なぜ宮台は「世界」の中心で「魂」と叫ぶのか 宮台真司「サイファ 覚醒せよ!」 <収束するポストモダン その5>

pikarrr2005-05-02


サイファ 覚醒せよ!」


宮台 真司サイファ 覚醒せよ! ― 世界の新解読バイブル」(2000/10)ISBN:448086329X を読んだ。2000年の作品ということで少し古いが、最近のブログの内容を見ても分かるように、宮台の根本的な戦略は変わっていない。この本はその題名、ロールプレーイングゲームのような構成と、青少年向けを意識し、わかりやすいものになっている。




メタと動物化と郵便的世界


宮台の主張は、東浩紀の考え方と対比するとわかりやすいかもしれない。最近に東のプログに書かれた「僕のすべての議論の中核にある世界認識」を参照したい。

2005年04月12日 メタと動物化と郵便的世界
「渦状言論」 東浩紀 http://www.hirokiazuma.com/archives/000135.html

人間は、確かに情報を外部化(デリダ風に言えば、エクリチュールにすれば)、いくらでも階層的な思考を展開することができる。しかし、情報の適切な外部化ができない場合は、あまり複雑なメタゲーム(カギカッコの重複)には耐えられないのではないか。

僕の動物化論の基盤はここにあります。北田さんは、社会が複雑になってくるにつれて、メタゲームがどんどん発達すると考えている(あえて簡単に要約すると)。しかし僕は、社会があまりに複雑になると、メタゲームは有効に機能しなくなると主張しているのです。・・・

無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁き・・・のような状態では、もはや何を主張してもだれかよりはメタレベルだし、他方ほかのだれかにとってはネタでしかない。そして、このような混乱した情報環境においては、結局のところひとは動物的に生きるしかないのだし、実際生きている、というのが僕の考えなのです。・・・言い換えれば、メタゲームはいまでも行われているのかもしれないけど、それはもはや何の意味もない、と主張しているのです。

近代社会の大きな物語は、伝言ゲームの複雑性を縮減してくれる装置でした。しかし、僕たちはそれを手放し、グローバルな伝言ゲームへと足を踏み入れてしまった。この荒野においては、アイロニーはほとんど役に立たない。僕はむかし、このような荒野のことを「郵便的」と形容したことがあります。

ひとびとが動物化するのは、世界が郵便的だからです。近代社会が作り上げた巨大な郵便局(大きな物語)はいまや壊れてしまい、ひとびとは、・・・無限の伝言ネットワークのなか、メタレベルの志向の宛先を見失ったまま、局所最適に基づいて動物的に生きるしかなくなってしまった。これが僕のすべての議論の中核にある世界認識です。


現代は、大きな物語の凋落による不確実性の時代です。「人間であること(象徴界)」はメタゲーム(脱構築)によって解体されだろうと言うことです。宮台もこのような状態を、ラカンを引用しながら、「社会(象徴界)の底が抜けた」と言いました。「社会(象徴界)」の外には「世界(現実界)」がある。「社会(象徴界)」は本来底が抜けているが、それを隠蔽してきた。しかし現代、価値の多様化などから、底に穴が開いていることがあらわになってきたということです。

そして東の主張は、このような状態の中で、人々は動物化するだろう。すなわち解体されたままで、生きていくことに慣れていくだろう、とうことです。特に東の支持するオタクという人々は不確実性を受け入れ生きることに適応した人々であるということでしょうか。

確かに人々はこのような「郵便的」「社会の底が抜けた」状況に適応しようとしているようにも見えます。たとえばテレビは、80年代の脱構築以来、バラエティー全盛です。バラエティはその場面だけ見ても楽しめるようにできています。即時的に快感を得る。80年代以降のトレンディードラマも、物語そのものよりも、アイテム、雰囲気を重視する。登場する俳優も演技力、表現力よりも、一つのおしゃれアイテムとして機能することを求められているようなものです。じっくり物語りに入り込む、重厚な物語るドラマは敬遠される傾向にあるかもしれません。

そのような傾向への回帰が、プロジェクトXであるとか、韓流であるとか、野暮ったい物語なのかもしれません。そしてそれらは比較的高齢者の過去への哀愁として、現れます。それは、「郵便化」する世界への反動かもしれません。




動物化からの転落


宮台も当初は「まったり革命」「終わりなき日常を生きろ」と、このような「社会の底が抜けた」状態をうけいれていけると考えていましが、どうもこのような「郵便的」「社会の底が抜けた」状況に人々は耐えられなくなっているのではないのか。動物化のフリ」が、不確実な宙づり状態から転落しているのではないか、ということです。それが、オウムなどのエセ宗教への没入であるとか、脱社会的な傾向だということです。

社会の学校化、コンビニ化、情報化

70年代半ば以降 家庭や地域の「学校化」 学校の成績がいい程度のことで、学校でも家庭でも地域でも全面的に肯定されるようになった。また80年代半ば以降 「コンビニ化・情報化」が進んで、どこにも行かず、誰にも会わずに、暮らせるようになる。そのために、自己形成(尊厳の獲得)において、他者との社会的交流での試行錯誤を免除され、他者と社会とまったく無関係な場所に、自らの尊厳を樹立する。モノと人の区別がつけられず、まったり人を殺せる「脱社会的存在=底が抜けた存在」が出現。精神分裂病の減少と反比例して、人格障害、行為障害が増大する。


「社会の底が抜けている」

「社会(象徴界)」は本来「底が抜けている。」他者とのコミュニケーションの同一性は自明ではない。ラカンによる、乳幼児期の幼児的全能感=母子の想像的関係から、「父親の審級」による去勢によって、象徴界を獲得する。すなわち自分の思い通りに行かない他者とコミュニケーションしなければ、何事の達成できない、ことをしる。しかし現代は、「父親の審級」による去勢が行われず、幼児的全能感から抜け出せず、高い「プライド」、低い「自己信頼」によって、「脱社会的な存在」となる。

宮台真司 サイファ 覚醒せよ!」




サイファの逆変換


ではこのような状況をいかに生き抜くべきか。という問いに対する宮台の解答が、サイファであり、「右翼」への傾倒です。サイファとは端的にいえば、「神」です。「社会」の底が開いたままの宙づりでは、人は不安定で生きていけません。その穴を塞ぐことが、宗教に意味であり、「社会」が例外なく宗教的表象を持たざる終えない理由」なのです。

そして宮台の戦略である第三の道は、このような穴=未規定性に対して、論理的に対応することはできない。未規定性という「名状しがたい、すごいもの」へ突発的な感染する。そしてこの感染を論理的に考えることによって、サイファと距離をとる、客観的に見られるようにする、というようなことだと思います。そしてこの「名状しがたい、すごいもの」へ突発的な感染」するという感受性が、日本の右翼思想には内在しているということです。

サイファ

「世界」は原理的に未規定性を孕まざるをえない。にもかかわらず、私たちは、規定されたものが存在するという前提で、コミュニケーションが成り立つ「社会」を営んでいます。しかし「社会」の中にたえず未規定な「世界」が進入するようでは「社会」は成り立たなくなる。そこに「社会」に露呈する「世界の未規定性」を、一カ所に集めて、「世界」の中の特異点として表象する。その特異点サイファである。典型的には、「世界」の創造者としての「神」

人間の本源的な生理として、「宇宙が始まる前の完全な無なんていう馬鹿げた状況はないんだ、何かがあるんだ」と思わずに生きていけない。僕たちは全体を知ろうという志向性を有する。我々の「社会」が例外なく宗教的表象を持たざる終えない理由である。宗教は「端的なもの」を無害なものとして受け入れ可能にする社会的メカニズムである。「神」概念のような「世界」の内と外に同時に属しうる特異点の導入によって図らえる。


第三の道

巷の宗教は「行為系宗教」「体験系宗教」に二分できる。これらの「幸せになりたい」「ここはどこ?私は誰?」でもない第三の道がある。

①突発的な「名状しがたい、すごいもの」への感染を手がかりとして、②徹底的に論理的な思考によって各宗教ごとに固定されがちなサイファを逆変換し、「世界の根元的な未規定性」に到達すること。③そのことによって、失われた「世界」との関わりを取り戻すと同時に、④「名状しがたい、すごいもの」への感染に対する理論的再解釈で、「名状しがたい、すごいもの」への感染を他者による洗脳やマインド・コントロールに利用されないように防波堤を築く

キリスト教圏では「神の子イエスという固定されたサイファ特異点)に「世界の根源的な未規定性」が圧縮される。日本人は感受性は固定されたサイファに求めなくとも日常生活を無害化できるという「名状しがたい、すごいもの」へのオープンさがある。それが失われるとオウムのようなエセ宗教にサイファを求めてしまう。

「世界」の中で自分のポジションは動かしようもない、何もかも動かしようがないんだったら生きていても死んでも大差がないと感じてしまうニヒリズム。これに対して、凡庸に見える宗教的な表象が、凡庸に見える花見の体験が、凡庸に見えるサブカル経験が、「世界の根元的な未規定性」へと通じる扉を隠し持ったサイファであることに、驚き混乱し、ついで癒される。そして「名状しがたい、すごいもの」への感染という「体験」の意味を徹底的に考えことで、「世界の根源的な未規定性」へと開かれる。


サイファの逆変換

サイファを逆変換する=「世界の根元的な未規定性」に関わる長きにわたる人類の営みが含意している問題設定を理解することが、「世界の根元的な未規定性」すなわち「名状しがたい、すごいもの」へと開いてくれ、「世界」を豊かに体験させてくれる。

宮台真司 サイファ 覚醒せよ!」

「表現」「表出」

「表現」 相手がいて、相手が理解して、理解によって動機づけられたかどうか。「表出」 「表出」が行った人にカタルシス(感情浄化)が起こったかどうか。近代主義は、文脈自由な「表現」(どんな人間でも納得させられる(はずの)論理)に圧倒的な重きを置くことで、共通感覚を前提にしてしか影響力をもたない文脈拘束的な「表出」を、どんどん周辺に追いやっていきます。「表現」を通じて「表出」を救済する以外に政治的に有効な策はあり得ない。


「意味から強度へ」(表現から表出へ)

「言葉」「動機づけ」がメカニズム的に分離した近代の社会システムにおいては、人は「言葉」に納得するだけでは、(たとえば論理的な理解に達するだけでは)行動に向けて「動機づけ」られません。「表現」によって人を動かしたり人を変えたりできる部分は、むしろごく僅かだと思った方が良い。

「表出」次元で感応すること、「名状しがたいすごいものにうたれる」経験の限りないエクスタシーを忘れ始めている。「表現」によって動機づけられるのでなく、「表出」によって動機づけられる。「真理」に帰依するのではなく、「聖性」に帰依する。「物語」に帰依するのでなく、「名状しがたいすごいもの」に帰依する。


天皇という文化表象として背景にある日本人の感受性の伝統

近代表現が覆い隠しがちな、人が誰しも持っている感受性の次元、「感覚の共同体」の共通感覚を、日本で育った僕たちは知っている。感受性は、原初的共同体におけるシャーマニズム的な感受性にルーツがある。「物語への納得」よりも「すごいものへの感染」が優越しがちな共通感覚。「感覚の共同体」が信頼できなくなったとき、その空洞化を埋め合わせるために共同体主義が噴き上がる。近代的自由の獲得と引き替えに近代が抑圧しがちな感受性を救済する。

宮台真司 サイファ 覚醒せよ!」




宮台は<世界>の中心で、「魂」と叫ぶ


このような右翼傾向の説明は、最近の宮台のブログでも語られている。宮台は、右翼/左翼を主意主義主知主義の対立と捉えます。主知主義とは〈世界〉を知識で覆える(神を合理的に弁証できる)とする立場、主意主義とはそれを否定する立場だと考えるといい。」すなわち未規定なものへは、論理的な対応では未規定性が増すだけである。そうではなくて、主意主義「意思の端的な性質は、〈世界〉の根源的な規定不能性と表裏一体である。意思は「端的に訪れる」。」すなわち右翼思想には、コモンセンスとしてとしての感受性があり、それを「魂の系統」「情念の連鎖」と宮台は呼ぶのです。

なぜいきなり右翼なのか、なぜ「魂」なのか、の鍵は、そこには日本人の根底的な共有できる感受性がある、ということです。一つの例として、桜を見るとこみ上げてくる、「桜の下には死体が埋まっている」的な感受性です。

2005-04-14  「思想塾」開講!!MIYADAI.com Blog 宮台真司
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=259

【後期近代における「端的なもの」の露呈に対処して】

■同じく、もう一つ、思想塾の社会的貢献の可能性がある。それは右翼の本質に関わるものである。即ち、思想理解に必要不可欠なコモンセンスが途切れないようにすること、ならびに「魂の系統」「情念の連鎖」の流れを断ち切らないようにすることである。
■古くはプラトン以前とプラトンとの違い、あるいはプラトンアリストテレスの違いにまで遡り、スコラ神学者においては神の存在の弁証可能性をめぐる対立として再燃した、主意主義主知主義の対立がある。厳密に、前者が右翼、後者が左翼である。
■色々な規定が可能だが、主知主義とは〈世界〉を知識で覆える(神を合理的に弁証できる)とする立場、主意主義とはそれを否定する立場だと考えるといい。主意主義がそれを否定するのは、意思を知識に還元できない端的なものだと見做すからである。

■みんなが平等であることは大切だ。でも「みんな」って誰のことだ。人間全部のことか。だったらなぜ人間だけを平等の宛先にするのか。境界設定にはいつも根拠付け不可能な端的なものが入り込む。そこに左翼は合意を持ち込み、エセ右翼は伝統を持ち込む。
■まさにそれこそが「規定不能性の規定可能化」の所作である。複雑な社会においてそれは必要不可欠ではある。しかしそれが必要であると言い得るためにすら、実は境界設定へと向けた端的な意思の「訪れ」が必要になる。即ち、内発性が必要になる。
■かつて貧しい時代には、社会での上昇に──社会でのポジショニングに──意味が与えられた。社会内での位置を欠落させた者どもが、位置を回復させることに強度を見出すことができた。だが、豊かな社会ではもはや社会内での位置の欠落は問題たりえない。
■豊かな社会は、むしろ社会自体が位置を欠落させている。だから社会での上昇が〈世界〉での下降を意味するかも知れない。社会の中であくせくするのはツマラナイという感覚が拡がる。そこでは再び、社会の外が、〈世界〉が、内発性が、問題になりはじめる。
オウム真理教を巡る事件は悲惨であり滑稽でもあったが、これを本質的な意味で克服するには、今述べたような後期近代(近代成熟期)固有の問題を背景とすることに敏感であらねばならない。その意味で、左翼的であるより、むしろ右翼的である必要がある。
■思想塾では、そのような敏感さを育て上げるための訓練を施すことで、後期近代の社会が突きつけてくる問題に対処可能な人材を養成する。実はそのことが、政策的にも実存的にも、最も必要とされている。だから思想塾の営みも、政策的であり実存的である。
因みに規定不能な端的なものとしての意思を「魂」ないし「情念」と呼んでいる。これらの言葉はエセ右翼的な手垢にまみれているが、その形式的な意味は完全に論理的に説明できる。ことほどさように思想塾では、論理的思考の否定どころか徹底をこそ要求する。


このような右翼の根元的な感受性によるコモンセンスによって、「社会」の底の穴を塞いごう。「底が抜けた」、不確実な社会では、右翼的な感性が必要になるだろう。だから宮台は「世界」の中心で、「魂」と叫ぶ、ということでしょう。

つづく・・・