なぜ無意識という概念はいまだにラディカルであるのか

pikarrr2007-02-13

ヒトの環境世界は脳機能から生じた写像でしかないわけです。なぜなら、認識可能な環境世界は写像でしかなく、その写像世界とのインタラクションとして行為や知覚も脳機能から生じた写像なのですからとうぜんより強い構造化=脳化へと向かうわけです。

われわれは構造化が運命づけられた写像世界に閉じ込められているわけです。これを打ち破るには脳を壊すしかないわけです。壊れた脳の写像世界Bのヒトは、正常なAの世界では適応できなくなります。

知覚情報が脳を通過することで、人の営みが生じるのですから、産出されるものは脳癖=人臭さを潜在させています。人工物と自然物の違いは一瞬でわかりますよね?つまり、写像世界意味論では、文化は脳の糞です。

ポイントは情動です。情動はヒト脳のコントロールをすり抜けるからです。つまり、黒幕です。ヒト脳がつかまえる情報=意識なわけですが、そのつかまる手前で情報が写像世界に漏れてしまうわけです。いわばビオンのアルファ機能です。そうすると、漏れた情報はキャッチ出来ませんから、写像世界からのレスポンスにより事後的に知るわけですね。これが、他者に向けられた無意識の招待です。




無意識とはズレと事後性を説明するための概念


言いたいことは「無意識」を使わなくても、無意識は説明できるということでしょうか。無意識を脳の一部にある器官と考えるのではなく、神経症において起こる作用を説明するために、導入された概念として理解した方が良いでしょう。そして人間はみな神経症です。

フロイトが発見した作用とは、ズレと事後性です。外部からの情報は、まず無意識に到達し、その後、意識(自我)として浮上します。そして一部は抑圧され、意識に浮上しません。そして事後的に、隠喩的にシニフィアンとして浮上するのですが、それは無意識の痕跡そのものとはズレています。たとえば、夢とは、外部情報の一部が抑圧され、しばらく立ってから、体験とはズレた形で回帰したものです。だからこのズレと事後性を、無意識でなく、脳の一部だと、いったところで、なんの意味もありませんし、この説明では、ズレと事後性が説明されません。

動物と人間の違いは、動物が体験と刺激が直結しているのに対して、人間は、このズレと事後性に言語という介在物が入ることです。この介在物が多様な表現を可能にするわけです。たとえば人の多様な性癖(フェティシズム)は、幼児時代の外部情報の回帰であり、単に抑圧されたものそのものではなく、シニフィアンの衣を着て、回帰するために多様なのです。




無意識とはズレてるのに生きていけるという不思議を説明する概念


フロイトの無意識がその後に多大な影響を与えたのは、外部からの情報と意識(自我)が、事後的でズレるという「断絶」があるのに、ボクたちは世界を生きていけているという驚きです。この断絶は、言語的、すなわち文化的なのですね。あなたとマサイ族の見る「赤」は違うのであり、あなたとボクの見る赤は違うのです。

あなたがなにを言おうと、それをボクは正確に理解することはできないのです。なのに、生きていけるという不思議です。現に重症の神経症患者は、このズレの前で立ち止まってしまうのです。あるいは人工知能はこのズレの前で、フリーズしてしまうのです。

これに対して、ヴィトゲンシュタインが与えた答えが、「規則に従う」ということです。「規則に従う」とは、人は他者の真似をするという世界との関わり(実践)の学習によって、この「断絶」を乗りこえるということです。さらにいえば、人の行うことは全て他者にむけての行為(実践)であるということです。

ヴィトゲンシュタインフロイトから影響されていると言われますので、これはフロイトに回帰します。フロイトの第二局所論では、無意識はエス超自我/自我(意識)と言われます。「規則に従う」=他者のまねをするとは、文化的な命令としての超自我に近いと考えられます。

エス・・・無意識の痕跡、決して浮上しない記憶

****「断絶」、ズレ*******

超自我・・・「規則に従う」という文化的、実践的な命令(禁止)

自我・・・事後的な表象の意識




無意識とは欲望というパラドクスを説明するための概念


さらにフロイトの無意識から説明されるのが、人間の欲望です。例えば人は、「そこに山があるから」と命がけで山に登ります。こんな動物が他にいるでしょうか。動物が山に登るのは、食料を求めて、敵から逃げるためなど、生きるためです。

人が山に登るのは、困難である、止めろという(禁止されている)からです。禁止されるとやりたくなる。これは、「アダムとイブ」パンドラの箱などで、人間が人間となる物語として語られるような、人間の根元性である「好奇心」です。禁止とは超自我であり、好奇心とは超自我への反抗です。

「断絶」があるのに、ボクたちが世界を生きていくための超自我の設立は、それは真実のエスへの抑圧でもあるということです。超自我の設立とともに、それを破りたいという欲望の同様に生み出されたということです。このように考えると、欲望は「断絶」を乗りこえようとする動力であることがわかります。

ここでは断絶があり、乗りこえるために超自我が生まれたのか、超自我が生まれることで、抑圧としての断絶が生まれたのか、という卵が先が、ニワトリが先かのパラドクスの構図があります。これを、超自我を設立する欲望と超自我を破る欲望と考えると、エスにある「生の欲動」死の欲動に対応します。

たとえばこのようなパラドクスは登山だけでなく、人間行動一般に見られますね。現代ならば、「ブランド品を借金をしてでも買うのか」とか、「なぜ懸命に2ちゃんねるにレスをするのか」をするとか。




無意識とは「なぜ機械論が回帰のか」を説明するための概念


このように人間というこの不思議な動物を説明するために、無意識という概念が必要とされるのです。これらの不思議は、いまだに脳神経学、心理学、認知科学「躓きの石」であり続けているために、無意識という概念は、いまだにラディカルであり続けているのです。

そして脳還元主義的な説明は、フロイト以前からある機械論の回帰の1パターンであって、無意識という概念の反論でもなんでもないのです。無意識は、このような機械論が回帰しつづけること自体を説明するための概念なのですから。

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*1:2ちゃんねる哲学板のスレッド「心身二元の二重螺旋運動 その4」 http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/philo/1162379289/l50より抜粋。ただし修正あります。

*2:画像元 http://physiol.umin.jp/nerv/brain/text/text.html