なぜオタク(の性関係)は気持ち悪がられるのか

pikarrr2007-05-23


「仕事とセックスは家庭に持ち込まない」


「仕事とセックスは家庭に持ち込まない」という名言は誰が考えたのだろうか。夫婦関係ではお互いの立場をパパママなどでみるために、昔の恋人時代のようにセックスをやる気が起こらない、ということ、現にセックスレスの夫婦は増えていると言われている。

セックスにはある種の衝動が必要である。衝動は非日常性に関係するために見慣れた関係では起こりにくい。それでなくても、基本的にセックス行為そのものはワンパターンであり、衝動を保ち続けることは難しいだろう。

たとえばアダルトビデオの内容は「永遠のワンパターン」である。それが終わりなく制作され、求められる。このワンパターンを支えている大きな要素は登場する女性が変わると言うことだ。アダルト女優の賞味期限は極端に短い。純情そうに登場し、段階的に過激な絡みを行い、飽きられる。というように数ヶ月のサイクルで消費される。それは衝動を想起するための絶えず新たなものが求められるという消費構造による。

たとえば浮気する男のいいわけもこれに近い。妻を嫌いになったわけではなく、妻を新たな衝動を求める過激な性的な対象として消費するわけにはいかない。だから消費することができるような対象としての浮気相手を求める。妻という家庭では長期的に安らげる愛を育て、浮気相手とは短期間での消費覚悟で過激な性的刺激を求める、というように求めるものが違うというわけだ。




オタクは性商品に対して愛を育てる


このような二元論でいえば、性産業は後者の非日常的で過激な性的刺激を生む消耗品を提供してきたと言える。しかし現在、従来、家庭、地域コミュニティ崩壊など前者の「愛」が失われている中で、この二元論的な境界は曖昧になっているのではないだろうか。

すなわち性産業が提供するものが、単なる消耗品としての性商品から、「愛」を育むことができる性商品へと移行している。たとえばオタク達が妄想する性的なものは、単なる消耗品ではないだろう。以前求められていた性的な対象が、その場の衝動的な性欲を喚起するような非日常性を想起するエロティシズムであったならば、オタクが求めるものは疑似的な愛を想起するような日常的な癒しを想起するエロティシズムである。

従来からの慣習でいえば、「何人の体験人数がある」「昨日、コンパのあとお持ち帰りした」などの「マッチョ的」な武勇伝のような、性的対象を衝動として動物的に処理する方が「男らしい」のである。それに対して、オタクのように商品を消費するのでなく、性商品に対して愛を育てるのは倒錯的なのである。そして俗に言うオタク(の性関係)の気持ち悪さとは、ここにあるのではないだろうか。

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