ヘタレサイクル <なぜ「ヘタレ化するポストモダン」なのか? その6>

pikarrr2005-11-14

「プロフェッショナル」という倫理


ボクは倫理のテーゼとして「健全」な無垢の欲望に「健全」な精神は宿る」と示しました。

彼らに無垢が欠乏しているのは、わかる。しかし無垢は「健全に」消費しなければならない。そして無垢の健全な消費は無垢を消費する「体力」との関係があるだろう。簡単には、素人がいきなり難解な哲学書を読んでも寝てしまうだろう。入門書などから、小さな無垢から、そして無垢を消費する「体力」を付けていくのだ。それが、「健全な無垢の消費」である。

動物化した人々は、単に刺激的な無垢を求めるために、「体力」が付かないのだ。だから、そのような動物的な無垢に満足できなくなったときに、体力、経験がない人々は、無謀に強迫的に、イラクへ旅発ち、盗んだバイクで走り出してしまうのだろう。それでなくても人は、無垢への強迫性を持っているのだから。「健全」な無垢への消費によって、「人間」として「健全性」が保たれるのだ。

なぜ「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿るのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051113

これらに関係することとして、今までに以下のように言いってきました。

「真実」は自己組織的な生きものである。それはいわば誰にもコントロールできないところにあり、やがて「忘却」していく。デリタが脱構築は、正義である」というときには、「暴露」、あるいは「郵便的」に意味があるのではなく、「継続」において意味がある。「継続」は、「忘却」されないために、「暴露」の注入、「郵便的」な複数化が必要とされるとという意味で、脱構築には意味がある。

この「継続」の力の源は欲望であり、欲望とは、自己完結的なものではなく、「欲望とは「(現実界の)他者」への欲望である。」から、欲望とは他者へのコミュニケーションであり、ここからデリダ的、柄谷的「他者」の声に耳を傾けつづけるという倫理観が現われる。

「真実」について、議論され、反論され、他者と関係し続けるという「忘却」へ抵抗していくという欲望の「継続」が、「正義」である。ある対象が正しいと考え、発言し、議論し続けるいう欲望の「継続」「正義」である。ここにラカンの倫理観「己の欲望に譲歩するな」が現われる。

「継続」脱構築のような知識を必要としない。「正義」権威主義的特権性から解放されるだろう。求められるのは知識でなく、「継続」する強度である。

なぜ「継続」こそが「正義」なのか? その3 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050617

ポストモダ社会で、拡散する主体像は、「オタク化」という収束に向かっています。もはや大きな無垢が消失した社会では、無垢への欲望は、局部へ向かうしかありません。このような「オタク化」は、社会的に前面化している傾向であるといえるでしょう。

このような問題への解答として、踊る大捜査線には生き生きした「プロフェッショナル」な主体像がしめされています。「プロフェッショナル」とは、警察官僚のような会社人間とは違います。組織への忠誠よりも、自分の仕事にプライドを持ちます。また自分の分野に固執するオタク傾向ですが、犯人達のように自己満足に埋没することなく、社会正義を重視します。またかつての職人との異なるのは、仕事だけでは生きていけないことをしり、社会生活であり、家庭も大切にする「普通の人」です。閉じた組織内のまなざしよりも、より大きい社会的なまなざしに開かれているという、現代的な一つの倫理的な主体像として描かれています。

しかし「プロフェショナル」であるということは楽ではありません。日常の基本は、地味な反復の繰り返しです。また最近、元プロ野球選手が引退後に、野球しか知らないと社会に適用できずに、犯罪でつかまりましたが、現代のメタメタな世界では、一つの価値に固執することは、危険であり、怖いことです。そのために一人、地味に孤独さに絶え続ける強度が求められるのです。そしてこの強度に耐えられず、「悪い」オタクへの転倒は容易に起こりえるのです。

そのような孤独の中にいながら、笑っているという「プロフェッショナル」な倫理的な主体像である故に、踊る大捜査線の登場人物たちは「愛すべき人々」なのではないでしょうか。

「プロフェッショナル」はなぜカッコいいのか? 映画交渉人 真下正義 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050530

ボクは、「消費(動物的快感の反復) − 極プチクリ2ちゃんねるなど) − プチクリ(オタクの二次製作、ブログ) − クリエーター」という構造を示している。

なぜ「極プチクリなのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051103

消費がテクノロジーによって高速化し動物化する。それに引きずられることによって、クリエーターは即時的な、プチクリ→極プチクリへ向かっている。ヘタレとは、動物へと引きずられ、即時的に無垢を欲望してしまう人々である。その意味で、「プロフェッショナル」とはクリエーターの向こうにある。動物的な高速化への引きこまれずに「継続」し続ける人々である。

「健全」な無垢の欲望に「健全」な精神は宿る」とは、動物的な高速化への引きこまれずに「継続」せよ。ということである。そしてその強度によって、「本当の無垢」へ開き続ける、ということです。




「ヘタレサイクル」を転がせ!

しかし、先に示したように、二つの論点を考える考える必要があります。*1

さきの「プロフェッショナル」「本当の無垢」へ開き続けることを「継続」せよ。は、「健全性」とは、人は、「処世的な開かれ」から逃れられない故に、ラカンデリダ的な「倫理的な開かれ」へトライし続ける努力ということになる。

しかしまた異なるところもあります。それは、現代では、処世的であろうが、倫理的であろうが、「開かれ」自体が、困難になっていること、欲望自体が消失していることも問題ししているということです。

②欲求によって反射的に動く、充足するのでなく、欲望しよう。豊かさと安心の中で、与えられるだけの脱社会的にならずに、自分に見合った無垢を見いだし、欲望しようということ。

すなわち、動物的に拘束に充足される社会において、「プロフェッショナル」であれというのは、高い強度を求められるすぎる。そのために、強度に耐えられずに動物化に落ちていく、ということだ。だから、「自分に見合った無垢」を見いだせ。

<消費(動物的快感の反復)> − <極プチクリ2ちゃんねるなど)> − <プチクリ(オタクの二次製作、ブログ)> − <クリエーター> − <プロフェッショナル>

自分なりに、プロフェッショナルへ目指せ。あるいは、「分散せよ」ということだ。仕事でプロフェッショナルでありつつ、趣味でプチクリであり、消費も楽しむ、というようなバランスである。これを「ヘタレサイクル」と呼ぼう。

たとえば動物がベタなら、プロは教養的、戦略的アイロニーにより最もメタな位置にいる。しかし高速化のなかで変化が早く、プロの位置は確保されなくなっている。その意味でもヘタレサイクルを回すことは避けられないだろう。

そして宮台こそがかつてヘタレサイクルを見事に回してみせ、その有用性を示したではないだろうか。コギャル分析はプロの仕事とともに、ヘタレとして楽しんだ故にリアリティを勝ちえたのではなかったか。宮台の最近の閉塞は、プロの位置にどどまり、「ヘタレサイクル」を回せないことではないだろうか。

踊る大捜査線の真下の魅力は、オタクであるがプロであり、プロであるがオタクであるという「ヘタレサイクル」においてなのだ。

ここで、倫理的な「本当の無垢」とは、他者性である、ということだ。よってこれは、正義の位置も指し示すと、言える。すなわち、

動物化>=他者がない − <ヘタレ(極プチ、プチクリ)>=他者を外部に閉じる。(処世的な開かれ)− <プロフェッショナル(クリエーター)>=他者に開かれる(倫理的な開かれ)

他者への開かれを分散せよ。自分を守るためには、無理に他者に開かず、閉じることも大切であるが、窒息しないように開くことも忘れるな。ということである。

*1:なぜ「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿るのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051113