なぜネットはこれほど短期間で増殖しえたのか

pikarrr2006-12-08

現実界の二通りの意味

エディソンのフォノグラフ(蓄音機)がその溝に刻んでいたのはこの振動数以外のものではなかった。それにたいして音階や和音は、比率、つまり整数にたいする分数のことをいう。・・・十九世紀になってはじめて登場してきた周波数という概念は、・・・長さの比率のかわりに時間が独立変数となっている。それは音楽のメトロノームやリズムとなんの関係もない純粋に物理的な時間であり、人間の眼ではとうていとらえられない速度の動き、すなわち一秒あたり二十から一万六千という振動を数量化した時間なのである。つまりサンボリックなもの(象徴界)にかわってリアルなもの(現実界)がそこでは登場してきているのだ。


「グラモフォン・フィルム・タイプライター」 フリードリッヒ・キットラー P67 (ASIN:4480090347

現実界のとらえ方には二通りあって、一つはカントの「ものそのもの」で、人の認識の外という意味です。キットラーは人間の認識できない周波数などを現実界としています。もうひとつは精神分析的でジジェクが大好きな「欲望の不可能性」です。不可能であることである「もの」です。

キットラーのような「科学の知」をどのようにとらえるか、むずかしい問題です。たとえばネットをするときその下部には人間の認識できないプログラムがあります。映画「マトリックス」では完全に人間の外ですが、僕たちは音が周波数であり、ネットがプログラムであることは知っています。するとこれらは象徴界の位置にくるのでしょう。

キットラーのテクノロジー論ではこの違いが混同されているところがあります。キットラーや読者がいまや象徴界になった過去の人の現実界を語る。すなわち神の位置に立っているということです。しかしこれは歴史を語るうえでの当然の立ち位置です。この位置を確保できないと歴史を語ることはできません。




ストラカン派VSジジェク


デリダキットラー、東はポストラカンを目指すという同じ系列に位置しています。人の(言語)認識の外部にある科学知識の全面化によって象徴界現実界化」が起こっているということでしょうか。そのためのシニフィアンの物質性(エクリチュール)が重要になります。物質性によって、認識の外部で科学技術操作の対象となっているということです。この流れは最近ではメディオロジーなどにも繋がっています。

そしてジジェクの主張は現実界をこのような静的なものから、精神分析(欲望)へと取り戻すことでしょう。現実界の本質は、単なる認識の外でなく、欲望の不可能性であり、象徴界「物質的な」構造ではなく、欲望の磁場であるということです。

デリダキットラー、東でも彼らが語るとき、神の位置などでなく、欲望の磁場の中にあります。いまや象徴界になった過去の現実界を語るような神の位置に立つことは不可能であり、それそこが欲望であるということです。




機械論の欲望


ネットの下部としてのプログラム、音の周波数などの「客観的な」科学的事実でさえ、欲望の磁場から逃れることができません。論理であり、数字であり、それらの「客観性」は、「客観化したい」という強い欲望によって作動しています。ボクはこれを「機械論の欲望」と呼びました。*1

科学技術はあくまで、現実界という認識の外部を「客観視」したい欲望です。だから音の周波数は発見されたのでなく、発明された。音が周波数として表現されたときに、周波数は生まれたのです。そしてこのような数量化というシニフィアンの欲望は、欲望の不可能性としての現実界を産み、さらなる数量化したいという欲望をかき立てます。

たとえばボクたちが感動的な音楽を、他者の鳴き声を聞くとき、それを周波数として分析することができるでしょうか。そこには数量化では表せないものがあります。あるいは次に人の生理に心地より指数が「発明」され分析されるとしても、そこにまた残余が残ります。そしてまた新たな指数が・・・と、その不可能性こそが、現実界です。

たとえばキットラーのテクノロジー論、グラモフォン・フィルム・タイプライターでいくらシニフィアンの物質性を分析しても、音楽、映画、小説などの感動であり、宗教的な強い思い入れは、見えてきません。むしろこれらが数量化されるほどに、数量化されない不可能性=現実界が際立ってきます。それはネットでも現れているでしょう。なぜデジタル化されたネット上で人々はこれほど欲望剥き出しに、さらに信仰的に振るまうのか。




東浩紀ポストモダンの二重構造」の外部


このような状況を東浩紀ポストモダンの二重構造」として示しました。*2下部構造としてのプログラムなどの環境管理の層、それは物質性の層であり、シニフィアンも物質としてコントロールされる。そして人間の物質性=身体が管理される層です。

それに対して、人々の趣向が多様に現れる心の層です。ポストラカン派として当然、これは環境管理を下部とした上部構造として描かれます。ボードリヤールのいう移ろいやすいシミュラークルの層です。

しかし現実界を欲望の不可能性として考えた場合に、これら二層構造のさらに外部として現実界を想定することが必要です。環境管理といってもその動力は、「機械論の欲望」です。このような二層構造そのものが決して到達しない不可能性への欲望の磁場ということです。




科学技術の領域とサントーム(症候)


しかしポストラカン派が指摘するように、ラカンにおいてはこのような科学技術(環境管理)の領域への言及が弱いように思います。ラカンのいう想像界/象徴界/現実界というボロメオの環において、このような科学技術(環境管理)の領域は、象徴界現実界の間の曖昧な位置になります。ボクはラカンが後期に思考した「第四の輪」「サントーム」にカギがあるのではと思っています。

サントームは、ボロメオの輪の解体をつなぎ止める「症候」という「第四の輪」です。ラカンはサントームの説明にジョイスエクリチュールを用いますが、ここには、物質的(存在論的)な意味があります。

症候ジョイスに基づいて強調されていることは、主体の構造の構成における(技術の研鑽、工夫を凝らした方法といった月並みな意味での)人工物の重要性である。ラカンは、あらゆる発明は結局、サントームであるとまで言う。

精神分析事典 「サントーム」 (ASIN:4335651104


解釈を越えるばかりか、幻想をも越えて生き残るこの病理学的形成物すなわち症候を、どう扱ったらいいのだろうか。ラカンはこの問題にサントムという概念でもって答えようとした。この新語には一連の連想が含まれている(合成人造人間、症候と元号との総合、聖トマス・・・)」

イデオロギーの崇高な対象」 スラヴォイ ジジェク (ASIN:4309242332




科学技術の発展=グレイゾーン化 


人間になるとは、言葉か、道具(技術)か、というぐらいに、技術は根源的なものです。また言語も一つの技術といえますが、特に近代以降の「科学技術」の発展は人間の認識(無意識(言語))では到達しえない領域であり、科学技術によってのみ秩序をもちえる外部との境界部です。 ボクはこのような領域をアガンベンからとって、「グレイゾーン」と呼びました。グレイゾーンとしての科学技術の特性は、「科学技術は外部を開拓(グレイゾーン化)する力をもつ。」「科学技術は一つの象徴界であるが、人の認識(言語(無意識))を超えて作動する。」が上げられます。

ボクは数量化による客観化の力を、情報を縮減する力といいました。それによって高速伝達され、共有され、反復され、体系化され、客観化される。

数字というシニフィアンがもつ力とは同一性と反復によって情報を縮減する力である。数字によって縮減された外部に関する情報は、高速伝達され、共有しあい、反復され、体系化されることで客観化された。神話でしか語られなかった外部は、予測可能で、コントロール可能な機械論的内部環境となる。

すなわち人が「ものそのもの」を認識できなくとも、近似的に外部環境に接近し、コミュニケーションして開拓します。ボクはこの開拓された外部環境を内部と外部の「グレイゾーン(内部環境)」と呼びます。近代以降、科学技術という反復可能性の力は「グレイゾーン(内部環境)」を拡大し、外部から「資源」を略奪し、内部を物質的に豊かにしています。


なぜ世界は数学で記述できるのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060627

環境管理のように、機械化される人間、すなわち心が身体化されていく時代において、この意味はとても重要になります。それは単にシニフィアン、欲望によっては、説明することが難しくなっています。ラカンにはこの技術の次元が明確でありません。ポストラカンの意味はそこにあるのだと思います。

神経生理学や認知科学が人間を解体(数量化)するほどに、解明されない「もの」が残り続け、それがさらに欲望を想起するというベタな欲望論的展開が起こっているとしても、科学技術の発展の影響を無視することはできません。




技術という人間の「症候」の増幅


象徴界の発見は、レヴィ=ストロースにより未開社会の「親族の構造」に数学的な法則性があったことに始まります。そして社会的な法則性として言語の構造(差異の体系)が指摘されました。親族の構造、言語は社会秩序を通して、人びとの無意識の中で伝達されていきます。それに対して、ネット上で作動するプログラムそのものは、無意識にも認識されることはなく、環境を変えてつくっていきます。

このような環境を変え造るという「技術の力」は近代の発明でなく、人間が人間たる特性であり、環境をかえずにはおれないという意味で人間の「症候」です。しかし近代以降の技術の革新はこのような力を増幅にしました。

マルクスが指摘した下部構造としての経済もグレイゾーンを含みます。経済学が経済学として学ばれるときには象徴界に位置し、事後的に経済学というシニフィアンの構造で表示されますが、資本主義というプログラムは経済学的手法(技術)として外部をグレイゾーン化(開拓)します。




なぜネットはこれほど短期間で増殖しえたのか


ポストモダンにおける構造主義という精神分析「心の理論」ボードリヤールシミュラークルで臨界に達した感があります。力をもっただれか(マスメディアなど)がコストをかけて環境を書き替えることで、象徴界を操作し人々の欲望をかきたてる時代としての、ボードリヤール的消費社会です。

しかし情報技術社会では、だれもが低コストで環境を作りかえ、作り出す時代になっています。その原点をキットラー「グラモフォン・フィルム・タイプライター」として表したのでしょう。科学技術がシニフィアンを超えて人間の影響を及ぼすことは、「情報技術」によって決定的になったということです。言語より「情報技術」象徴界よりグレイゾーンが影響をもつ、それがグレイゾーンの時代です。

そしてこのようなグレイゾーン化が、キットラーでは失われているジジェク的な不可能なものへの欲望を増幅しています。でなければ、なぜネットという純粋な人工物はこれほど短期間で増殖しえたのでしょうか。
*3

*1:Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その2 「機械論の欲望」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060214

*2:ネットと社会はなぜ「断絶」するのか その6 終わりなき「断絶」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060612

*3:画像元 http://lovelovedog.cool.ne.jp/index-image.html