無垢欠乏の時代 <なぜ「ヘタレ化するポストモダン」なのか? その8>

pikarrr2005-11-16

無垢(フロンティア)欠乏の時代


簡単にいえば、現代は「無垢(フロンティア)欠乏の時代」といえるだろう。「大きなこと」はやり尽くされ整備され、泥にまみれず歩けてしまう。無垢の欠乏は僕らに耐久的な強度を強いる。簡単にいえば、動物園の動物的な「強度」である。野性の動物にとって、ジャングルとは未知に満ちた無垢の場である。なにがあるかわからない。油断すると死にいたる。無垢は緊張感と恐怖を強いるのだ。そしてそれは人でも同じである。人が突然、未知の暗闇に放り込まれたら、それは恐怖である。

今の環境も、無垢から逃れたわけではない。明日には大地震が起きるかもしれない。あるいはビルの上から巨大が看板が落ちてくるかもしれない。しかしそのような確率が低いことを知っており、それを絶えず心配しながら生きてはいない。

ボクたちは、このようなジャングル的な未知を文化によって整備してきたのである。それは、建築的な意味というよりも言語的な意味である。たとえば、朝、ボーとしながらも通勤できるのは、それが反復だから。電車が同じ時刻にくるだけでなく、同じような人々、同じような雰囲気という同じような環境が繰り返されからであり、少ない情報処理能力で通勤という行為を行えるからだ。ある朝、そこが戦場になっているようなことはないのである。

このような「複雑性の縮減」は、「建築的」に環境が整備されたというだけでなく、人々の中で、社会的な価値が共有されていることによる。通勤のときの姿、振る舞いということが儀礼的に共有され、人々がそれを反復するから、みなが安心できるのである。

「完全なる無垢」の世界などはないだろう。想像できないが、そこでは人は狂うしかないだろう。多くにおいて、世界は複雑性を縮減され、反復として現れる。しかし「完全なる反復」はありえない。それは死した世界である。だから反復と無垢(差異)はいつもある割合で現れる。そして現代は、未知に満ちた無垢の多くを反復へと開拓し、豊かさと安全を手に入れたのである。

もはや生死を心配する必要がない。豊かさと安全がついてるくる。求めていた究極がここにある。しかしここには、「何のために生きているのだろう」という問いが生まれくる。それが「無垢への欲望」であり、「ヘタレ化」である。




過剰流動社会という無垢の欠乏


たとえば、現代は過剰流動性の時代と言われる。かつてのように良い大学をでて、良い会社に入っても、先に何が起こるかわからない。大きな会社でも潰れるし、リストラされる時代である。それは先が見えないという未知の恐怖であると言える。しかし本当にそうだろうか。むしろボクたちが恐怖するのは、リストラされたあとに復帰することが困難であるということを知ってしまっている、そのような古い社会の体質=反復ではないだろうか。

たとえば、引きこもりの恐怖は、将来どのようになるかわからないという無垢への不安であるというよりも、引きこもりによって学歴を持たない人々が就職しても、社会的にどのような待遇を受けるか、あるいは引きこもり続けてもどのようになるのか、ということが「社会の反復」として見えてしまっていることではないだろうか。彼らは多くにおいて、無垢という可能性が閉ざされている、あるいは閉ざされているように感じているのである。




「本当の無垢」「無垢の幻想」


無垢とは「予測できない未知な外圧」である。未知なジャングルや予測不可能な事故などが、「本当の無垢」であるが、物質に満たされ、安全が確保された現代において、社会の中の「本当の無垢」は消失した。環境からの「本当の無垢」が開拓され、安全が確保されれば、まったりすればよいのではないのか、と思うが、それでも人々は強迫的に無垢を求めてしまうのである。

このような中で、多くの無垢は、「他者」によって生み出される。たとえばブランド品が無垢として作動しえるのは、そのブランド品をみなが欲望しているだろう「まなざし」によって、そこに到達すべき「無垢の幻想」が生まれるのである。

これは、広義の意味でのコミュニケーションである。他者は限りなく「私」でありながら、どこまでいっても「私」にはならない。人々は「無垢の幻想」を消費しながら、内部内部へ向かう。そして共有されたコンテクストが生み出されるが、そのブランド品は本当に欲望されているのか、本当に知ることはできないという、必ずコミュニケーションが失敗することによって、征服すべき「無垢の幻想」が生まれ続け、さらに内部内部へ向かうのである。




愛によって無垢を奪い合う人々


豊かさはテクノロジーによって支えられている。テクノロジーの発展とは人々が無垢を消費することであるから、消費されゆく残された無垢へ人々は押し寄せる、そして無垢の幻想を懸命に生産する。このように人々の無垢への欲望は強迫性を増していく。

仕事は男の戦場だ。子育ては女の戦場だ。受験は子供の戦場だ。ストリートは不良の戦場だ。これさえもはや過去のことなのだろうか。それでもみなが「生き生き」するために、無垢を欲望する。

無垢の奪い合いには、親子、友達、恋人だろうが容赦がない。親はまだ可能性という無垢を内在した子供を愛情という束縛によって、まるで自分の無垢のように、子供の無垢を搾取する。恋人たちは相手が誰であるかよりも、ドラマのような「恋愛関係」あるいはセックスなどの未体験という無垢を欲望し、搾取しあう。




「萌え」という「無垢の幻想」


帝国の幻想を夢見る人々がいて、もはや大きな政(マツリゴト)というは無垢は消失している。なにをしようが、だれがしようが、社会は変わらないし、豊かさはかわらない。だから小さくても流動的な方向へ、小さくても無垢の幻想が生産される方向へ、すなわち人々は「消費」へむかう。

それももはや生活必需品的な「大きな消費」に無垢の幻想は生まれにくい。流動性が高く、変化がはやいソフトな、情報の分野の消費にむかうのだ。ブランド品は良いだろう。もの自体はありきたりだが、他者への優越感を生む。優越感とはコミュニケーションである。テレビ、雑誌などのマスメディアを介した向こうにいるだろう「まなざし」の他者たちを羨み、羨まれるのである。

あるいは、オタクはもっと賢いかもしれない。オタクはマニアな消費だけでなく、二次創作により自ら小さな「無垢の幻想」を生みだし、消費しあう自給自足な人々だ。彼らは、多くにおいて、「予測できない未知」を内在する「幼稚」を、性という社会的に禁止される短絡によって、デフォルメして、女子高生、天然少女、ロリータ、アイドルなどの「萌え」という無垢の幻想を二次創作して遊ぶ。

だから「無垢の幻想」を自給自足できずに、生身の少女から無垢を搾取しようとする人たちは、本当のオタクではない。生身の少女を切り刻もうが、そこには「無垢」はなく、落胆するだけだ。それはアダルトビデオなどの商品としての性を消費する人々にも起こりがちなことだろう。商品としての性はデフォルメされた「エロ」であり、生身の女性とのセックスにはないのだ。




ネットという新世界(フロンティア)は、無数のコミュニケーションの失敗でできている。


このような流れの中に、ケータイ、ネットの爆発的な普及を位置づけることができるだろう。社会的なコミュニケーションにくらべて、ネットコミュニケーションには、「軽さ」がある。「軽さ」とは、物理的には距離を越えて瞬時に届くことであり、社会的には、匿名性であり、容易に離脱可能であることだ。この「軽さ」故に、応答性の早いコミュニケーションが可能になり、会話者たちは、社会的な拘束の儀礼から解放される。また「本音」を語りやすく、密なコミュニケーションを可能にする面もある。

ネットコミュニケーションは、その応答性の速さを達成しつつ、ベタレベルを懸命にコミュニケーションしようとする場もあれば、特に2ちゃんねるでは、コンテクストのすれ違いと、あえてすれ違いを演出するために、メタのメタへと高度に、複雑にすれ違いを演出し、無垢の幻想を捻りだし、遊ぶ。このようにネットコミュニケーションは、決してクリアーされず、たえず裏切られ、無垢を生み出し続ける「最高級なゲーム」なのである。

ネットにユーザー、クリエーター、プチクリを含め大挙して上陸し、新大陸(フロンティア)と言われている。ネットは電脳世界という物理的、空間的なイメージでいわれるが、ネットがフロンティアであるのは、他者とのコミュニケーションは必ず失敗するという無数の「無垢の幻想」が生産され続けるからである。




「帝国」という「無垢の幻想」


現代は、プロフェショナル(スペシャリスト)>エリート(ジェネラリスト)の構図がある。これはみごとにモダンからポストモダンへ対応してる。しかし当然この構図は古い。大きな物語=エリートは消失しつつある。それでもなおこの構図が作動し続けているように見えるのは、エリートが消失し、無垢が欠乏し、無垢に飢餓する人々によって、「無垢の幻想」として、延命しつづけているのである。

現代のマルチチュード「帝国」という幻と戦いながらいきる。差異化するための幻想の「帝国」、たとえばマスメディア、抵抗勢力、エイベックスなどがなければマルチチュード足りえない。自己組織化できなく、無垢が欠乏する恐怖である。まさに2ちゃんねる「祭り」が作られる構図である。

この流れは、自己責任、情報公開などのリバタリアン化でもある。幻の帝国に対抗するためにリバタリアン化するということで、マルチチュードという内部(コミュニタリズム)を作動させるというヘタレ化の構造であり、自由を唱いながら、内部を作動させるというネオリベネオコン)である。




なぜ無垢を欲望するのか?


無垢を欲望するのは、フロイト「快感原則の彼岸」に対応するだろう。本来、環境からの刺激(本当の無垢)を消費することで、刺激は低減され、安心としての快感は得られる。それに対して、人は安心に充足できずに、自ら刺激(無垢の幻想)を生産し、消費するのである。動物とは異なる人のこのような所作をヘーゲルは動物の「欲求」に対して、「欲望」と呼んだのである。

ではなぜ人は、安心に充足できずに、自ら刺激(無垢の幻想)を生産し、消費するのであろうか。これは主体の維持にかかっているのではないだろうか。群れの1個体、(偶有的存在)ではなく、「私」という単体(単体的存在)としての充実を求めるということだ。私とは他者からの応答、すなわちコミュニケーションなのである。その継続性を求めて、人は自ら刺激(無垢の幻想)を生産し、消費するのである。

主体がなぜコミュニケーションを行うのか、というと、根底的には他者が欲動の対象だからである。始源的他者としての母は、主体にとっては欲動の対象であり、その対象−他者が存在する時にのみ、欲動は喚起され、欲動の運動として原初的主体がそこに立ち現れる。主体があり、その上で他者があるのではなく、他者の場から主体は生じ、そこでは他者は主体に先行する。

通常のコミュニケーションにおいては、他者はこのレベルで登場するわけではない。・・・この他者の絶対性は、通常のコミュニケーションにおていも無縁ではなく、その深部に埋め込まれ、幻想という加工された構造を通じて作用する。

コミュニケーションと主体の意味作用 ラカン社会学入門」 樫村愛子 ISBN:4906388698

このように「ヘタレ化」とはいわば人間であること、あろうとする根元的なものであるが、現代においては、豊かさと安心によって、無垢が欠乏する故に、リストカットなどの自殺的行為など死をかけても、無垢を見いだそうとするようなところまで、強迫性が増しているのである。