ヘタレ化するポストモダン その1


1 なぜ「ヘタレ化するポストモダンなのか?」
2 動物化とヘタレ化のメビウスの輪
3 ヘタレマップ
4 ヘタレサイクル
5 「もはや事件に会議室も、現場もないんだ!」
6 無垢欠乏の時代
7 ヘタレたち
8 ヘタレたち2
9 ヘタレはネットで覚醒する
10 サルでもできるヘタレ化




1 なぜ「ヘタレ化するポストモダンなのか?」

「動物」になりきれない「ヘタレ」たち


「限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司北田暁大(2005)ISBN:490246506Xhttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051027)の中の以下の分類は大変興味深いと思います。

第一層 「動物」  環境管理のテクノロジーによって与えられる動物的生に充足する人たち。

第二層 「エリート」  環境管理的なシステムそのものに懐疑の目を差し向ける人たち。

第三層 「ヘタレ」  意味を欠いた動物的生の反復に飽きたらずに「全体性」を希求する人たち。

動物化は、東浩紀動物化するポストモダン(2001)ISBN:4061495755、有名になりましたが、宮台はサイファ 覚醒せよ!」(2000)ISBN:448086329X*1動物化してまったり生きることの難しさに言及し、北田はこのような「ヘタレ」の動向に注目しています。そしてボクも「動物」になりきれない「ヘタレ」たちに興味があり、「収束するポストモダン*2として、言及してきました。

過剰流動的で万物が入れ替え可能な社会。したがって、そこにいるだけで自分の輪郭も位置もわからない社会。そういう社会に人は耐えられないのではないか。動物化しきれない人は「<世界>との接触を渇望するのではないか。動物化が生じた社会では、突発的に全体性への危険な志向が生じる可能性がある−ウルトラマンジャミラみたいに人間が怪物化して降臨する(宮台)

動物化あるいは社会学的にいうところの機能分化が進めば進むほど、同時に「人間的なもの」への欲求が過剰に噴出していく。・・・第三の層は一見、システムを批判する第二の層と似ているようにみえるけれども、じつはかなり違う。想定しているのは、2ちゃんねる嫌韓厨や、社会という媒介をスルーして世界と私を短絡するセカイ系などです。彼らは行為の様式としてはきわめて「動物的」でありながら、自意識のレベルではみずからの人間性と信じて疑わない。(北田)




データーベース型「動物」


2ちゃんの活用には2種類あると言われています。ひとつはもくもくと情報交換を行う「データベース型スレッド」です。たとえば家電板など行くとメーカーごと機種ごとにスレッドがあり、情報が書き込まれています。さらにはそれかまとめホームページにリンクされていたりしてかなり有用です。このようなカテゴライズは芸能人からHの趣味、法律問題まであります。このようにまたーり、情報収集、交換により自分なりデータベース作成にいそしむのは、「動物的」といえるでしょう。




強迫的アイロニスト「ヘタレ」


もうひとつぱ「繋がり型」です。雑談スレがありますが、それだけではなく、どのスレでもつながりの欲望がみられます。たとえはアンチの存在です。あるスレッドが盛り上がっている、内部として作動しているほど、アンチは出現します。これをファンとアンチのコンテクストの闘争と単純にみてはいけないでしょう。

たとえば浜崎あゆみファンスレッドにアンチ「あゆ」があらわれる。彼らはファンの熱狂がイタいから、「あゆ」なんかどうでも良いが、「あえて」アンチのふりをしてからかっているんだ、といいます。このアイロニカルはまさに2ちゃんねらーの特徴ですが、宮台はこれを「強迫的アイロニズムと呼び、「ヘタレ」だと呼びます。

2ちゃんねらーの大半は「ズラす振る舞い」にオブセッシブ(強迫的)で、「ズラす自分から自覚的にズレる振る舞い」には鈍感です。自己適用を欠いたアイロニストを、僕は「オブセッシブ(強迫的)なアイロニスト」と読んでいますが、三島が「高度のアイロニスト」だとすると、「オブセッシブ(強迫的)なアイロニスト」とは、「低度のアイロニスト」だといえるでしょう。(宮台)

「コンプレックスに浸された『困ったちゃん』がオブセッシブ(強迫的)な梯子はずし」に勤しむことで、 「自己目的的なコミュニケーションの接続」の閉じを見せる。それが頭の悪い2ちゃん野郎の恥ずかしさです。この手の輩を頽落といわずして、なにをか頽落といわん(笑)。この頽落を、文脈依存性への鈍感さとして語ることもできます。・・・たしかに、対象をズラすて距離化したがる点では、いまの若い人たちはアイロニカルな戯れが好きになったような見えます。でもそうした動機を支えるオブセッシブ(強迫的)な社会的文脈については鈍感です。だから、ズラす自分からズレることができず、自分をズラそうとする他者に対して過剰に防衛的になる。はたから見ると、そのヘタレぶりは恥ずかしいほど明確です。(宮台)

いまどきの若い連中は、アイロニカルに見えるし、何かにつけて距離化し、相対化しています。でも、ズラす自分からズレることができない。「終わりなき再帰性の渦巻きに巻き込まれてオブセッシブになっている。・・・「お前らの振る舞いはすべて自己防衛的な動機に基づく強迫で、軽がるしく浮遊しているようでありながら、実は重い。重くて重くてたまらない。お前らはさみしさを退屈と読み替えるヘタレだらけ。相対化を自由と読み替えるヘタレだらけ。本当は自由にコミットメントしたいくせに」といえば、高偏差値女子高生なんてコロコロ引っかかるんですよ。(宮台)

すなわちアンチはアイロカルに振る舞いメタ位置を確保しているようにみえて、ファンと一緒になって、「あゆ」という内部の形成を、そして繋がりを欲望しています。「あえて」アンチというアイロニカルな位置取りそのものが、「あゆ」という内部の一部であろうとしている、ということです。

結局、アンチの方が「あゆ」に詳しいということがよくありますが、しかし彼らが本当は「あゆ」の隠れファンではないのか、と考えるのもまた違うように思います。2ちゃんねるはこのような「強迫的アイロニズムにあふれていますが、そのときに対象はなんでもよい、反応して、内部として作動し、繋がりが感じられれば良いのです。




強迫的アイロニズムによる「繋がりの社会性」


このように2ちゃんねるでは日夜ヘタレによる「強迫的アイロニズムによる淋しさの埋め合いがおこなわれています。その先にあるのが、「祭り」というつながりへの熱狂でしょう。「祭り」がは起こりやすい状況には、対象がだれにとっても「外部」である場合が多いように思います。それはたとえば、ワールドカップならば、相手国を外部として、文句なくみな日本を応援するだろう、というようなことです。嫌韓、あるいはマスメディア、エイベックス、イラク人質。これは2ちゃんねると相対化された外部であるということがわかりやすいことによって、より多くの人がコンテクストを共有する仲間だということを感じることができます。最近の右翼傾向も、このような超越的な位置に外部を見いだし、内部を作動させたいという欲望です。たとえば、電車男ではエルメスを外部として作動させ、「おまいら」を作動させました。

ブログにおいても最近ムラ社会モヒカン族の対立がありますが、ここにも同様な強迫的アイロニズムの構造が働いていると言えるでしょう。モヒカン族の理念は、「サイバーリバタリアン自由至上主義)」のようなことでしょうが、アンチムラ社会の位置に立った時点で、ヘタレな強迫的アイロニズムによる「繋がりの社会性」が上昇しています。

若者のコミュニケーションは希薄化どころか、むしろ奇妙なまでに濃密化する方向製をとっている・・・たしかに他者と価値観を共有するという意味でも「社会性」−秩序の社会性−への欲求は弱まってきているように思える。しかし、空気を読む「社会性」といっていいのかわかりませんが、首尾よく他者とのコミュニケーションを継続していくという意味での「社会性」−つながりの社会性−への欲求は、息苦しいまでに上昇しているのではないか。(北田)




教養主義的、戦略的アイロニズム


宮台は良いアイロニズムと悪いアイロニズムがあり、それは強迫的か、非強迫的かの違いだ、といいます。強迫的とはアンチでありながら結局内部、つながりをめざさずにはおれない、ということでしょう。それに対して非強迫的は自由で軽く、いつでも「参入離脱」可能であると、いうことです。そのためには、「教養」を身につけて、たえず自分の立ち位置を相対化しつづけること、そしてそのような位置を戦略的に構築していく必要がある。すなわち教養主義的、戦略的アイロニズムが高級なアイロニズムである、ということです。

教養とはズレることで、批評とはズラずことだからです。・・・僕らはズラす自分からズレるのに対して、後続世代はひたすらズラそうとするばかり。・・・後期新人類世代以降は、ズラす自分からズレることができないので、永久にズラすことを強迫される、不自由な連中に見えます。対象を距離化する自分自身を距離化することができない、オブセッシブ(強迫的)な連中に見えます。・・・その象徴が2ちゃんねる的なものですね。(宮台)

若い人たちにベタに伝えようとしているのは、距離を取ることはすこしも自由にはつながらないということです。没入する自由−それこそがアイロニカルに没入する自由−もあるんです。課題は、距離化ではなく、没入も自在・距離化も自在という自由なんです。(宮台)




強迫的になることから逆らい続ける強迫性


アイロニズムとは、対象のメタ位置という外部へ外部へと向かう運動で、デリダ脱構築と同じ動きです。それ故に強迫的になることから、絶えず逆らい続ける強度が求められます。そのために教養と戦略が必要である、ということでしょう。デリダは徹底のあまりデリダという自己同一性自体もズラしたいと願いました。しかしここまでくるとジジェクの言う神経症的振る舞いです。このような過剰性はむしろ反転して自己同一性への欲望を感じます。強迫的になることから、絶えず逆らい続ける強迫性、とでもいうようなことです。

ボクは以前からデリダもかならず恋をする」といい脱構築、アイロニカルの継続の困難を語ってきました。*3そもそもアイロニズムロマン主義と裏腹なのです。そもそも「主体」という存在、「私である」ということが、強迫的であり神経症的であるのです。だから宮台のいう強迫的であるか、非強迫的であるかは裏腹である、と思います。ボクは、このような強迫性から逃れることは、「忘却」=(物理的な)エントロピーの増大しかない、といいました。それぐらい「強迫性から自由でいること」は困難であるということです。




ヘタレの非強迫的アイロニーなしたたかさ


さらに強迫的アイロニズムには別の面があると思います。そんなに繋がりたいなら、なぜ身近な家族などをめざさないのか、という疑問です。ひとつには社会的に近すぎると、すでに社会的なコンテクスに拘束されている、というのがあります。「父と子」という社会的、儀礼的関係があり、「腹をわってはなせない」「あらたな若い価値観をわかってもらえない」というようなことです。それに比べて、ネットなら価値がデータベース化されており、容易に価値の近い人々とつながることができます。

さらにネットの特徴は「参入離脱」が容易であることです。ここは違うと思えば、アクセスするのをやめれば良いだけです。社会的関係のようにその後、合うこともありません。現代のように過剰流動性を生きるには、いくつかのコンテクストを使い分ける多面性と、古くなったコンテクストから容易に離脱可能である参入離脱性が望まれます。

だから宮台のいうヘタレは強迫的だから離脱が難しい、というとは違い、ヘタレは場の空気を読むことに敏感です。いつまでも対象に没入しすぎると、いつのまにか外部に排除されしまいます。その場その場はは、強迫的に見えても、たえずどこからに非強迫的アイロニーを残し、潮時を見極めようとする、なかなかずるがしこい面があるのです。2ちゃんねるの祭りが熱しやすく冷めやすいのもそのためです。

確かにヘタレは、宮台がいようなエリート的な、教養主義的、戦略的アイロニーは持ち合わせておらず、その場その場ののりで蠢くウイルスのような存在ですが、それ故に、コンテクストに敏感で、場の空気をたえず読みしたたかに振る舞う面があるのです。

ポピュリズムの怖さやしたたかさ、不健全さとパワーととことん真摯に受け止めるのがマキャベリストである、といえるでしょう。・・・私はマキャベリズムの実行や涵養を、第一義的な課題とするつもりはないんですね。社会的な意味論の次元では、もはや「操縦する側/される側」という区別は失効している、という前提から、私は言語戦略を考えます。(北田)




2 動物化とヘタレ化のメビウスの輪

快楽のデーターベース化


「ヘタレ化」を語るときに、避けては通れないのが、動物化である。東の動物化では、テクノロジーの発展が決定的な意味をもつ。

【東】 僕はすべての根幹には「工学的な知」の問題があると思うんです。産業革命以降、私たちの世界では工学的な知の重要性がどんどん上昇している。この二世紀のあいだ世界を変えたのは、実は文学部でも理学部でもない、工学部の力だったんですよ。そしてその力はいまも拡張し続けている。経済学は金融のエンジニアリングになってしまっているし、ヒトゲノムのデータベースが整備されれば、医療もエンジニアリングになっていくでしょう。脳科学認知科学が進んでいけば、私たちの意志や信念もエンジニアリング的に説明されていく可能性がある。実際、薬物や洗脳の問題というのは、まさに私たちの脳が工学的に操作可能だから起きるわけです。

社会のデータベース化や主体の動物化という現象は、実はこういう変化の果てに生じているわけ、・・・だから僕は、それはもう止められないと思う。・・・その工学的で動物的な世界のなかでは、データベースから抽出されたシミュラークルを次から次へと交換することでなんとなく生きていく人々が大多数を占める。

宮台・東対談 〜『動物化するポストモダン』を読む〜 http://www.miyadai.com/texts/animalize/

動物化」を可能にするのが、テクノロジーによる高速な「反復」である。「反復」はデーターベース化され、思考よりも速く、生理的な快楽へ直結し、快楽を与えていく。

たとえば、かつては性的な経験は、容易に得られなかったために、日々もんもんと想像した。それが情報化され、データーベース化され、欲しいエロ画像、エロ動画が容易に手にはいるようになる。まだまだ生身のセックスを再現するには物理的な制約が存在するだろうが、物理的制約を最小限に止めて、すべてをデータ化して、反復することを可能にした。

今でも、童貞は生身の女性を欲望するだろうが、かつての童貞とは違い、ただ想像の世界ではなく、情報の世界で様々な経験をするのである。もはや、情報世界の中では、空も飛べれば、かわいい女の子を思い通りに操ることもできるし、大金持ちにもなれ、人を殺すことも容易な、限りなく「自由な世界」が、反復されるのである。




ヘタレは「汚物」へ向かう


たとえば、ポップミュージックは、限られた音とリズムでできており、似たような曲がたくさんある。だから人が快楽するフレーズをデーターベース化して、供給すればよいように思う。しかし計算して、ヒット曲を出すことがむずかしい。それは、計算されたものからズレたものを人々が要求するからである。

そして、そのようなズレたものは、醜悪である。たとえば、かつてロックミュージックはうるさいだけの騒音と言われ、プレスリーは悪魔の音楽と言われた。そこには、ボクが「汚物」と呼んだ過剰性がある。それが、人間の欲望の特性である。かつての誰が、倖田來未のようなストリッパーまがいの腰ふり女のアルバムが100万枚のヒットになると、考えただろうか。(ボクも買ったわけだが・・・)

人の欲望の過剰性は、テクノロジーの応答性に還元された反復からズレていく。そしてテクノロジーは、日々そのズレを追いかける。なぜ資本主義社会は、物質的に満たされても、自分たちの住む環境を破壊し、まるで自滅の道を進むように、暴走するのか、の答えはここにある。

現代の情報化は、この欲望のズレへの対応速度が上がることによって、動物化が進む。しかしズレによって、「ヘタレ化」も加速させている。

欲望する→テクノロジーが発達する→テクノロジーが欲望においつき、動物化する→満足から欲望がズレていく→より過剰に欲望する=ヘタレ化する→(循環)




動物化とヘタレ化のメビウスの輪


このようなズレは単なる刺激の差異ではない。刺激のズレへの対応はテクノロジーのもっとも得意のするところである。そうではなくて、テクノロジーの反復ではこぼれていくものとは意味の次元である。テクノロジーの高速化を可能にしているのは、「なんのために」と問う意味の次元を排除し、ただ反復するからである。

この点を宮台は的確に指摘している。

【東】 僕は・・・「萌え」と呼んでいるわけですね。パターン認識の訓練だけで、猫耳でもいいし「シャネル」でもいいけど、ある記号を見た瞬間に勝手にドーパミンが出るようになってしまった消費者がいまや大量に存在している。それをどう扱ったらよいのか。これはいままでの社会は考えてきていない。スノッブな消費者は、記号的差異に対して意識的に反応していた。けれども動物化しデータベース化してしまった消費者は、記号的差異に身体的に反応してしまうわけですよ。これはやはり以前とは違うでしょう。

【宮台】 エンジニアリング的思考と人間的営みとは──認知科学的な外的視点と文科系的な内的視点とは──表を辿ると裏に回り裏を辿ると表に回るメビウスの輪の関係になるしかなく、どちらかだけでは一貫できません。

流動性の中で不安定な状態にある者が、そうやって安定化するプロセスでは「幸せ感」が上がるけれど、一旦安定化すると、今度は急速に不幸せになっていく。死んでいるのか生きているのか分からない感じになるからです。・・・今は猫耳でいいけど、いつまで猫耳でやっていられるのかという問題ですね。猫耳の後は、豚の尻尾とかいって(笑)、三つ四つ移動しているうちに死ねるとしたら、それでいいのかもしれないけど、現に僕はそうやって移動すること自体ダルくなっちゃった。

宮台・東対談 〜『動物化するポストモダン』を読む〜 http://www.miyadai.com/texts/animalize/

動物化によって人は反射的な「幸せ」に入っていくが、それだけでは充足できずに、ダルくなり、「強迫的」に欲望を加速させるのが、「ヘタレ化」というわけだ。

そして意味の次元が、「汚物」であるのは、究極的には「私の意味」へ繋がるからだ。テクノロジーが発達し、高速な反射が、欲望を満足しつづけ、動物化していくと、意味が消失し、そこに虚無感が生まれる。そして反動として、「私は誰?なんのために生きているの?」が求められる。それには答えがない故に、過剰なのであり、「汚物」なのである。現代はこのテクノロジー「ヘタレ化」の競争が過剰になっている故に、現代のヘタレはいつも過剰なのである。




3 ヘタレマップ

「極プチクリ

昨日の『爆笑問題のススメ』は、岡田斗司夫さんのプチクリのススメ」でした。プチクリとはプチクリエイター」のことで、簡単に言えば、プロを志向しないクリエイターのことでしょうか。たとえば、野球が好きだとする。ここで、プロ野球の選手になりたい」と志向すれば、1000人に999人は“才能”の壁にぶち当たり挫折して苦い人生を歩むことになる。だから、プロ野球の選手」を目指すのではなくて、ただの「野球好き」でいいじゃないかというのがプチクリ

R行軍記 http://kude.exblog.jp/3706039

ボクもこの番組を見ていた。インディーズ、オタクの二次創作、コスプレ、そしてブログなどなどあるなかで、いまさらプチクリかな、と思った。むしろ時代は「極プチクリではないだろうか。




反復(フィードバック)速度と動物化


「なぜ動物化とヘタレ化はメビウスの輪なのか? <ヘタレ化するポストモダン その2>」*4で、動物化とテクノロジーの反復(フィードバック)速度の関係を示した。たとえば、コンビニによって便利になり、僕たちは24時間ほしいものがすみやかに手にはいるようになった。さらに反復速度が向上し、家にいながらにほしいものが手に入ればどうだろうか。いま、「カールチーズ味」がほしいと思うと、数分で届くのである。これに近いものはすでにデリバリーシステムとしてあるし、商品が情報ならばすでにネットで実現されている。その配達が、コンビニ並の品揃えが、低価格で行われると、僕たちはさらに動物化していくだろう。

テクノロジーの向上を、不自由を低減するための反復(フィードバック)速度と考えると、消費における満足は、以下のように向上してきていると考えることができるだろう。

機能製品(家電製品など)→多様化(娯楽全般、映画、テレビなど)→高付加価値品(ブランド品など)→インタラクティブ製品(ゲームなど)

貧困の時代から、大量生産の時代によって、ものが安価に手に入るようになった。まず普及したのが、機能性を向上させる、すなわち便利な商品である。車は移動を素早くし、家電製品は生活を豊かにした。そしてあまった時間、あまったお金を使うための娯楽商品である。

さらには情報社会において、ゲームなど、インテリゼンスを持った、インタラクティブな製品が供給されて満足を満たしている。この先には究極的に、ヴァーチャルリアリティや、遺伝子工学が駆使され、すべての欲求が満たされ、「動物」として満足するマトリクス的な世界が達成されるかもしれない。





プチクリ


しかしそれほど単純ではない。消費だけでは、満足することはできない。たとえば、オタクは、消費だけでなく、自らアニメなどの二次創作を行うことに楽しみを見いだしている。ただ選択し消費するよりも、自分で作る出す方が労力がかかるにも関わらず、その労力を楽しむのである。

ここにある、困難(不自由)を求める行為はなんあるか。それは、動物的な欲求ではない、高次な満足としての欲望である。欲望とは、自己承認である。たとえば、芸術は、貧困であっても、創作される。それは将来の成功のためということでは、説明できない強い欲求である。それは、他にどこにもない、自分だけのものということであり、自分の存在証明のような欲求である。そこには不自由をあえて作るという意味でのクリエイティビティ(創造性)がある。

芸術、開発というほどの高いクリエイティビティーの困難、労力でなく、より低い困難によって楽しむのが、プチクリだろう。それは現状においても、様々な分野で行われている。音楽ではアマチュアバンド、インディーズなどから、趣味としてのサブカル、そしてオタクの二次創作、あるいはコスプレを楽しむなど。

さらにプチクリを加速させているのが、ネットである。ネットという公開の場の存在が、「まなざしの快楽」として、欲望を想起している。ブログも、評論家もどき、知識人もどきなプチクリとして機能しているだろう。




高速化するプチクリ


現代はさらには、労力がかからず、困難性が低いクリエイトが楽しまれている。ボクはかつて女子高生の携帯であり、そのストラップが彼女の個性の表現の場になっていると言った。商品が多様化する中で、なにを選択するかということが、「より小さなクリエイティブ」として働ている。それが、ショッピングの楽しさであり、ブランド品へはまることも同じような欲望だろう。

さらには、アイドルヲタなども同様であり、だれのファンであり、どの程度のめり込んでいるか、など、マニア的な選択、収集も、「小さなクリエイティブ」「極プチクリとでも呼ぶべきものだろう。

そして現代の特徴は、情報化によって、反復(フィードバック)速度が増すことによって、流行り廃りが加速しているのである。ボクはそれを「マイフェイバリットからマイブームへ」といった。好きであるということがマイフェイバリットという一生に一度であったものが、マイブームという短期的なものへ変化しているのである。このような流行りの加速が、クリエイティブからプチクリへ、そして「極プチクリへと、より離脱可能な傾向へ向かっていると言えるかもしれない。




2ちゃんねる、ケータイな「極プチクリ


さらにボクはこのような「極プチクリとして、ケータイ、2ちゃんねるなどのネットコミュニケーションをあげることができると考えている。コミュニケーションはコミュニケーションそのものに不自由性が含まれているのである。その中で、ネットコミュニケーションは、非対面性、匿名性などの「軽さ」と、テクノロジーとしての反復(フィードバック)速度の向上によって、ゲーム化しているのである。

ケータイや2ちゃんねるが、コミュニケーションそのものを楽しむために行われるというのは、そのような意味である。そしてこのようなネットコミュニケーションでは、レス自体に小さなクリエイティブが求められる。たとえば2ちゃんねるの会話がアイロニカルであるのは、衝突しやすいネットコミュニケーションを、あえてズラすことで回避する方法であるとともに、ベタな返しを転倒するユーモアーでもある。そこには、「小さなクリエイティブ」が求められる「遊び」なのである。

ネットコミュニケーションにおいて、究極的なものが「祭り」である。高速化したレスのやり取りでによって、場全体として、盛り上がりという刺激を生む。そこでももはや、「極プチクリから、動物的な反復の生理的な快楽と、全体が内部として作動する帰属という承認の快楽とが入り交じった快楽へ繋がっているだろう。




「極プチクリなヘタレ化


現代のテクノロジーの発達が反復(フィードバック)速度の加速させ、消費は自己承認的な満足から、生理的な快楽によって満足する傾向、動物化へと向かっている。それは、クリエイティブな自己承認への困難に向かうだけの飢餓感であり、情熱がもてない傾向が広がっている。このような困難への情熱の欠如として、その典型として、引きこもり、ニートなどが上げられることができるだろう。

その反面、時として、2ちゃんねるなどで見られるような、動物化との混合した「極プチクリの反復と形で、ロマン主義的」あるい「没入」と呼ばれるような強迫的な満足がめざされている。それが「ヘタレ化」だろう。




4 ヘタレサイクル

「プロフェッショナル」という倫理


ボクは倫理のテーゼとして「健全」な無垢の欲望に「健全」な精神は宿る」と示しました。

彼らに無垢が欠乏しているのは、わかる。しかし無垢は「健全に」消費しなければならない。そして無垢の健全な消費は無垢を消費する「体力」との関係があるだろう。簡単には、素人がいきなり難解な哲学書を読んでも寝てしまうだろう。入門書などから、小さな無垢から、そして無垢を消費する「体力」を付けていくのだ。それが、「健全な無垢の消費」である。

動物化した人々は、単に刺激的な無垢を求めるために、「体力」が付かないのだ。だから、そのような動物的な無垢に満足できなくなったときに、体力、経験がない人々は、無謀に強迫的に、イラクへ旅発ち、盗んだバイクで走り出してしまうのだろう。それでなくても人は、無垢への強迫性を持っているのだから。「健全」な無垢への消費によって、「人間」として「健全性」が保たれるのだ。

なぜ「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿るのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051113

これらに関係することとして、今までに以下のように言いってきました。

「真実」は自己組織的な生きものである。それはいわば誰にもコントロールできないところにあり、やがて「忘却」していく。デリタが脱構築は、正義である」というときには、「暴露」、あるいは「郵便的」に意味があるのではなく、「継続」において意味がある。「継続」は、「忘却」されないために、「暴露」の注入、「郵便的」な複数化が必要とされるとという意味で、脱構築には意味がある。

この「継続」の力の源は欲望であり、欲望とは、自己完結的なものではなく、「欲望とは「(現実界の)他者」への欲望である。」から、欲望とは他者へのコミュニケーションであり、ここからデリダ的、柄谷的「他者」の声に耳を傾けつづけるという倫理観が現われる。

「真実」について、議論され、反論され、他者と関係し続けるという「忘却」へ抵抗していくという欲望の「継続」が、「正義」である。ある対象が正しいと考え、発言し、議論し続けるいう欲望の「継続」「正義」である。ここにラカンの倫理観「己の欲望に譲歩するな」が現われる。

「継続」脱構築のような知識を必要としない。「正義」権威主義的特権性から解放されるだろう。求められるのは知識でなく、「継続」する強度である。

なぜ「継続」こそが「正義」なのか? その3 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050617

ポストモダ社会で、拡散する主体像は、「オタク化」という収束に向かっています。もはや大きな無垢が消失した社会では、無垢への欲望は、局部へ向かうしかありません。このような「オタク化」は、社会的に前面化している傾向であるといえるでしょう。

このような問題への解答として、踊る大捜査線には生き生きした「プロフェッショナル」な主体像がしめされています。「プロフェッショナル」とは、警察官僚のような会社人間とは違います。組織への忠誠よりも、自分の仕事にプライドを持ちます。また自分の分野に固執するオタク傾向ですが、犯人達のように自己満足に埋没することなく、社会正義を重視します。またかつての職人との異なるのは、仕事だけでは生きていけないことをしり、社会生活であり、家庭も大切にする「普通の人」です。閉じた組織内のまなざしよりも、より大きい社会的なまなざしに開かれているという、現代的な一つの倫理的な主体像として描かれています。

しかし「プロフェショナル」であるということは楽ではありません。日常の基本は、地味な反復の繰り返しです。また最近、元プロ野球選手が引退後に、野球しか知らないと社会に適用できずに、犯罪でつかまりましたが、現代のメタメタな世界では、一つの価値に固執することは、危険であり、怖いことです。そのために一人、地味に孤独さに絶え続ける強度が求められるのです。そしてこの強度に耐えられず、「悪い」オタクへの転倒は容易に起こりえるのです。

そのような孤独の中にいながら、笑っているという「プロフェッショナル」な倫理的な主体像である故に、踊る大捜査線の登場人物たちは「愛すべき人々」なのではないでしょうか。

「プロフェッショナル」はなぜカッコいいのか? 映画交渉人 真下正義 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050530

ボクは、「消費(動物的快感の反復) − 極プチクリ2ちゃんねるなど) − プチクリ(オタクの二次製作、ブログ) − クリエーター」という構造を示している。

なぜ「極プチクリなのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051103

消費がテクノロジーによって高速化し動物化する。それに引きずられることによって、クリエーターは即時的な、プチクリ→極プチクリへ向かっている。ヘタレとは、動物へと引きずられ、即時的に無垢を欲望してしまう人々である。その意味で、「プロフェッショナル」とはクリエーターの向こうにある。動物的な高速化への引きこまれずに「継続」し続ける人々である。

「健全」な無垢の欲望に「健全」な精神は宿る」とは、動物的な高速化への引きこまれずに「継続」せよ。ということである。そしてその強度によって、「本当の無垢」へ開き続ける、ということです。




「ヘタレサイクル」を転がせ!

しかし、先に示したように、二つの論点を考える考える必要があります。*5

さきの「プロフェッショナル」「本当の無垢」へ開き続けることを「継続」せよ。は、?「健全性」とは、人は、「処世的な開かれ」から逃れられない故に、ラカンデリダ的な「倫理的な開かれ」へトライし続ける努力ということになる。

しかしまた異なるところもあります。それは、現代では、処世的であろうが、倫理的であろうが、「開かれ」自体が、困難になっていること、欲望自体が消失していることも問題ししているということです。

?欲求によって反射的に動く、充足するのでなく、欲望しよう。豊かさと安心の中で、与えられるだけの脱社会的にならずに、自分に見合った無垢を見いだし、欲望しようということ。

すなわち、動物的に拘束に充足される社会において、「プロフェッショナル」であれというのは、高い強度を求められるすぎる。そのために、強度に耐えられずに動物化に落ちていく、ということだ。だから、「自分に見合った無垢」を見いだせ。

<消費(動物的快感の反復)> − <極プチクリ2ちゃんねるなど)> − <プチクリ(オタクの二次製作、ブログ)> − <クリエーター> − <プロフェッショナル>

自分なりに、プロフェッショナルへ目指せ。あるいは、「分散せよ」ということだ。仕事でプロフェッショナルでありつつ、趣味でプチクリであり、消費も楽しむ、というようなバランスである。これを「ヘタレサイクル」と呼ぼう。

たとえば動物がベタなら、プロは教養的、戦略的アイロニーにより最もメタな位置にいる。しかし高速化のなかで変化が早く、プロの位置は確保されなくなっている。その意味でもヘタレサイクルを回すことは避けられないだろう。

そして宮台こそがかつてヘタレサイクルを見事に回してみせ、その有用性を示したではないだろうか。コギャル分析はプロの仕事とともに、ヘタレとして楽しんだ故にリアリティを勝ちえたのではなかったか。宮台の最近の閉塞は、プロの位置にどどまり、「ヘタレサイクル」を回せないことではないだろうか。

踊る大捜査線の真下の魅力は、オタクであるがプロであり、プロであるがオタクであるという「ヘタレサイクル」においてなのだ。

ここで、倫理的な「本当の無垢」とは、他者性である、ということだ。よってこれは、正義の位置も指し示すと、言える。すなわち、

動物化>=他者がない − <ヘタレ(極プチ、プチクリ)>=他者を外部に閉じる。(処世的な開かれ)− <プロフェッショナル(クリエーター)>=他者に開かれる(倫理的な開かれ)

他者への開かれを分散せよ。自分を守るためには、無理に他者に開かず、閉じることも大切であるが、窒息しないように開くことも忘れるな。ということである。




5 「もはや事件に会議室も、現場もないんだ!」

「もはや事件に会議室とか、現場とかないんだ!」


踊る大捜査線で、「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」というとき、それはプロフェッショナルな宣言である。そしてここには会議室(エリート)/現場(プロフェッショナル)の対立がある。

これは、「限界の思考」ISBN:490246506X、宮台と北田の対立に繋がる。宮台のエリート主義に対して、北田は、「もはや事件に会議室とか、現場とかないんだ!」というである。

宮台 言説の真の影響力とはそんなもので、ピンポイントからピンポイントにおよぶものにすぎません。・・・僕の活動はピンポイントの影響を目指すもので、多段的広がりを目指さない。・・・簡単にいえばエリート主義です。人びとに反省を広げるといったミクロ主義なやり方では、どうにもならない。・・・マクロなアーキテクチャーをつくる影響力のある少数の人々に、ピンポイントで語りかける。

北田 「操縦する側」責任倫理が実効性を持つには、操縦する側/される側という区別が意味を持つような社会状況が、存在していなければならない。現代の日本がそのような社会状況にあるのかどうか、ということが問題です。・・・高い社会的流動性共同体主義とが奇妙な結婚を実現している社会空間では、宮台さんがめざされているようなマキャベリズムを実現するのは、かなり困難であると私は思うのです。・・・エリート倫理の啓蒙につとめるよりも、「よりよいポピュリズムを目指していったほうが「手っ取り早い」のではないか、と私は考えます。

ポピュリズムの怖さやしたたかさ、不健全さとパワーととことん真摯に受け止めるのがマキャベリストである、といえるでしょう。・・・私はマキャベリズムの実行や涵養を、第一義的な課題とするつもりはないんですね。社会的な意味論の次元では、もはや「操縦する側/される側」という区別は失効している、という前提から、私は言語戦略を考えます。

[お勉強]限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司北田暁大(2005) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051027

かつてはエリート/ヘタレ(あるいはプロフェッショナル)の対立があったときは、エリートへの対抗において、ヘタレはヘタレたりえたのである。

北田 七〇年代から八〇年代の言説状況を考えるとき、マルクス主義という巨大な参照項が、否定されるにせよ肯定されるにせよ、かろうじて残っていたということは重要ですね。・・・何を基準にして、自分らが議論をいけばいいのかわからない。それが、たとえば単純に依拠する準拠先というものではなく、否定すべき的であってもいいのに。とにかく、そういう参照項が消えてしまっているんです。・・・一部のネット住人や自称「保守」主義者たちは、無理にでも「反発すべき大人」や否定の対象を作り出しているわけで、・・・参照項なき時代を与件として、ものを考えていかなければならない、ということです。

[お勉強]限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司北田暁大(2005) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051027

そしてボクが、「「ヘタレサイクル」を転がせ!」というときに、エリート(否定の対象)消失後に、強迫的に動物化、そしてヘタレ化しないように、という戦略である。仕事でプロフェッショナルでありつつ、趣味でプチクリであり、消費も楽しむ、というようなバランスを取る必要があると、いうことだ。

ヘタレサイクル

<消費(動物的快感の反復)> − <極プチクリ2ちゃんねるなど)> − <プチクリ(オタクの二次製作、ブログ)> − <クリエーター> − <プロフェッショナル>



エリート/ヘタレ(プロフェッショナル)の演出というヘタレ化


そのような意味では、踊る大捜査線は、警察という古い権力機構だから、「プロフェッショナルとエリートの対立」がリアリティをもってなりたっているのであり、そこには、かつての二項対立という古き良き時代への懐古的な人気がある。

たとえば、ライブドアとフジテレビでは、ホリエモン支持は、プロフェッショナル/エリートの構造でのエリート嫌悪が演出されていたのではないでしょうか。現在の楽天とTBSでは、この構造の演出が不十分のような気がする。今までの言動から三木谷社長はプロフェッショナルというよりも、もはやエリートであり、大衆の支持が得られていないのだろう。

また驚くことに、超エリート(ゼネラリスト)のはずの小泉首相支持では、抵抗勢力=エリートと小泉側=プロフェッショナル、(竹中大臣をイメージとして)構造改革をテクニカルに進める人々の対立が演出されている。

のまネコ問題でも、エイベックスはエリート、2ちゃんねるはプロフェッショナルが演出され、エイベックス自身は自分たちもプロフェッショナルだと主張しているだろう。

あるいは、ネグリ&ハートの「帝国」ISBN:4753102246「帝国」マルチチュードにおいて、同様の構造が演出されているし、isedで語られる「環境管理権力」では、もはや「ビックブラザー」はいなく、「リトルブラザー」だけだ、と言いながら、全体の空気として「ビックブラザー」=エリートとised=プロフェッショナル的な構図が逃れられないでいるように思う。

このような二項対立による「無垢の幻想」の幻想と、エリート(ゼネラリスト)嫌悪とプロフェッショナル支持が、エリートという大きな物語消失後の「ヘタレ化」なのである。

そして「ヘタレサイクル」が、複雑化、高速化する社会において、「健全」な無垢の欲望に「健全」な精神は宿る」実践的な方法なのである。

続く
[まとめ] ヘタレ化するポストモダン その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051130#p1

*1:なぜ宮台は「世界」の中心で「魂」と叫ぶのか 宮台真司サイファ 覚醒せよ!」 <収束するポストモダン その5> http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050502

*2:http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050306

*3:なぜ「ネオ自然主義」なのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050822

*4:http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051031

*5:なぜ「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿るのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051113