なぜ引きこもりはプライドが高いのか。その3 社会に出るも地獄、引きこもるも地獄

pikarrr2005-10-28

「なぜ引きこもりはプライドが高いのか。 (http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051018)」について、id:fer-matさんからご意見を頂いた。


 
id:fer-mat
人生の目的は幸福です。そして幸福は主観的で相対的なものです。ゆえに引きこもりも幸福になり得ます。ということは引きこもりは人生の目的を達成しています。それで何が悪いのですか。ひきこもりは他者とのコミュニケーションよりもテレビゲームや趣味の方が面白いと思っているし、幸福を感じているから、そこから無理に引き離して、わずらわしくてめんどくさい他者とのコミュニケーションにもっていく必要はないでしょう。それは個人の自由の侵害です。ひいては幸福追求権の侵害です。

コミュニケーションを声高に叫ぶ人は、ただひきこもりという社会的弱者に対して、自分の意見を押し付けたいだけです。ニーチェのいう wille zur machtです。ヒトラーの同じものを感じます。コミュニケーションの意義とは何かも論ぜず、幸福の意義もよくよく考えずに、社会常識に惑わされてコミュニケーションコミュニケーションと叫ぶのは軽卒です。

そもそも社会は人々が働かなくてもいいように進歩してきたはずです。そして現代社会はその成果のはずです。にもかかわらず、できた余暇で仕事をするだとか、仕事をしなくても生きていける人に仕事を強要するだとかいうことは、おかしなことです。仕事も他者とのコミュニケーションも仕方がなくやるものであって、やらなくてもいいのにやるというのは病的です。

id:pikarrr
「引きこもり」が人生の目的を達成した幸福な人であるといいですね。ボクの知っている「引きこもり」は毎日が「つらい」といっています。「引きこもり」もそれぞれかもしれませんが、引きこもりは引きこもりで多くの悩み、苦労を抱えていて、「引きこもれば、仕事をしなくて、好きなことができて、万事OK」とはなかなかいかないようですよ。幸福とは難しいものです。

「ひきこもりは他者とのコミュニケーションよりもテレビゲームや趣味の方が面白いと思っているし、幸福を感じている」ということから、考えてみました。引きこもりの弱点は、なんといっても経済的な依存ではないでしょうか。部屋に引きこもって、「わずらわしくてめんどくさい他者とのコミュニケーション」しないといっても、経済的には親に依存しているわけですね。住むところ、毎日の食事などなど。そのために親は口をだすし、あるいは出さなくても心配するし、子供には親が心配していることが伝わりうざいです。これは実は「わずらわしくてめんどくさい他者とのコミュニケーション」を排除しようとして、逆に親との関係性を強化しているということでしょう。

それならば、フリーターでも良いので、ある時間割り切って働き、(他者とのコミュニケーションが少ない仕事もいろいろあります)経済的に親から自立して、一人暮らしをして、残りの時間で思う存分、テレビゲームや趣味をする方が、「他者とのコミュニケーションよりもテレビゲームや趣味の方が面白いと思って、幸福を感じ」られる本当の「引きこもりLife」ができるのではないでしょうか、などと思ってみました。

id:fer-mat
なるほど。しかし、そもそも社会が引きこもりやニートを気にしているのは、日本の経済力に関わるという実利的な理由であって、別に彼らの人生なんかどうでもいいと思っているんじゃないでしょうか。すなわち、社会は引きこもりやニートのことを考えるフリをして、本当は経済を心配しているのです。要するに、彼らは日本の経済という政府や社会の都合で急き立てられているわけで、そういう経済経済の風潮に嫌気がさしているニートや引きこもりにもいいたいことがあるにもかかわらず、数の論理で負けてしまって何も言えずに悶々としているということもあると思います。

実際問題、哲学的思想的に考えても、日本の物質的繁栄は飽和に達している一方、精神的荒廃の点において著しいものがあります。こういう時世では引きこもりやニートが社会に出ても豊かなコミュニケーションはできず、むしろ競争競争で摩耗して淘汰されていくだけでしょう。一般に学歴や資格のない彼らであればなおさらです。そして彼らもそういう事態に対して危惧感を有しているからこそ社会に出たがらないのだと思います。長年の引きこもりやニート生活に加えて、社会に対する不遇感を苛まれるのは、生き地獄です。そういう人たちに対して、軽々しく社会復帰しろといっても実が上がらないと思います。

そういう一生不遇が約束されたも同然の社会に飛び込むより、自分の支配できる空間であるゲームやアニメにとじこもるのも、人間として当然のことだと思います。天国と地獄があって、すすんで地獄に飛び込むバカはいないからです。人間は幸福を求めるものであって、幸福のない方には絶対行きません。彼らは社会に飛び込んでも99%負けることは確実であり、そのことがわかっているから社会に飛び込まないのです。これはかなり合理的な判断です。また彼らには完璧主義が多く、社会で中途半端な地位で中途半端なコミュニケーションをして生きるよりは、完全にとじこもってしまったほうがいいと思ってしまいがちです。

id:pikarrr
<社会に出る地獄>
ボクは引きこもりの専門家でも、カウンセラーでもありませんので、ボクのいうことは一傍観者の独り言以上のものはありません。その上で話を続けます。2ちゃんねるにいると多くの引きこもりさんたちとコンタクトする機会があります。それで人ごとながら、彼らの行き詰まり感を感じます。それはまさにfer-matさんのいった状況だと思います。

中学、高校途中で引きこもり、数年たつ。頑張って、社会復帰しようにも、普通に就職した同世代の人たちが大変ながらも責任ある仕事をしているのに対して、引きこもりへの企業の扱いは低く、低賃金で単純作業ばかり。もはや勝ち組になるチャンスさえもらえない。「社会に対する不遇感を苛まれるのは、生き地獄」ということでしょう。

しかし社会経済の側に立つと、社会が回るためには、労働力が必要です。最近は物質的に豊かで、「夢を持て」という時代ですから、「派手な」仕事が求められますが、社会全体からみると、仕事は「地味な」仕事がほとんどです。しかし誰かがそれをしなければなりません。そして多くにおいて、学歴によって仕事の内容は決められています。そのような現実において、低学歴で、資格がない彼らは、引きこもりであったことを除いても、「地味な」仕事を与えられる可能性が高いのが現実です。これは引きこもりの問題とは別に、古くからの学歴社会の構図です。

これを、社会/引きこもり=加害者/被害者の二項対立な構図で考えるのは幼稚です。社会が悪いんだと、自分を社会の外におくことは責任逃れでしかありません。引きこもり自身も社会の一部であり、仮に社会に悪があるなら、その責任の一端を担う存在です。理想論でいえば、引きこもり救済運動を自ら進めるような責任もあるのです。これはかなりハードルが高い理想論ですが。責任を社会悪に還元して、自分は知らないと言っても、なにも変わらないのも事実です。

<引きこもる地獄>
では、引きこもりつづけることが「幸福」か?同世代がこつこつと仕事を積み重ね、家庭を持ち、安定していくのに対して、どんどん社会からおいていかれるという焦り。そして将来に対する恐怖。ゲームやアニメやネットに熱中している時間はいいが、ふとした合間に、回帰する恐怖感。「社会に飛び込まない合理的な判断」だけでは「幸福」になれないことが、彼らの「地獄」なのですね。

<身体的なリハビリ>
しろうとのボクがえらそうに対策をいうことに対した意味はないのですが、このような「八方ふさがり」の中で、今後どのように彼らが行動するかは、彼ら自身が選択することです。しかし彼らは「健全な」選択するような状態にあるのか、ということです。テレビでみる引きこもりはもはや「病人」のようです。引きこもるという状態は、身体的にもあまり健全ではないだろうと思うのです。ベタ言い方をすると「病気をして寝込む」と体力が落ち、それだけで、心理面で無気力、ネガティブになりがちです。これをボクは「動物的引きこもり」と呼びました。

将来をどのように選択するかは別としても、健全な選択のために、身体を含めたリハビリからはじめた方が良いのではないか、ということです。しかしすでに身体的に弱ってやる気がないのだから、リハビリをやる気なれない、という場合には、やはり回りの支援として、強制的なリハビリも必要だと思います。

「社会」の外を知る戦略>
たとえば、彼らが中高生に引きこもったまま、大人になったとすると、彼らは「学校とテレビゲームと趣味」と親の考えの世界しか知らないとも言えます。彼らが「健全な」身体を手に入れたとして、そのような小さな「世界」で、彼らは「健全な」選択を行えるでしょうか。

引きこもり自身も社会の一部であると言いましたが、「日本の物質的繁栄は飽和に達している一方、精神的荒廃の点において著しいものがあります。」というのは本当でしょうか。この場合の「日本」とはどこを指しているのでしょうか。親、先生も「経済経済の風潮」の中で生きてきたわけですから、「日本の物質的繁栄は飽和に達している一方、精神的荒廃の点において著しいものがあります。」というかもしれません。しかしそれこそが「社会」から与えられた「思いこみ」ではないでしょうか。どれだけ「世界」のことを知っているのでしょうか。これは、そのような社会の小さな価値によって、自分で自分に「おまえは負け組なんだ。」と言い続けているのではないでしょうか。

日本はもともとこのような精神的な挫折への救済がなかったように思います。「経済的な勝ち組いなれ」というような経済至上主義的な価値しか親、先生も持ち得ていません。たとえば海外では宗教が精神的な救済の機能をもちえています。経済至上主義的にこぼれても、異なる価値で救済される。「居場所」が確保されたりします。ボクはたとえば「社会」の外として、宗教的な価値に救いをもとめるのも、一つの手ではあると思います。それにこだわらず、そのような「社会」の外もあるということを知ることも現代を生きる「戦略」だと思います。

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