを従わせる(コントロール)することができる。

屈折したものでは、たとえばネット上の荒らしは、みなに嫌われることで、みなの注目をあびる「おまえらなんかダメだ」と、むしろ自分を外部におくき、その外部とは内部と相対化によって生まれるために、内部と外部を含めたより大きな内部への帰属を意味する。「ひねくれ」はそれはそれで他者と関係性の構築であり、内部への帰属への願望である。



悪口の精神分析的効果


悪口の効果の二つ目は、悪口をいうことですっきりする、自分の中のストレス、抑圧され苦しいために、なにかに当たることで解消するという、個人的、精神分析的なものである。すべての悪口にはこのような内的な不安を解消するために行われる面があるだろう。

本質的に自分の中に抑圧されたものを解消するためには、他者へ現前化し、見せることであると言われる。たとえば他者と話し、他者に相談することである。雑談の中で多くの悪口が言われる。それは先ほどのように他者とタブーを共有するという社会的であるとともに、他者にいうことで、その抑圧されたものを客観視、他人事のように眺めることで、ストレスが解消されるのである。

ネットなどで、ヘイトスピーチが言われるときには、みなが心苦しくなるような過激な悪口いうことで、他者の目を引きつけ、 「みろ、この悪口がおれのつらさだ!」「おれはこんな悪口をいうぐらいにこんなにつらいんだ。」と現前化するのである。

さらにはそこには、自虐であり、自己懲罰的な面もある。悪口が悪いことはわかっているのであり、過激な悪口によって、自分の中にある「正しさ」を汚のである。そしてその罰せられた悲しい自分を他者に現前化するのである。特にネットでの不特定多数へ悪口はこのように無意識的に、いわずにもおれないように言われるのではないだろうか。