なぜ「ネオ自然主義」なのか?

pikarrr2005-08-22

真理の自然淘汰


「なぜ「継続」こそが「正義」なのか?」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050615)で、「転倒/反転の構造」について書いた。それを発展させてみる。

■転倒・・・「偶有性から単独性への転倒では神性が捏造される」象徴界(言語、社会)という内部を作り出す。内部の帰属として主体がつくられる。内部の価値としての真理が作られる。 形而上学デリダも必ず恋をする」

■反転・・・「単独性から偶有性の反転では神性は解体される」、内部が解体され、外部へと浸透する。 主体を解体する。真理を解体する。ポストモダンデリダの恋も必ずいつか冷める。」

■カオスの辺縁・・・転倒/反転の往復運動の起点、自己組織化が起こる位置、生命が維持される位置、内部(言語、社会)が維持される位置。主体が維持される位置

転倒/反転の構造は、虚像/真実の構造ではなく、継続/忘却=エントロピーの減少/増加である。「時間」という反転に逆らって、「無垢を求める欲動」現実界)によって転倒が起こる。この新陳代謝によって内部(主体、真理)は維持される。すなわちそこに働く力は自然淘汰でる。




アイロニストは存在しない


これは一見、ローティの「リベラルアイロニスト」に近いように思う。しかし根本的に異なるのは、メタ言語は存在しない」ということであり、ローティのいうようなアイロニストは存在しない。それでも「転倒」は起こる。「手紙は必ず宛先に届く」のである。これは、デリダ脱構築にも言える。脱構築は意図的な「反転」思考であるが、意図的である時点で、否定神学「転倒」である。本来の「反転」は忘却されることのみにある。「手紙は忘却されたときのみ、宛先に届かない」のである。これを「ネオ自然主義と呼ぼう。




ナチズム再帰の回避


たとえば、ナチズムなどの悲劇を再び起こさないことは可能なのか、と考える。ローティ的にはイデオロギー的な矯正は不可能であるが、「他者の生の具体的な細部との想像上の同一化によって」可能性が見いだされる。「苦痛や辱めという点での類似性」を感じることによって、回避される可能が目指される。

「ネオ自然主義では、なにものも偶然性にゆだねられる故にナチズムの回避は不可能である。ただ「ネオ自然主義は、無法地帯ではない。そこには物理的な制約が存在する。たとえばローティが漠然と定義した「苦痛や辱めという点での類似性」のような生物的な同一性、人としての物理的な制約は存在するだろう。そして「苦痛や辱めという点での類似性」によって、たとえばナチズムの再帰を回避するためには、「転倒」し続けることである。「ナチズム」についての記憶が忘却されることを妨げることである。

ここで、デリダ脱構築の意味が現れる。デリダ脱構築は正義である」というときには、継続されることに意味がある。また同様にローティー「アイロニスト」は、「アイロニスト」であり続けるという継続することによって、意味がある。だからといって、ナチズムが起こらないとは言えないのである。カオスの辺縁において、僅かな変化が全体を変えることが起こるからである。
*1