なぜブログを書くということは「愛」を語ることなのか? チンコ太郎への手紙
あれはボクが小学生の頃だった。友達のうちで誕生会があり呼ばれていった。会の途中に誕生日の友達が外出した。そのときに彼が定期購読している雑誌が届いた。ある友達が、その本を読んでもよいかと、そのうちのおばちゃんに確認し、読み始めた。そして彼が帰ってきた。彼は友達が届いたばかりの彼の本を読んでいるのを見て、烈火の如く怒り出した。彼が言うには、彼が読んだあとならいくらでも読んでもよいが、彼よりさきにその本を開いたことが許せない、ということだ。おそらく友達がどこかで先にその本を読んでいても良かったのだろう。とにかく、届いたその本を開くのは彼でなければならないのだ。子供のいうことであるが、いまでも彼の気持ちはわかる。それが、ボクがいう「無垢への欲望」だ。
これが哲学であろうが、なんであろうが関係がない。日常の中でこのような出来事をなぜだろうと考えるてしまうのだ。それは「人間」への興味なのであり、それが「愛」なのだ。たとえば、ゾマホンにはこのような人間への興味があるのだ。それは今は「正義」という形をしているようだ。ゾマホン曰く、ぴかぁ〜は哲学的「正義」ではない、ということだろう。中身は良いとして、そこには、「人間」への執着があるのだ。しかしチンコからはそのような興味が伝わってこない。哲学板で2、3レスをして、こいつには「愛」がないとわかってしまったのだ。
格闘技に「愛」がないなどといっていない。格闘技は愛の塊だ。それは、ブログの最近記事「なぜレイザーラモンHGは憂鬱なのか「愛」が健全な無垢への欲望を導く」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051207を読んでもわかるだろう。
チンコがしている「論戦」は「ファイトクラブ」だといっているのだ。ファイトクラブとは現実の生活にリアリティを感じられなくなった若者が、夜中集まり素手で殴り合うのだ。その痛みによってのみ、生きている実感を味わえるというものだ。簡単にはリストカットのようなものだな。
哲学を愛してはいけない。「人間」を愛しなさい、ということだ。ボクは現代思想などたいしてしらない。チンコに「愛」がもどるように、祈ろう。
P.S.
ボクはそれなりの知識のあるものには、ブログをはじめることを進めている。使いやすいので、ボクと同じ「はてな」をおすすめする。かたぐるしいことを考える必要はない。書きたいときに、書きたいことを書くだけだ。それだけで少しだけ世界が広がる。それになにより、議論するときに、ブログをみるだけで、その人の文脈がわかる。ネット上で、相手の文脈がわからずに議論することには意味がないといってもいいだろう。その意味で、チンコはブログをはじめなさい。そしてなにより、ブログを書くと言うことは、自分の興味を語ることであり、「愛」を語ることなのだ。
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