なぜ真のイデオロギーは安らうのか 「配置(disposition)」の思想性2

pikarrr2008-08-06


配置の<固さ>


ボクにとっての配置(ディスポジション)とは、訓練によって習慣化された身体と客体の関係である。その間に何らかの言語記号は介在せずに、ただ当たり前のように配置されて、身体が従うものである。このような当たり前さを配置の<固さ>と呼ぼう。

道を歩くとき、配置としての道はもはやそれがどのようなものであるかと考えずにただ歩いている。そのときに歩くという行為はその道の配置(ディスポジション)に従っているのだ。たとえば泥道、舗装道、雪道などでは人は「気がつかずに」にそれぞれ歩き方を変えている。しかし習慣化された歩き方は、そう簡単にはかえられないために、都会人が雪道を歩くと転びやすいことが起こる。彼も訓練してなれれば、雪道という配置(ディスポジション)に合わせた歩き方をする。それは、最初は意図的であっても習慣化すれば「気がつかない」ものとなる。それは暗黙知(身体知)である。




インフラストラクチャーの<固さ>


再度言えば、この習慣の強さを促す環境が配置の<固さ>である。もっとも固い配置は、社会的経済基盤を支えるインフラストラクチャー(infrastructure、略称・インフラ)だろう。これはその国の基盤となり、容易に「消耗」せず、作り替えられるものではない。人々はインフラの中で行為を訓練し、習慣を身につけていく。それがその国の文化である。仮に人の寿命という新陳代謝システムによって入れ替わっても、インフラは時代の痕跡として残り、人々の文化を継承していく。

歴史上の失われた文化について、なんらかの文献が残っていても、いまならば画像、映像メディアとして残されたとしても、文化は再現されることはない。そこでは配置(ディスポジション)が失われ、配置(ディスポジション)との習慣的な関係が失われているからだ。文化は決して言語化されずにただ身体間を継承されていく。




真のイデオロギーはイオロギーとして現前化しない


だから真のイデオロギーは、言説ではなく、配置の<固さ>として現れる。逆に言えば、イデオロギーは配置の<固さ>として現れたときに、すなわちインフラとなって現前化したときに真のイデオロギーとして機能する。そのとき、イデオロギーはあまりに当たり前すぎてイデオロギーとして現前化しない。

畑にいる農婦は靴を履いている。ここではじめて、靴は靴にほかならないものである。農婦が労働にさいして靴のことを考えなければ考えないほど、あるいはそれどころか靴を注視しなければしないほど、あるいはただ感じさえしなければしないほど、それだけ靴はますます真正に靴がそれであるところのものとなる。

道具の道具存在はその有用性にある。しかし、有用性そのものは道具の本質的な存在の充実の内に安らっている。われわれは道具のこの本質的な存在を信頼性と名づける。この信頼性の力によって農婦はこの道具によって大地の寡黙な呼びかけの内に放ち入れられており、この道具の信頼性の力によって彼女は自分の世界を確信するのである。世界と大地とは、この農婦にとって、そして彼女とともに彼らなりの仕方で居る人々にとって、ただそのように、すなわち道具において、そこにある。・・・個々の道具は使い古され、使い減らされる。しかし同時に、それとともに使用することそれ自体さえも使い減らされ、すりへり、習慣的なものになる。P40-44


「芸術作品の根源」マルティン・ハイデッガー (ISBN:4582766455




物象化と配置(ディスポジション)


マルクスは人間が自然と調和し生きる自然状態=「類的存在」に対して、資本主義の分業とそのための労働に人間を組み込まれる<疎外>を指摘した。しかし「類的存在」は一つの抽象であって、実働的な運動において意味を持たないという反論から、その後に物象化論へと移行する。

物象化論は人間と環境は<生産活動>を通して相互に影響しあい変化する関係にある。資本主義社会では人の関係が商品の関係に代替されることで、新たな疎外を生んでいると考えた。物象化論は、単純な疎外でも、調和でもなく、その間で変化し続ける関係であり、「配置(disposition)」の本質がある。

かつてマルクスは、「精神と自然との統一」=人間、という範式で観じ、かの二元的な対立性の統一を「人間」に求める構図を採っていたが、『ドイツ・イデオロギー』とそれ以降では、「人間と自然との統一性」の過程的現場が「産業」に看る。今や、主観性と客観性・・・等々の二元的対立性を実践的に止揚・統一する場が「産業」に定置される。

人間と自然との産業の場における統一という言い方をすると、さながら、人間というものと自然というものとがまずあって、事後的に両者が結合されるのであるかのように響くが、生態系的な関係の第一次性こそが真諦である。自然は産業の場で人間と媒介されてはじめて現前的自然として現存するのであり、人間は産業の場で歴史的・現実的・実践的に自然と媒介されてはじめて現に在る人間として存在しているのが実態である。P43-46


「物象化論の構図」 廣松渉 (ISBN:4006000391




下部構造としての配置の<固さ>


人間と<生産活動>を含めた環境=配置の関係は、物象化としての影響し合う関係にあるとしても、変化しにくい、消耗しにくい配置(ディスポジション)がある。それが<固い>配置である。それは下部構造と呼んでもよいのかもしれない。

多くが経済活動に関係し、「道具存在としての有用性」として生活を支える。生産装置は容易に変化し、消耗しないように多くの労働力をもって製造される。たとえば先の靴の例で言えば、その靴は消耗しても靴を製造・供給するための、装置であり、燃料・商品などの供給経路を含めたシステムとしての配置である。それらは社会基盤を支える一つのインフラとして<固さ>をもって配置されている。

だから配置の<固さ>というときには、物象化論でも人間行為と環境(配置)において、変化しにくい環境(配置)と変化しやすい人間行為という関係にあり、疎外論側へ傾斜する。そこには自然状態=「類的存在」が想定されているわけではないが、配置が<固さ>をもつことには強力な下部構造としての近代以降の資本主義社会との関係が不可欠になるだろう。


参照:「配置(disposition)」の思想性1 なぜiPhoneに魅力を感じないのかhttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080725#p1
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