なぜ人々はディテールにこだわるのか。 映画「間宮兄弟」

pikarrr2006-11-24

ドラマ結婚できない男のおもしろさ


ドラマ結婚できない男(ASIN:B000ILZ3WG)は前評判もたいして高くないのに、高視聴率をとり、評判になりました。阿部寛演じる40代の独身建築家は、自らの小さな設計事務所で自分が納得するこだわった仕事をしています。そして私生活でも誰にも邪魔されない好きな趣味の世界に埋没し楽しんいる。彼にとって人間関係は自らの楽しみを妨げる煩わしさものでしかありません。だからまわりからは良い仕事はするが人付き合いが悪い変人にみられています。そしてそんな男がまわりの人々と関わりながら、一人の女性と恋に落ちていくという話です。

このドラマのおもしろさは、このような趣味型人間のディテール(物の細部)へのこだわり方を緻密に描くことで、その滑稽さともの悲しさが浮き彫りにされるところです。このような自らからの趣味に埋没する楽しさと孤独は、現代人だれもがもっているものではないでしょうか。そのために人々の共感を呼んだのでしょう。




映画間宮兄弟のおかしさ


同じような滑稽さを醸し出しているのが、映画間宮兄弟(ASIN:B000J107L2)です。この物語のおかしさは30代になっても同居し続け、ペアルックを着るぐらいに仲の良い兄弟という「異常さ」です。

普通、大人になれば、家族から離れ、社会の中で人間関係を築いていきます。これは精神分析的には「去勢」といわれます。家族は自分の一部のような存在です。そこに閉じ困ることは居心地がよいが、閉塞をうみ、近親憎悪にいたります。人は、家族という閉じた世界から社会へと開かれていくことで大人になっていきます。

だから間宮兄弟が醸し出す気持ち悪さは近親相姦的なものです。しかし彼らはそれぞれきちんとした職につき、社会関係も築いています。彼らのまわりに様々な人が登場しますが、みんなどこか壊れています。肉体関係だけで親に紹介してもらえない常盤貴子演じる小学校女教諭、彼氏に相手にされなくても別れられない沢尻エリカ演じるビデオ店員、強引な女上司に口説かれ流されるままに妻と離婚する友人など。

彼らとの関係の中で間宮兄弟への近親相姦的気持ち悪さは薄れ、「間宮兄弟」がとてもさわやかなものに見えてきます。




間宮兄弟という儀礼


不安定で流動性が高い社会では、もはや家族から「去勢」され社会へ開かれても、そこに居場所は見いだせません。そしてみんな居場所を探して社会の中を徘徊しています。だから間宮兄弟は社会から回帰し、仲の良い兄弟関係の中に居場所を見いだしたのでしょう。しかしそれは近親相姦的関係への回帰ではありません。

たとえばポップコーンをほおばり、スコアボードとつけながら、野球中継を見る。応援してるチームが勝つと紙吹雪をまき、ハイタッチする。小学校女教諭やビデオ店員を呼んで、カレーパーティや浴衣パーティーを開く。寝る前に反省会が開く。それらすべて、どこか「演技的」であり、儀礼的」です。

彼らは自らの滑稽さをわかっているのでしょう。それでもあえて間宮兄弟を演じあうことで、近親相姦的、閉塞的な直接性を回避しつつ、居場所を確保し続けている。そして彼らの距離を保つのが、ディテール(物への細部)です。ディテールにこだわって演じ続けることで居場所が確保されているようにふるまわれます。




「知的労働者(ナレッジ・ワーカー)」は「勝ち組」か

ピーター・ドラッカー氏が指摘する「ITより重要なもの」


知識労働力(ナレッジ・ワークフォースへのシフトが急激に進み、製造業における従来のブルーカラー職は消えることになるでしょう。先進諸国においてブルーカラー職の数は急速に減少しております。ただし日本ではいまだに製造業が大量のブルーカラー労働力を雇用しています。

知的労働者(ナレッジ・ワーカー)は自らの仕事をブルーカラーの仕事とは大きく異なると考えています。日本の標準的なナレッジ・ワーカーは、経営管理者(マネジメント)への昇進を望んでいません。彼らはナレッジ・ワーカーとしてあり続けることを望んでいます。・・・経営職に就けば、今よりずっと良い給与をもらえるにも関わらずです。こうした人たちの登場は大きな変化の一つです。

あらゆる先進国にとって、来る10年における大きな課題は、会社で働くすべてのナレッジ・ワーカーをマネジメントする方針を確立し、生産性を上げることです。・・・ナレッジ・ワーカーの多くは、自分の知識をどのようにして仕事に活かそうかと考えますが、会社の使命についてはあまり真剣に考えていません。これからはナレッジ・ワーカーが、自らの仕事を会社の共通の目標に向けていくようにしなければなりません。

http://itpro.nikkeibp.co.jp/a/biz/shinzui/shinzui1122/shinzui_06_01.shtml

本内容は2003年に行われた故ドラッカーへのインタビューです。「知的労働者(ナレッジ・ワーカー)」は金銭よりも、地位よりも自らの技術に誇りをもち、仕事をしている。そして経営側にたって、彼らを管理することの難しさが語られています。

結婚できない男は建築家、間宮兄弟の兄はビール会社に勤めるテイスター、弟は小学校の用務員(小学校内の雑用をまめにこなすため、用務員室は職人部屋のように様々なものが整理されおかれている。)彼らは「ディテールへのこだわり」を元にした「知的労働」を担保に仕事をしています。




社会的役割からディテール(物の細部)へ


かつて「母はつよし」などといわれましたが、「母」とは社会的な役割です。去勢され社会的な立場に立ち、そこにある強い使命感が人の自信に繋がりました。それは「父」であり、「夫」であり、「教師」であり、地位があること、さらにはお金をもっているということです。

しかし現代では役割、使命も曖昧になり、それだけでは強い自信にはなりません。そして自信をもつとは自らを他者にかわれないで何者として見いだすこと、代替不可能性への自信であり、アイデンティティ(自己同一性)を見いだすことです。

そして現代において、このような自信を補完しているのが、「ディテールへのこだわり」です。彼らはどちらかといえば高収入であり、自らの仕事に自信を誇りを持っています。しかしそれだけで、「勝ち組」と言えないところに、これらの物語のおもしろさがあります。




ディテールにこだわりらずにはおれない


仮に「専門性を持つナレッジ・ワーカー」が優位だとしても、同じ「ナレッジ・ワーカー」とは限らないでしょう。流動性の高い社会では、テクノロジーの変化がはやく、専門性の進歩も早く、入れ替えが起こるだろうからです。

しかしそれよりももっと根本的なことは、「ディテールへのこだわり」は単に優位な労働ということではなく、現代人の生き方、あるいは生理そのものに関わっている、関わらざるおえないものであるということです。

人々は身の回りのディテールへのこだわることで平静を保ちます。決まった時間、決まったところ、決まったものという「安定反復」が求められます。このような神経質な性行は現代ではだれもがもっています。そしてこのような傾向は「他者回避」に向かいます。なぜなら他者とは予測できない不確実な存在だからです。

たとえば、ジャックニコルソン主演の映画「恋愛小説家」(ASIN:B000H1RH30)でもこのような神経質な作家が描かれていました。その中で最初に登場する他者は「犬」でした。言葉が通じず、なにをするか予測できない粗雑な存在。

この存在に神経質な作家は「安定反復」を乱されイライラします。ドラマ結婚できない男でも同様に、お隣の犬を預かる羽目になり、イライラさせられる話がありました。そしてどちらでも、その「犬」へ深い愛情を持つことになります。そしてこの最初の無邪気な「他者」を受け入れることで、次のステップとしての「恋愛」へ向かいます。

これらの物語はディテールへのこだわりざるおえない現代人の滑稽さともの悲しさ、そして救済する物語なのです。
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