「もはや事件に会議室も、現場もないんだ!」 <なぜ「ヘタレ化するポストモダン」なのか? その7>
「もはや事件に会議室とか、現場とかないんだ!」
「踊る大捜査線」で、「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」というとき、それはプロフェッショナルな宣言である。そしてここには会議室(エリート)/現場(プロフェッショナル)の対立がある。
これは、「限界の思考」ISBN:490246506X、宮台と北田の対立に繋がる。宮台のエリート主義に対して、北田は、「もはや事件に会議室とか、現場とかないんだ!」というである。
宮台 言説の真の影響力とはそんなもので、ピンポイントからピンポイントにおよぶものにすぎません。・・・僕の活動はピンポイントの影響を目指すもので、多段的広がりを目指さない。・・・簡単にいえばエリート主義です。人びとに反省を広げるといったミクロ主義なやり方では、どうにもならない。・・・マクロなアーキテクチャーをつくる影響力のある少数の人々に、ピンポイントで語りかける。
北田 「操縦する側」の責任倫理が実効性を持つには、操縦する側/される側という区別が意味を持つような社会状況が、存在していなければならない。現代の日本がそのような社会状況にあるのかどうか、ということが問題です。・・・高い社会的流動性と共同体主義とが奇妙な結婚を実現している社会空間では、宮台さんがめざされているようなマキャベリズムを実現するのは、かなり困難であると私は思うのです。・・・エリート倫理の啓蒙につとめるよりも、「よりよいポピュリズム」を目指していったほうが「手っ取り早い」のではないか、と私は考えます。
ポピュリズムの怖さやしたたかさ、不健全さとパワーととことん真摯に受け止めるのがマキャベリストである、といえるでしょう。・・・私はマキャベリズムの実行や涵養を、第一義的な課題とするつもりはないんですね。社会的な意味論の次元では、もはや「操縦する側/される側」という区別は失効している、という前提から、私は言語戦略を考えます。
[お勉強]限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司・北田暁大(2005) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051027
かつてはエリート/ヘタレ(あるいはプロフェッショナル)の対立があったときは、エリートへの対抗において、ヘタレはヘタレたりえたのである。
北田 七〇年代から八〇年代の言説状況を考えるとき、マルクス主義という巨大な参照項が、否定されるにせよ肯定されるにせよ、かろうじて残っていたということは重要ですね。・・・何を基準にして、自分らが議論をいけばいいのかわからない。それが、たとえば単純に依拠する準拠先というものではなく、否定すべき的であってもいいのに。とにかく、そういう参照項が消えてしまっているんです。・・・一部のネット住人や自称「保守」主義者たちは、無理にでも「反発すべき大人」や否定の対象を作り出しているわけで、・・・参照項なき時代を与件として、ものを考えていかなければならない、ということです。
[お勉強]限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司・北田暁大(2005) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051027
そしてボクが、「「ヘタレサイクル」を転がせ!」というときに、エリート(否定の対象)消失後に、強迫的に動物化、そしてヘタレ化しないように、という戦略である。仕事でプロフェッショナルでありつつ、趣味でプチクリであり、消費も楽しむ、というようなバランスを取る必要があると、いうことだ。
ヘタレサイクル
<消費(動物的快感の反復)> − <極プチクリ(2ちゃんねるなど)> − <プチクリ(オタクの二次製作、ブログ)> − <クリエーター> − <プロフェッショナル>
エリート/ヘタレ(プロフェッショナル)の演出というヘタレ化
そのような意味では、「踊る大捜査線」は、警察という古い権力機構だから、「プロフェッショナルとエリートの対立」がリアリティをもってなりたっているのであり、そこには、かつての二項対立という古き良き時代への懐古的な人気がある。
たとえば、ライブドアとフジテレビでは、ホリエモン支持は、プロフェッショナル/エリートの構造でのエリート嫌悪が演出されていたのではないでしょうか。現在の楽天とTBSでは、この構造の演出が不十分のような気がする。今までの言動から三木谷社長はプロフェッショナルというよりも、もはやエリートであり、大衆の支持が得られていないのだろう。
また驚くことに、超エリート(ゼネラリスト)のはずの小泉首相支持では、抵抗勢力=エリートと小泉側=プロフェッショナル、(竹中大臣をイメージとして)構造改革をテクニカルに進める人々の対立が演出されている。
のまネコ問題でも、エイベックスはエリート、2ちゃんねるはプロフェッショナルが演出され、エイベックス自身は自分たちもプロフェッショナルだと主張しているだろう。
あるいは、ネグリ&ハートの「帝国」ISBN:4753102246、「帝国」/マルチチュードにおいて、同様の構造が演出されているし、isedで語られる「環境管理権力」では、もはや「ビックブラザー」はいなく、「リトルブラザー」だけだ、と言いながら、全体の空気として「ビックブラザー」=エリートとised=プロフェッショナル的な構図が逃れられないでいるように思う。
このような二項対立による「無垢の幻想」の幻想と、エリート(ゼネラリスト)嫌悪とプロフェッショナル支持が、エリートという「大きな物語」消失後の「ヘタレ化」なのである。
そして「ヘタレサイクル」が、複雑化、高速化する社会において、「「健全」な無垢の欲望に「健全」な精神は宿る」実践的な方法なのである。