あの〜だれかいますか?・・・・・・


あの〜だれかいますか?

2/21から始めてなんとか続いている。というか、結構楽しい。2ちゃんねるの喧騒から離れて自己構築する。しかしこのようなブログなるものははじめてなのでよくわからない。だれか来ているのか?読んでる人などいるのか。というか、自分から関係するところに出向いて挨拶しにいかないのかいけないものなのか。まるでマンションの隣の人が誰か知らない感じ。それとも2ちゃんねるの人格消費ワールドに麻痺しているのか。そしてこの楽しみはおそらく、「名無しさん」という対象aに見られている錯覚にあるのかもしれない。案外普通に会話するとさめたりしそうな気がする。「ネットに公開すると言うことは世界中の人が見ることができるんだよ。」という言葉が流行ったことがありましたね。


タイトルが決まらない。

ポストモダンを越えていく2ちゃんねる、溢るる余剰、溢るるイマージュ、恋するコミュニケーション、コミュニケーションは言語を越えていく、道具や主義・・・あと他にもあったような・・・


コミュニケーションという自己構築行為 id:pikarrr:20040307#p1

記録され、より正確に伝達されるという言語獲得により、重厚な②後天的文化記憶を獲得した。そこに動物ではない「不完全性を共有するものたち」としての人の苦悩がある。
だから私が私であるためには、世界とコミュニケーションしつづけ、「私」という「言語認識上の破れ」を埋めつづけるしか道はないのであろう。そして現にそうしているのであり、それは我々が限りなく同じであり、不完全性さえ共有しあえるからではないだろうか。

「私とはなにか?」最後はきわめて曖昧な楽観主義な「私たちは分かり合えるのさ」という帰結。手堅くまとめた感は否めません。世界中に溢れるもめ事(イラク戦争、テロ含む)はなんなんだよ!平和ぼけのノーテンキジャップは気楽でいいよな。という意見はごもっともです。「分かり合える」がそれでも「分かり合えない」(流行りの馬鹿の壁でもないですが、)現に闘争が発生している。そしてそれが問題だ。しかしこれはあくまで認識論であり、存在論です。


記号コミュニケーション史(構想)id:pikarrr:20040310#p1

読みにくいですね。デリダ用語バリバリです。なぜに?使ってみたかったから。
「ネットユーザーは人間回帰する!」ほんとかよ!?どうでしょうか。2ちゃんねるはまさに欲望のはけ口ですね。確かにそれは見られている(劇場)という効果は無視できないですが。「疑似パロールのゲーム性」で書いていますが、 私の経験でいけば、2ちゃんねるやネットゲームなどでは日常でも味わったことないほどの感情がわき上がることがあるように思います。それは怒りであり、興奮であり、楽しさであり、人の温かみみたいなものですが、物理的身体や社会的仮面を越えたところで「心」に直接アクセスしているところはあると思います。
ご察しのとおりに、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」への反論?のようなところもあります。あそこにある違和感。そしてそもそもある「オタク」という記号のマスメディア的な虚像。


なぜ2ちゃんねるなのか?

2ちゃんねるという中心とはてな(など)の周辺」、「ポストモダン(私をこれを大衆消費社会=マスメディア虚像社会ととらえていますが)を解体していく2ちゃんねる」。構想としたのは、現在もっとも興味があるところであり、考え中の話題です。
でもなぜ2ちゃんねるなのか?これはなぜ渋谷なのかと似たような問題だと思います。そもそもの理由はない。偶然、たまたま。問題は一部に人が集中するということです。これはコミュニケーションの効果だと思います。なにかを求めて、欲望する他者を求めて人は集まる。そしてネットスペースでは、物理的な制約がない。引っ越し資金も、労力も、親の説得も、仕事の心配もない。だたアクセスするだけ。このためにネットは一極集中化が激しく進む文化だと思います。たとえば2ちゃんねるが閉鎖されれば、次の2ちゃんねるができるだけです。そのような意味で私は「中心としての2ちゃんねる」を使っています。


自然主義パースペクティブ(草稿) id:pikarrr:20040312#p1、id:pikarrr:20040313#p1

「生命理性」!なんたる隠微な響き、そしてなんたる「自然主義の誤謬」ということですが、哲学うんぬんでなく、私のパースペクティブについてはき出してみました。ここに示すのは宇宙的世界は、ランダムでしかない。そして生命は宇宙のゆらぎでしかない。人はその生命の周辺の一形態でしかないという究極の?相対主義的世界像です。そして生命的世界では、人は繁栄を目指す「生命理性」と不安定な人なる生命を律するための「合理的理性」のバランスを保とうとしている。そこで多くの衝突、闘争が行われている。そしてここでも「コミュニケーションする」、「話合う」しかないという帰結があります。

「生命理性」という繁栄への一元化については、人類が繁栄すればいいのか、という弱者排除の思想につながりますね。そのために繁栄とはなにか?という個体性と集団性の問題と出しているわけですが。さらには「生命理性」なるものは、人にけだものにもどれということか、ということにも繋がります。しかし動物はけだものか?という反論があります。生命は弱肉強食、生存競争の世界。これは正しいですが、かなり偏見でもあります。繰り返しTVで流されるシマウマを襲うライオンのシーン。劇的な場面。これもマスメディアが作り出した大衆虚像価値でしょうか。生命は闘争と共生をもとに生存していますが、どちらかと言えば共生を主にしているように思います。しかしこれを「助け合い」というとヒューマニティーな感じもしますが。

しかし本質的な問題は、これではたとえばイラク戦争は善か悪か、のような問題は、結果論でしかいえないし、そもそもどの時点の結果であるかと言う問題になる。

相対主義者の難しいところは、解体ではなく、構築にあります。ニーチェニヒリズムにより解体し、永劫回帰や超人で永遠の彼方へ構築を回避した。デリダにしても「脱構築」で解体したが、「脱構築は正義である。」という。「正義は(決定)不可能性なものの経験」という遠いところに構築を見いだす。またハーバーマスのコミュニケーション行為にしても、(本人も認めていますが)なんとか相対主義から人を救おうという「誠意」と言うめんがあります。構築は哲学者にとって禁断の果実です。

そうそうたる哲学者と私の考えを並べるつもりは毛頭ありませんが、この哲学的な世界と、日常的な世界のギャップはなんなんのだろうという思いはあります。そしてそれを繁栄を目指す「生命理性」と人を律するための「合理的理性」のバランスを保つところに置いてみた感じです。

それはおそらく、難しく哲学を語ろうが、誰にも日常生活があり、日々社会生活を営み、楽しんでいるという事実がある。仕事の報告書を「脱構築」など誰もしない。「なぜ哲学者はもっとも普通の側面を無視するのか。自分自身の普通の姿を否定しようとするのか。(カヴェル)」という一見素朴な問いかけがある・・・ってな感じですね。