読書 日本人の精神

日本倫理思想史(一) 和辻哲郎

そこで問題は、ヨキ心、アシキ心というごとく道徳的なヨシ・アシ、善悪の価値をして把捉したかという点に集中する。このことを解決する鍵は、既述の祭事的団結ということのほかにないであろう。祭事による宗教的な団結は、精神的共同体であるとともに感情融合的な共同体である。かかる共同体においては、「私」の利幅のゆえに他の利幅を奪おうとする者は同時に全体の統制にそむく者であり、従って全体性の権威にそむく者であった。かかる者はその私心のゆえに他と対抗し、他と溶け合わず、他者より見通さない心境に住する。

このような何人にも窺知(きち)することを許さない「私」を保つことは、その見通さない点においてすでに清澄でなく濁っており、従ってキタナイ心クラキ心にほかならないが、さらにそれは全体性の権威にそむくものとして、当人自身にも後ろ暗い、気の引ける、曇った心境とならざるを得ないのである。もちろん「私」を保つことがいつもそう感じられるというわけではない。利己心を人の本質とする利益社会的な立場に立てば、それはむしろ人間の自然として是認せられるであろう。しかしここで問題にしているのは、感情融合的な精神共同体の立場である。ここでは私を抱く者は何らか危険な、気味の悪い、従って排除せらるべきものとして感ぜられる。人は私を保つとともにこの排除の鋒先を身に感じ、後ろ暗い、陰鬱な心境に陥らざるを得なくなっているのである。このように他者から見ても透明でなく、当人においても暗鬱な心境を、古代人はクラキ心、キタナキ心として把捉したのである。かかる心境と反対に、私心を没して全体に帰依するとき、人は何の隠すところもなく人々と溶け合い、人に何らの危険も感じさせず、従って他からの排除の鋒先を感ずることもなく、朗らかな、明るい、きしみのない、透き徹った心境に住することができる。これを古代人はキヨキ心、アカキ心と把捉したのである。かく見ればこれらの概念はまことに的確に道徳的な心構えを捉えていると言ってよいであろう。

ところで右のごとく全体性の権威に帰依するとそむくとは、祭事的団結の社会になっては、 この権威を具現せる統率者に帰服すると否との別であり、究極において皇祖神の権威に服すると否とに帰着する。それを高天原に上るスサノオの尊の物語が示しているのである。そこに描かれる心の清さと穢さとが、天皇への従順と不従順とを意味することはもちろんである。またこの従順不従順は権力的な支配への服従服従ではなく、全体性の神聖な権威への帰依と不帰依とにほかならないのであるから、単に政治的あるいは法律的な意義にのみ解さるべきではない。全体性への帰属と背反とにおいて倫理の根本原理が見いだされるとすれば、清さと穢さとの価値はちょうどそれを現わしていると言うこともできる。

以上のごとく見れば、利福禍害を意味するヨシ・アシから進んで利福禍害を越えた善悪の価値を把捉していた上代人が、その同じ価値を清さ穢さの価値として一層に確実に把捉(はそく)していたゆえんが明らかとなるであろう。彼らは行為の祭事的団結において自覚したのである。天皇の神聖な権威への帰依が彼らにとって清明心であった。「私」を捨てて「公」に奉ずるところに、清さの価値は見いだされた。その同じ態度心構えが同時にまたヨシ心として是認賞讃せられるのであるが、しかしそこ自覚の地盤が天皇尊崇であったという理由によって、それは「善心」としてよりも一層明白に「清明心」として把捉されたのである。

かくして「清き心」の伝統は、天皇尊崇の立場の一つの顕著な特徴として、この後の倫理思想の潮流の中に力強く生きている。その詳細は後章に譲るが、しかしなおそれに連関してここに注意しておくべき点は、道徳的価値を清さ穢さとして把捉したということがさらに多方面の道徳的自覚を促進したという事実である。清さの価値は「私」を去ること、特に私的利害の放擲(ほうてき)に認められる。しかるに私的利害はおのれの制の利害であるから、それはまたおのれの生を、従って自己を、むなしゅうすることにほかならない。それは生命に根ざす価値ではなくして、生命を超えた価値である。その前に立てば生命、命への恬淡(てんたん)であるとともに、他面において勇気である。われわれはかかる意味の清さが記紀の主要人物の優れた性能として描かれていることを指摘し得ると思う。大国主神はその国土をきわめて恬淡に放棄する。彼に国を譲らしめた高天原の神々自身もまた、この国土への執着を少しも示さない。日本武尊は典型的な英雄として描かれているが、領土とか富とかはおよそこの英雄と関係がないものである。これらを旧約の物語における富への強い関心と比較して見れば、そこに全然異なる類型の存することが明らかになるであろう。国土や富への恬淡は畢竟(ひっきょう)生命への恬淡である。しかしこの恬淡は生の消極を意味するのではなく、他面において溌剌として勇気になる。勇気の本質は死を怖れずしておのれの持ち場を守ることであるが、ちょうどそういう勇気が右の諸人物の行動において描かれている。


日本倫理思想史(一) 和辻哲郎 P124-128




宗教以前 高取正男、橋本峰雄

「忌み」の意識に基本的に含まれる浄・穢の観念は、聖と俗という表現になおすこともでき るが、本来の「忌み」にはみずからの穢れを去って聖に近づこうとすることと、穢れを避け てみずからの聖性を維持しようとする二つの側面があり、これらは表裏の関係をなしてい た。ところが死穢や血穢・産穢を忌む習俗は明らかに後者の面だけを強調し、穢れあるもの をすべて遠慮させ、これをもって「忌み」とするものである。

このような意識は、すでにのべたとおり、つねに聖なる廟堂に立ってみずからの聖性を維持しなければならなかった貴族のあいだに成立し、彼らに連なる職業的司祭者の手で陰陽道と結ばれて神道の教説を生み、仏教と結んで、後に民間に流布したもので、もともと庶民と は縁のないものであった。そして、これまでみてきたことから知られるように、民間に行わ れている死を忌む習俗と、出産や月々の生理を忌む習俗とをくらべると、後者のほうにより多く「忌み」の本来の姿をうかがうことができる。P49

「忌み」の意識を、穢れを忌み避ける意識に局限すると、そのために禁忌だけがつぎつぎに架上され、それを守りさえすればよいとする堕落がはじまる。しかし庶民の信仰は、けっし てそこにとどまらなかった。素朴ではあるが、はるかに深いものをみずからのうちに伝えて きたといえるだろう。しかも、聖なるものを前にしてみずから慎しみ、ひともわれも精進に よって罪と穢れを祓い、神の来臨を願おうとする思念を貫くものは、神に対して自己の信仰を訴え、その裁きを待とうとするのとは異なり、神に対してきわめて謙虚にしたがって受動 的な態度で神に接しようとするものである。このことは単に宗教の問題だけにとどまらず、 「忌みの精神」とよべるほどの強さをもって庶民の勤労観を支え、道徳の根幹をなしてきた のではないだろうか。P53-54

さきに、原始神道の忌みの思想には二つの面があることが指摘された。みずからの穢れ(俗)を去って浄(聖)に近づこうとすることと、穢れを避けてみずからの聖性を維持しようとすることと。古代の民間信仰ではこの両面が表裏一体の即自的な統一をもっていたが、また政 治的にはこの両面はそれぞれ庶民と貴族と、被支配者と支配者とにおける忌みの考えかたの違いを示すものであった。忌みの思想の歴史は、古代から中世、近世へと、前者の考えか たによる忌みが後者の考えかたによる忌みによって歪曲され隠蔽されてくる過程であることが注意された。したがってそれは、いわば宗教が政治によってねじ曲げられてくる歴史で あったともいえよう。P56-57

原始神道にとって、赤不浄、白不浄よりも黒不浄、したがって死穢が重大視されたことは容 易に納得できる。神道にとって女性はむしろ神聖であり、それを不浄としたのは、たしかに仏教のせいであろうからである。神道がもっとも本式の古い祓いの方法である禊ぎを要求したのは、とくに死穢にたいしてであった。しかし逆にいえば、これこそ宗教としての原始 神道のウィークポイントであった。死に対する根源的な怖れを、いかにして処理すればよい か。しかも、いわゆる死穢とはすでに死んだ者による穢れである。自分自身の死、さらには その穢れをどうするか。神道には、本来その答えはない。ここに、罪業観を強調した仏教の最大といってよい宗教的役割があった。

柳田国男氏は、神道と仏教との「物忌」「精進」におけるもっともいちじるしい違いを、「死 穢を忌みこと」の有無に見る。・・・たしかにその点にこそ、日本仏教の民間への滲透と、 日本人の宗教意識の内面化、個人化の最大の理由があったといえるだろう。P61

中世にはしばしば「神道不測」といわれ、神は人の知恵では測りがたいもの、究めがたいも のとされる一方、正直、清浄、慈悲の三つが神の本旨とするところであり、あわせて神の徳であると説かれた。このことは、伝来の信仰を考えるうえに重要なてがかりになる。

中世になって正直・清浄・慈悲の三つが神の本旨とされ、なかでもいわゆる「衆生擁護の神道」として「神明の慈悲」が説かれたのは、ひたすら神の霊威を畏れかしこみ、神慮にもと ることのないようにだけ祈った原始古代にくらべれば、大きな飛躍であり、発展であった。とくに慈悲行はこの時代に地方にあって農民を直接にひきいていた在地領主や、中央にあ った荘園領主たちに望まれるもっとも大切な徳目であり、それが神の徳に反映されたとす れば、仏教の影響の多大であったことを考慮にいれても、それは中世という時代社会の特質を物語ることになる。しかしそれにしても、正義といった客観的規範でなく、この世の人の行うべき徳目をもって神の本旨とし、神の徳としたのは、神の像を不要としてきたことと並んで神が人とともにあることの現われではなかろうか。それは原始社会のような神として立派に存在しながら、それをこの世からまったく隔絶したものとは考えない信仰、したがっ て神人未分離でなくて不分離とよべるような宗教的心情の現われというべきであろう。P74-75


宗教以前 高取正男、橋本峰雄 ちくま学芸文庫 ISBN:448009301X

土間には炊事場、仕事場、寝所と、住居のもつすべての機能が備わり、土間一室ですべてを兼ねた原始時代の竪穴式住居を機能的に差違がなくなる。住居のなかに床の部分が設けられ、生活の中心がそこに移った後にも、土間に古い時代の生活の後があとが残留したというべきであろう。そしてこのことを念頭に置いて土間に祀られている神をみると、それはカマドの神をはじめ柱などに簡単な棚をしつらえ、年末などにお供えをするだけの、どこに本社があるということもなく、ただ火の神・水の神というだけの素朴な神である。座敷の床の間や神棚に祀られる神が中央地方の有名神や、
村の鎮守の神であるのにくらべると大きな違いであり、「何某の命(みこと)」といったれっきとして神名ともち、どこの神という素性のわかる神が歴史的に後次の成立であるのは明らかであるから、土間をはじめ寝室のすみなどに祀られている神は、はるかに古い時代から人の生活とともにあった神といえるだろう。P77

それにしても日本には、いかに多くの神や仏がいますことであろう。俗に神々の数は八十万は八百万といわれる。それらの神々を、さきにまず「土間の神」と「座敷の神」の二重構造として説明したが、後者をさらに二段階に分けることでそれらを三重構造として考えるほうが理解しやすいほうが理解しやすいかも知れない。まず「土間の神」として私的に祀られる、火の神、水の神のような自然神、その上に共同体の結合原理として公的に祀られる、氏神産土神のような自然神あるいは人間神、そして全体を神政政治的に統べるものとしての天皇神、という三重構造である。第三の神は、太陽神(天照大神)崇拝という自然宗教を背景に、皇統は天つ日嗣として神聖であり、マツリゴト(政治)はマツリゴト(祭事)であるとすることで成り立つ、そして中世の鎌倉に起こった伊勢神道以来の教義的な神道諸派がとくによりどころとした、すぐれて政治的な世界にかかわる神々である。

・・・わが国の神々の世界の上にはさらに仏の世界があり、両者は本地垂迹の教義で結びつけられ、仏神の世界は全体として四重構造をなしているのである。日本の宗教は、世界でもまれな規模の重層信仰(シンクレティズム)を成立させたといえる。P95-96


宗教以前 高取正男 ちくま学芸文庫 ISBN:448009301X 




万民徳用  鈴木正三著作集1 加藤みち子

職人が質問して言うには、「後世菩提[を願って修行すること]が大切だというけれど、家業を営むのが忙しく、昼も夜も世渡りの稼ぎをするばかりです。 それなのに、どうやって悟りに至るのでしょうか。」

答えて言う。「どの仕事もみな仏道修行である。人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである。仏道修行で無い仕事はあるはずがない。一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。仏の身体を受け、仏の本性が備わっている人間が、心得が悪くてすき好んで悪道(地獄・餓鬼・畜生)に入るべきではない。本覚真如の一仏が百億に分身して世の中を利益なさっている。 鍛冶・番匠を始めとして諸々の職人がいなくては世の中の大切な箇所が調わない。 武士がなくては世が治まらない。農人がいなければ世の中の食物が無くなってしまう。 商人がいなければ世の中の[物を]自から移動させる働きが成立しない。このほかあらゆる役分として為すべき仕事が出てきて世の為となっている。天地を指した人もいる。文字を造り出した人もいる。五臓を分けて医道を施す人もいる。その種類は数えきれないほど現れて世の為となっているけれど、これらすべて一仏の功徳の働きである。このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えているというのに、この道理を知らずに自分から自分の身を貶しめ、悪心や悪業に夢中になり、好んで悪道に入っているのを迷いの凡夫というのである。 過去・現在・未来の三世に諸々の仏が現れて、衆生則仏成事(生きとし生けるものがそのまま仏であること)を直接にお示しになった。[私たちが]眼に形を見、耳に音を聞き、鼻に香りを嗅ぎ、口にものを言い、[心に]思うことという自からの働きを為す、手自らの働き、足自からの働き、これらはすべて一仏の自らなる働きである。

そうであるから、後世を願うというのは、自身の身を信じることが本意である。本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである。自身とはつまり仏であるから、仏の心を信じるべきである。 仏には欲心がない、仏の心に瞋恚(しんい)はない、仏の心に悪事はない。このような道理を信じないで、勝手に貪欲を作り出し、瞋恚を出し、愚痴に溜まり、日ごと夜ごとに自我への執着、自我への慢心、邪まな偏見、妄想を主人として、それらに随って苦痛や悩乱の心の休む時がない。 本から備わる自らの本性を失って、一生空しく大いなる地獄を造り固めて、未来永劫の住処としていることをどうして悲しまないのか。これを恐れ、これを嘆いて一大事の志を励まし、万の念を放ち捨てよ。そして、すること為すことの上において、切実に真実勇猛の念仏によって、自己の中の真実の仏を信仰する。そうすると、[修行の成果として]気(機)が熟するに随って、自然に誠の心に至って終に信を得ることが極まる。その時、思わずに無我・無人・無住所の境地に入って、自己の真実の仏が顕現するのである。一筋に信仰せよ、信仰せよ。」P47-49


万民徳用  鈴木正三著作集1 加藤みち子 中公クラシックス ISBN:4121601548




江戸時代とはなにか―日本史上の近世と近代 尾藤正英

武士は、知行として与えられた石高に比例して、それぞれ一定の数量の人と武器とを準備し、 戦時にはそれだけの兵力を率いて主君に従軍する義務を負った。これを軍役と呼ぶ。これに対して農民は、保有する耕地の石高に比例して、米などの貢租を負担する義務を負うこととともに、村内の中級以上の農民には、夫役として築城などのための労働力を提供する義務があった。

・・・これらの場合における「役」とは、狭義には労働を提供する義務のことであったが、 広い意味では、その労働の負担を中心として個人もしくは家が負う社会的な義務の全体を指すものとして用いられる。

以上に述べたような「役」の概念が、成立期における近世の社会の、いわば組織原理をなしていたことに着目すると、近世の社会の構造や、またその政治の動きについて、従来の通説とは異なった解釈をすることが可能になるように思われる。 例えば徳川氏の幕府は、自己の権力と維持することを第一義として、対立勢力となりうる朝廷や大名にきびしい統制を加え、また武士や農民・町人にも生活様式の細部にわたる規制を加えて、社会の秩序を凍結状態に置こうとして、 実際にもそことに成功した、という風に、この時期の歴史は説明されることが多い。

しかし支配者の権力意志だけでは、二七〇年に及ぶ平和の維持を可能とした条件の説明としては、不十分であると思われる。むしろ右にみたような「役」の体系としての社会の組織を作りあげ、かつそれを強大な武力と法規との力により安定的に維持することをめざしたのが、この時期の支配者たちの主要な意図であって、それはある程度まで国民全体の要求にも合致するものであったために、その政策が成功し、その結果として政権の維持も可能になった、とみるべきではあるまいか。

近世の「役」の体系に類似したものとして、中世には「職」の体系があったといわれる。「職」とは、本来は官職の意味で、七、八世紀には中国の制度を模倣して作られた古代的な官僚制国家の官職が、その後しだいに私有物化されることによって、 中世のいわゆる封建的な社会組織が形成されたために、その封建的な領有の権力は、「職」の所有という形をとるのが普通であった。これが「職」の体系である。P34-46


江戸時代とはなにか―日本史上の近世と近代 (岩波現代文庫) 尾藤正英 ISBN:4006001584




神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈 安丸良夫

民衆の宗教意識は、地域の氏神、さまざまな自然神、祖霊崇拝と仏教、遊歴する宗教者の活動などと複雑なかかわりをもっていた。寺檀制と本末制は、民衆のこうした宗教意識の世界に権力が踏み込んで、民衆の心の世界を掌握する制度であった。宗門改め寺請制が、キリシタン問題がすでにすでに現実の政治課題でなくなった一六七〇年代に、かえって制度として、整備されるのは、その民衆支配の手段としての性格をものがたる事実である。一六世紀末まで、政治権力としばしば争った仏教は、その民心掌握力のゆえに、このようにしてかえって、権力体系の一環にくみこまれた。仏教は、国教というべき地位を占め、鎌倉仏教がきり拓いた民衆化と土着化の方向は、権力の庇護を背景として決定的になった。

だが、江戸時代に仏教がはじめて国民的規模で受容され、日本人の宗教意識の世界が圧倒的に仏教色にぬりつぶされるようになったのは、権力による庇護のためだけではなかった。民衆が仏教信仰を受容するようになった民俗信仰的根拠は、さしあたり次の二点から理解することができよう。

第一は、仏教と祖霊祭祀の結びつきで、これを集約的に表現するのが仏壇の成立である。・・・寺請制・寺檀制と小農民経営の一般的成立を背景として、近世前期にはどの家にも祀られるようになっていた。農村でも都市でも、家の自立化が家ごとの祖霊祭祀をよびおこし、それが仏教と結びついた。そして、家ごとに仏壇が成立したことが、他方で神棚の分立をもたらした、という。

第二は、多様な現世利益的祈祷と仏教との結びつきである。観音・地蔵・薬師などはその代表的なもので、これら諸仏はやがて、子安観音、延命地蔵など、多様に分化した機能神として、民衆の現世利益的な願望にこたえるようになった。P25-27


神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈 安丸良夫 岩波新書 ISBN:4004201039



近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本 阿部謹也

ではこの「世間」はどのような人間関係をもっていたのだろうか。そこにはまず贈与・互酬の関係が貫かれていた。・・・「世間」の中には自分が行った行為に対して相手から何らかの返礼があることが期待されており、その期待は事実上義務化している。例えばお中元やお歳暮、結婚の祝いや香典などである。

重要なのはその際の人間は人格としてそれらのやりとりをしているのではないという点であって、人格ではないのである。こうした互酬関係と時間意識によって日本の世間はヨーロッパのような公共的な関係にはならず、私的な関係が常にまとわりついて世間を疑似公共性の世界としているのである。

贈与の場合それは受け手の置かれている地位に贈られているのであって、その地位から離れれば贈り物がこなくなっても仕方がないのである。贈り物の価値に変動がある場合も受け手の地位に対する送り手の評価が変動している場合なのであり、あくまでも人格ではなく、場所の変化に過ぎないのである。しかし「世間」における贈答は現世を越えている場合もあり、あの世へ行った人に対する贈与も行われている。

・・・「世間」は広い意味で日本の公共性の役割を果たしてきたが、西欧のように市民を主体とする公共性ではなく、人格ではなく、それぞれの場をもっている個人の集合体として全体を維持するためのものである。公共性という言葉は日本では大きな家という意味であり、最終的には天皇に帰着する性格をもっている。そこに西欧との大きな違いがある。現在でも公共性という場合、官を意味する場合が多い。「世間」は市民の公共性とはなっていないのである。89-91

「世間」という言葉は本来サンスクリットのローカから来ており、仏教の概念です。否定されるべきものという意味をもっていました。それが長い間に現世的な意味を強めてきたものであり、今でもこの世だけでなく、あの世も含んだ概念となっています。すでに述べたように「世間」には贈与・互酬の関係が貫かれていました。貰ったら返すというこの関係は誰にも親しいもので、日本の社会にもいたるところで見られる関係です。

マルセル・モースの考えにしたがって、私は長い間贈与・互酬関係を呪術的な関係とみなしてきましたが、親鸞に触れた際にこれを訂正し、呪術というヨーロッパの概念を改める必要性を痛感しています。

「世間」の中には贈与・互酬の関係が貫かれています。次いで長幼の序がありますが、これについては説明の要はないのでしょう。次に時間意識があります。「世間」の中で暮らしている人はみな共通の時間意識をもっているのです。欧米では一人ひとりがそれぞれ自分の時間を生きていますが、日本の「世間」ではみなが同じ時間を生きているのです。P140-141


近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本 阿部謹也 ISBN:4022618116




「世間体」の構造 社会心理史への試み 井上忠司

西鶴の町人生活を描いた三つの作品(「日本永代蔵」、「世間胸算用」、「西鶴織留」)にみるかぎり、「うき世」は、概して「あの世」(冥土)にたいする「この世」の意としてもちいられている。・・・いっぽう、「世間」の用法はといえば、これもきわめて現世的であった。仏教用語としての「世間」はとっくに姿を消して、すぐれて人間くさい意味をあらわす言葉となっている。「世間」はもっぱら、より町人の日常生活に身近な社会や、状況の意味としてもちいられているのである。

・・・要するに、西鶴が(永代蔵で)いうには、この世にある願いは、人の命をのぞけば、金銀の力でかなわないことはない。夢のような願いはすてて、近道にそれぞれの家業をはげむがよろしい。人のしあわせは、堅実な生活ぶりにある。つねに油断してはならない。ことに「世間」の道徳を第一として、神仏をまつるべきである。これが、わが国の風俗というものだ、ということである。そもそも商売は、町人にとって生涯の仕事であり、親子代々に伝える家業であった。西鶴は、自分と家業との関係において、家業にはげみ、諸事倹約をまもることの必要性を説くいっぽう、<家業>と<世間>との関係において、「世間」の道徳にしたがうことの必要性を説いているのである。

・・・西鶴の作品には、「世間」を道徳基準のよりどころとするような表現がなんと多いことであろうか。たとえば「世間並に夜をふかざす、人よりはやく朝起して、其家の商売をゆだんなく、たとへつかみ取りありとも、家業の外の買置物をする事なかれ」、というふうにである。P60-66


「世間体」の構造 社会心理史への試み 井上忠司 講談社学術文庫 ISBN:406159852X