なぜ少女はネットで裸をさらすのか
女神のような街燈の光にさそわれながら
夜の小鳥たちはガードレールの上で翼を休めている
はるか彼方で声がする誰を呼んでいるのか
朝が来るまで 君をさがしている
陽の光をさけながら栄えているこの街角で
夜の天使たちがスターダムにのし上がる
一歩踏み出せば 誰もがヒーローさ
もしそれが誰かの罠だとしてもだ
朝が来るまで 君をさがしている
君をさがしている(朝が来るまで) 佐野元春 (ASIN:B00005G4G4)
裸をさらず「女神」たち
少女たちがケータイで裸をさらす理由
出会い系サイトで知り合った中2の少女(14)に携帯で裸の画像メールを送らせ、「会わなければ写真をバラまく」と脅した山形県の中学教諭(38)が5日、脅迫で逮捕された。先月は、埼玉県の会社員(41)が女子高生に「顔写真を合成してワイセツ画像をつくった。バラまかれたくなかったら裸の写真を送れ」と強要して捕まっている。会社員が女子高生の裸写真を流した画像サイトには25人分の少女の写真が陳列してあったという。少女たちはなぜ、見も知らぬ男の言うままに裸身をさらしてしまうのか。
このような犯罪は裸をさらす少女の本質を表していないのではないだろうか。ネット上は裸をさらす少女の写真に溢れている。2ちゃんねるにもそのようなスレがあり、ネット住人たちは彼女たちを「女神」とよぶ。
彼女たちにとって、自分の裸など毎日見飽きたなんの価値もないものだ。それがネットに晒すことで注目をあび、価値をもつ。私生活という場で意味のなかった「裸」をネットという開かれたコンテクストにコピペすることで、強烈な意味をもつ。バンジージャンプから飛び降りるように回りから煽られ、強烈なまなざしの中に飛び込む。
「一歩踏み出せばだれもがヒーローさ」
しかし少女たちのこのような危険への跳躍は新しいものではない。「非行少女」は学校では禁止された枠の外へ出ることで、男たちのエロティックな対象になる。彼女たちはそのような刺激に触れて、驚き、喜ぶ。
ただネットでは、このような外部があまりに近接しすぎている。ケータイ写メールの普及で瞬時にネットへ送れ、また匿名でアップすることができる。このように外部がもっとも安心できる部屋の中まで短絡してくる。そしてネットの危険に無頓着で顔を晒す子も多い。
「一歩踏み出せばだれもがヒーローさ。それがだれかの罠だとしてもだ」というとき、その一歩があまりに軽すぎる。
「巨乳」というハイパーリアル
現代では、「巨乳」はとても象徴的な対象だ。男が巨乳が好きなのは母性の象徴だから。あるいは男はみなマザコンだから。あるいは人間が直立歩行することで、性欲を誘引するお尻が前面(胸側)についた、といわれる。
しかし男は誰もが巨乳好きであるというのは神話だ。「巨乳」はグラビアアイドルという商品の付加価値としての差異化のなかで、「巨乳」は作られた最近の発明品である。
それは「象徴的貧困」*1というマスメディアによる記憶の画一化である。巨乳を前にして男性は、「これが噂の巨乳か、すげぇ〜」と言う/言わされる。ボードリヤールのハイパーリアル的な意味において、やはり「すべての男性は巨乳好き」なのである。
「巨乳」になる喜び
では「巨乳」の女性自身はどうでだろうか。「巨乳」という意図しない容姿によって、その人がカテゴライズされ、意味づけされる。このようなことは、型にはめられ、抑圧されることを意味する。だから興味本位に「巨乳」として注目されることを嫌がる女性は多いだろう。
しかしまたそこに喜びを覚える部分もあるのではないだろうか。ハイパーリアルな「巨乳」への欲望には男女差はない。女性自身も欲望の対象としての「巨乳」の意味を共有している。そして「巨乳」は生まれながらに持つものでなく、作られるものである。
彼女たちにとって、自分の裸など毎日見飽きたなんの価値もないものだ。それが「巨乳」と名付けられることで、注目をあび、価値をもつ。そして「私もあの男性達が熱狂する「巨乳」になれた!」と喜ぶ。
画一化にこそリアリティが生まれる
自らを獲得することが困難な現代において、その画一化(「象徴的貧困」)にこそリアリティが生まれる。少女たちはネット上に裸をさらし、「これが噂のネットに晒される「少女の裸」か」、「私もあの男性達が熱狂する「少女の裸」になれた!」と少女自身も含めて「少女の裸」を共有し、興奮する。
これは少女だけのことではないだろう。2ちゃんねるやブログやmixiなどネット上で、人々はみな競って自ら(「裸」)をさらけ出している。
一歩踏み出せば 誰もがヒーローさ もしそれが誰かの罠だとしてもだ
朝が来るまで 君をさがしている
*2
*1:「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレール http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911