なぜ動物化論は精神分析コンプレックスを純化するのか

pikarrr2008-08-07


精神分析の成果とは

id:naoya_fujita :精神分析ラカン)的主体というのがあるとします。パノプティコン(一望監視)から見られる視点を内面化した主体ですね。しかし精神分析はもうほとんど終わってしまった。心療内科精神分析なんてしない。薬の処方、終了、みたいになっている。つまり、言葉のやりとりで心の中身を治すというアプローチは採られなくなっているわけですよね。これはおそらく脳科学・心理学ブームと、逆に批評の凋落と関係があると思いますけど。対話しないのだから、近代的主体にならず、ドラッグで、動物化する。そんな感じですよね。その辺、どう考えていますか?

薬の開発が進んで即効的に楽になる。医者、患者ともに楽だから処方する、ということでしょう。しかしそれで問題が解決したわけでもなんでもない。だからそれは精神分析とは関係がないと思います。

精神分析精神分析でもともと問題を抱えている。そもそもどこまで有用なのか。フロイトの治療はほとんど失敗に終わったといわれますし、ラカンにいたっては治療には使えないと言われる。精神分析大国のアメリカでは、精神分析ってカウンセリングですね。これはこれで「他者」が重要であるということで大切なわけですが、即効性はない。

精神分析が成功した分野として、現代思想への影響があるのではないでしょうか。パノプティコンのような分析、新たな主体論も精神分析の知見をもとに考えられている。理性的な主体を無意識の主体へとシフトさせた。そしてこのような知見は現代思想だけではなく、社会の新たな知として広く広まった。社会学は当然ですし、経済的にはマーケティング論など、もはや一般化しています。脳科学・心理学ブームなどもその亜流と言えるのではないでしょうか。




無意識と暗黙知


フロイトデカルトを継承しているというのはよく言われます。ラカンはさらにそれを明確にしました。図式化すると以下のように構図にあります。

心/身 = (自我+超自我)/エス = (想像界象徴界)/現実界

精神分析では器質要因は治療範囲外です。逆にいえば、器質要因以外の精神なるものがあるという前提をもとに成立しています。ここに心身二元論的である根源があります。これは精神分析の限界というよりも、積極的な精神分析「倫理」になっています。なぜなら通常科学(医学)では、すべてが身体(器質要因)へ還元されるからです。そこでは逆に心の問題が排除される面があります。

精神分析が扱う無意識に対して、暗黙知というものがあります。暗黙知はマイケル・ポランニーによって提唱された体で覚える身体知と言うようなものです。構造主義以降の流れでは、「無意識は言語のように構造化されている」として定式化されたのに対して、暗黙知神秘主義的に考えられています。しかし暗黙知は経験論的な行為論の系譜にあって最近ならオートポイエーシスなどに繋がります。

経験論的に言えば、むしろ構造主義的な無意識の方が形而上学的であると批判されます。ここに経験論と観念論(超越論)の対立の構造があります。




フーコーの規律訓練権力


フーコー「監獄の誕生」ISBN:4105067036)で、近代化の中で現れた身体・行為を規格化管理する権力を「規律・訓練権力」と呼びます。その中で規律訓練するための道具として、視線による管理システムの例としてパノプティコン(一望監視)が示されます。

しかし本書ではパノプティコン(一望監視)の説明以降の後半において、規律訓練に視線は欠かせない、というように重要な位置づけにおかれます。このために規律訓練権力=パノプティコンのように視線により反省を宿させるもの、すなわち精神に規律を植え込む精神分析的主体と考えられることが多い。

そうではなくて、規律訓練は身体の管理です。ここに経験論と観念論(超越論)の混乱があります。経験論的に語られてきた規律訓練が、パノプティコン当たりから一気に観念論(超越論)に転倒されてしまう。すなわち暗黙知から無意識へ転換される。




<生権力>の一極としての規律訓練型権力


しかし翌年に発表された「性の歴史1 知への意志」において、規律訓練は<生権力>の一部として再び経験論色を強めて語られます。生権力と規律訓練権力はフーコーの権力論の心身二元論的な対比として語られることが多いですが、そうではなく、生権力は「人口の生−政治」とともに「身体の解剖−政治学=規律訓練が二つの極とされるものです。

具体的には、生に対するこの権力は、十七世紀以来の二つの主要な形態において発展してきた。その二つは相容れないものではなく、むしろ、中間項をなす関係の束によって結ばれた発展の二つの極を構成している。

その極の一つは、最初に形成されたと思われるものだが、機械としての身体に中心を定めていた。身体の調教、身体の適正の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの並行的増強、効果的で経済的な管理システムへの身体の組合せ、こういったすべてを保証したのは、規律を特徴づけている権力の手続き、すなわち人間の身体の解剖−政治学であった。

第二の極は、やや遅れて、十八世紀中葉に形成されたが、種である身体、生物の力学に貫かれ、生物学的プロセスの支えとなる身体というものに中心を据えている。繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、そしてそれらを変化させるすべての条件がそれだ。それらを引き受けたのは、一連の介入と、調整する管理であり、すなわち人口の生−政治学である。P177-178


「性の歴史1 知への意志」 ミシェル・フーコー (ISBN:4105067044

このような混乱は、後世のフーコー読解に問題があるというよりも、構造主義以降のポストポストモダン論のもつ精神分析コンプレックスというようなものだと言えるのではないでしょうか。構造主義ラカン「無意識は言語のように構造化されている」という定式で象徴されるように、精神分析は一つの権威となりました。

フーコーに限らず、ドゥルーズデリダにしろ、構造主義に多大な影響を受けながら、その権力の乗り越えが試みつづけたのです。それは精神分析デカルトから継承した心身二元論であり、精神重視の精神分析的な主体です。そしてまた動物化論もまたその影響下にある思想です。




動物化論は精神分析コンプレックスをより純化する


動物化における、動物とは要するに精神分析的な主体でないものであり、心身二元論です。精神分析的な主体が観念論(超越論)の系譜にあるとすれば、動物化も同様です。経験論的な「動物」とは、本来の野生の動物です。それに対して、東のいう動物化は経験論的な「動物」とは関係がない、「従順な身体」のことです。

だから動物化を考える場合には、東のもう一つの「環境管理」論との関係で考える必要があります。薬や過剰なメディアなど、直接、身体へ作用する技術が発達することで、人は従順な身体=動物化される場面が増えている、ということです。

環境管理権力論は、先のフーコーの生権力から考えられたものです。しかし動物化精神分析的な主体ではないことであったように、「環境管理権力」は生権力から、パノプティコンのような観念論(超越論)的な色合いを排除したもの、より心身二元論を強めたものです。それは機械論といってもよい。東はポストモダン論の精神分析コンプレックスをより純化した形で継承したといえます。




「私は動物になりたい」という強い欲望


ボクは、この極端さにこそ多くの若者を引きつける東の思想の魅力があると思っています。動物化論にはそもそもパラドクスがあります。動物化した人は動物化という言説に興味はない。動物化の言説に興味があるのは精神分析的な主体である。動物化論が流行るのは、精神分析主体が多くいるから、というパラドクスです。動物化論とは、逆説的に「私は動物になりたい」という強い欲望の現れという精神分析的な現象である、といえます。ボクはこれを「機械論の欲望」と呼びます。

フーコーがいうように近代以降の身体は<生権力>によって規格化され、従順なものとされました。そして資本主義経済の発展と深く関係する。それとともに逆説的な現象が起こっている。たとえば消費型の資本主義を活性化するのは、単なる従順な動物ではなく、規格化されることで現れる自意識の強いオタクのような精神分析的な主体であり、彼らが群れることで起こるカーニバル化する社会であるということです。

このような<生−権力>は、疑う余地もなく、資本主義の発達に不可欠の要因であった。資本主義が保証されてきたのは、ただ、生産機関へと身体が管理された形で組み込むという代価を払ってのみ、そして人口現象を経済的プロセスにはめ込むという代償によってのみなのであった。しかし資本主義はそれ以上のことを要求した。資本主義にとっては、このどちらもが成長・増大することが、その強化と同時にその使用可能性と従順さが必要だった。資本主義に必要だったのは、力と適応能力と一般に生を増大させつつも、しかもそれらの隷属化をより困難にせずにすむような、そういう権力の方法だったのである。P178


「性の歴史1 知への意志」 ミシェル・フーコー (ISBN:4105067044

*1

*1:画像元 グーグルアースで見る全展望監視システムの刑務所いろいろ http://web-marketing.zako.org/google/google-earth/panopticon-prisons-google-earth.html