欲望論パースペクティブ

pikarrr2006-02-08



1 「生と死」の断絶と解体と救済*1


「力としての生」「知としての死」

生と死において重要なことは「個」ということだ。たとえば、僕たちの内部では今も多くの細胞が「死んでいる」。しかしそれこそが僕たちの「生」を支えている。ここでは、「細胞」「個」と考えると、細胞は死んでいるのであり、僕を「個」と考えると僕という個を生存させるための新陳代謝である。

「死」とはなんらかの「個」を決定し、停止することである。人間の「死」とはなにか。明確には医学的な「脳」の停止でしかない。すなわち「死」には「個」を決定する認識者を必要とする。だから「死」「百科事典的な知」である。

それに対して、「生」の根元性は、「個」の決定以前、認識者の存在以前に、すでに生きているのである。すなわち「生」「個」に縛られない。たとえば「蟻の生」とは蟻一匹であるかもしれないし、蟻塚そのものであるかもしれない。それは、認識者が決めることであって、「生」そのものはただすでにそこに「力」としてあるだけだ。

すでにそこにある「力としての生」はただ懸命に生きている。そこには、「死」など存在せず、「生」そのものに生きることの「緊張」は内在している。「生」とはただ生きことではなく、「すでにそこにある力」である。それは「環境」という「終わりなき負の力」、進化論で言う自然淘汰、以上の力がなければ、「生」は存在しえないからだ。



生と死の転倒

このように「生」とは個に還元できない全体的状態であるのに対して、「死」はどこまでも「個」の設定を必要する。そして設定するのは現存在である人間でしかありあえない。だから「個」の設定は、「私」という個人であり、私はいつか死ぬ、そして死とはどこまでも個人的な事柄である。今日死ぬかもと言う自覚が自分の意味というもの、その責任を個人へ還元する。

生が「すでにそこにある力」であり、死は「百科事典の知」であるが、死を根源的なモノとすることによって、個人、すなわち「人間」というものの特別性を保証する。この転倒こそが西洋思想の根底にある動物/人間の断絶であり、人間という精神の特別性である。そして「力としての生」は動物的な、野蛮な、過剰なものとして排除される。



「生と死」の解体

この転倒を指摘し、形而上学批判を行ったのがニーチェである。プラトン以後の死の重視という転倒に対して、それ以前の生の思想への回帰をさけんだ。それが力への意志である。そしてニーチェの時代がダーウィンの時代だったのは偶然ではない。進化論は基本的に「生の思想」であり、ニーチェの根底にあるだろう。

しかし進化論の射程は、ニーチェ力への意志に留まらない。進化論および科学の思想とは、生と死の思想そのものの解体であ。それは「偶然の思想」である。この世界にはなにものの「意志」もなく、ただ全てが偶然である。力も偶然のものであれば、死も偶然のものである。自然淘汰ダーウィンの進化論のラディカルさであり、科学全般の根底にある。

進化論関連が倫理的な問題になり続けているのは、この「人間」の解体にある。進化論は人間への止揚ではなく、生命種の多様化であり、人間は片隅の偶然の一種でしかない。

東洋では西洋と逆に「生の思想」を受け入れてきた。たとえば日本人の個への曖昧さは、自然崇拝、多神教的にあらわれる。個というものは強い個人でなくこの世界のあらゆるもの「好き勝手」に設定し、すべてに神が宿るという個の曖昧な調和世界観にあらわれている。東洋における「生の重視」は、個よりも集団の継続が重視され、個の死さえも集団の部分、たとえば忠義とされる。そこにも「偶然の思想」の波は押し寄せて、「集団」を解体している。



「生と死」の救済

このような「偶然の思想」は、様々な差異を解体する平等の思想(リベラリズム)へ繋がる。しかし一方で、リベラリズムという倫理は、人間/動物の断絶に立脚し、動物を排除することによって、精神を持った「強い個人」としての人間の平等としてある。歴史的には人間/動物の断絶、精神をもつものともたないものの断絶によって、下層であり、奴隷が排除されることが正当化されてきた。現代では科学の発達によって、遺伝子としてその他の動物との断絶を保証された「人間」」という内部において、平等を唱う。

その意味で、現代のリベラリズムは、科学によって保証され、科学によって解体される。構造主義以降のポストモダン思想はニーチェの影響を大きく受けたとしても、保守的であり続けている。保守的であることそのものが現代の哲学の存在意義になっている。この科学のラディカルさをいかに活用し、「人間」を守るのか、それが現代の哲学の役割である。たとえばその思考の極限にあるローティのアイロニカルなリベラリズムは、もはや「解体の探求」「断絶の倫理」を別物として考え、その融合の試みを放棄し、断絶を受け入れるべきであるという。




2 「力としての生­」が壊れるとき*2


個体性と集団性

生命においてはある種のバランスが存在する。環境圧/「力としての生」である。環境圧とは静へ向かう力(エントロピーの増加)であり、それに逆らう「力としての生」(エロス)は動へ向かう力(エンタルピーの減少)である。「力としての生」とは動物的な生の本能であり、生きようとする環境圧に対する生命秩序維持が目指される。

しかし「力としての生」ニーチェ力への意志のようにエゴイスティックな力ではない。「力としての生」としての生命秩序維持は、個体性と集団性のバランスで保たれている。集団性とは下階層の個体群の秩序であり、その個体はさらに下階層の個体群の秩序である。たとえば蟻の群は蟻群の秩序であり、蟻は細胞群の秩序である。



社会性と単独性

生命としての高等化は、生命の個体性を向上させる。それは集団性を低下させることとなる。このために個体間の情報交換は、後天的な「社会性」によって補完されるようになる。このような高等生物では、「個体性」への力と、集団性が補完する「社会性」という集団化の力としてバランスを保つことになる。

社会性におけるコミュニケーションでは、意味の伝達が必要である。先天的な集団性の秩序に比べて、意味による伝達は不完全である。このために個体間には絶えず「不安」が現れる。これが伝えようとするヒステリックな過剰性が生まれる。ここでは、いかに他者を引きつけるかが、重要な課題となる。そのためには、他者との差異が重要になる。目立つこと、社会性の中で埋もれるのではなく、誰とも違う私という自我である「単独性」が目指される。



タナトスの過剰性

人間がもっとも高い社会性を持つ。人間のコミュニケーションは言語であり、意味の伝達の不完全性はたえず過剰な「不安」を生む。それは「社会性の中で埋もれるのではなく、誰とも違う私という「単独性」が目指される」という強い欲望を生む。

さらには、多くにおいて、動物は環境に逆らい、生きることに必死であり、いつも「力としての生」は環境圧に対してバランスを保っているのに対して、集団性を補完する「社会性」が環境圧を排除する形で、秩序世界を構築する。そのときに、この内部に閉じこめられた「力としての生」は過剰なものと転ずる。

ここに社会性と「力としての生」の過剰の対立が生まれる。社会性の内部を形成する場合にはエロス(生の欲動)と呼ばれ、それが抑圧された過剰な「力への生」の場合には、タナトス(死への欲動)と呼ばれる。「人間」の内部では、いつもエロスは、容易にタナトスに転倒するのである。これが本能の壊れた動物としての人間の特性である。



エロス=タナトス

環境という静へ向かう力は、生命秩序維持にとって、動を抑圧する「不快なもの」となる。このために生命は、「不快なもの」を排除し、動として安定することを志向する。これが、フロイトのいう快感原則である。

快感原則が、緊張を和らげる、主体内部の静へ向かうのであるが、ここで重要なのは生命にとって静とは、安定した動である、ということだ。それに対して、快感原則の彼岸は、本来環境が作り出す不快を、自ら作り出すことを示す。安定した動であるエロスが、自ら不安定を生みだすのである。これがタナトスである。

これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等速度運動である。一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっているような安定した状態である。

そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車がブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に対抗して、等速度運動しようとする

それに対して、タナトスは加速度運動である。エロスによって等速度運動し、快感であるにも関わらず、自ら加速することによって、物体には力が働く。電車が加速すると、車内の人に力が働く現象である。すなわちエロスもタナトスも環境の外圧(エントロピーの増加)に対抗する力であり、環境と相反し安定を目指す動物的な力がエロスであり、それを越えて安定を崩す過剰がタナトスである。



環境的現実界

この欲動理解から、ラカンの不明瞭な現実界の姿見えてくるのではないだろうか。ラカン現実界の一つの説明が、カントの「ものそのもの」である。これがここでいう環境であり、「環境的現実界と呼ぼう。環境とは単に自然世界ということではない。人間の認識の向こうにあり、人間が決して認識できないものである。その本質は不確実性である。偶然性とカオスが渦巻く、何がおこるか不確定な世界。本来、世界とはそのようにあり、人間は「現象」として見たいように見ているだけである。人間は、この環境世界の内部に秩序ある世界を構築したのである。

環境的現実界は、人間社会(内部)/環境(外部)と考えることができるが、これは物理的な制約とは関係がない。大きなところでは地震、事故などの偶発的な障害もそうであれば、庭の花壇も飼い慣らされているようで、そこのは不確実性が内在している。そして人間そのものもまた環境的現実界である。心身二元論的にいえば、この身体で何が起こっているかわからない。不確実な存在である。そして管理できない欲動そのものも環境的現実界である。



去勢的現実界

しかしここで区分が必要である。欲動が過剰でないときには、エロス(生の欲動)と呼ばれ、環境的現実界に分類されるが、過剰であるときには、タナトス死の欲動)と呼ばれる。これは、「去勢的現実界と言える。ラカンの理解では、タナトス死の欲動)は象徴界(社会秩序)への参入によって、去勢による抑圧によって生まれる。これはまさに、動物的なエロスが環境の力を越えたとき、本来エロスによって構築された秩序が、抑圧として働くのである。社会で生きるとは、このような抑圧を受けて、内部に過剰性を持ち続けるのである。

ドゥルーズは、ラカンが欲動を去勢によるタナトス死の欲動)として強調して考えたことを批判し、そのエロス(生の欲動)面を強調した理由がわかる。タナトス死の欲動)は欲動の一部である。しかし精神分析においては、抑圧された欲動が問題であり、それが「人間」なのである。



本能の壊れた動物

現代では、環境からの脅威は軽減されている。しかしエロスは止められない。外部にでられずに閉じこめられ、内部圧力は増していく。止まらないエロス、すなわちタナトスはどこに向かうのか。たとえば、それは内部での殺し合うに向かうのである。有史以来、人は過剰性によって互いに傷つけあってきたのだ。

闘いは、過剰性の解消装置だった。兵器戦争でなんなる悲惨な場になったが、戦争は人々を「生き生き」させる装置であった。いまならワールドカップの熱狂があるが、サポーターでなく、男子は全員がプレーヤーになる。そして敵国と戦う。賭けるのは命程度のものでなく、家族も含めた我々のコミュニティそのものである。これにまさる欲望の対象である「無垢」があるだろうか。

有効な使用方法は、内部世界の拡張に費やされている。環境の不確実性を秩序あるものとして開拓するのである。それが加速されたのが近代であり、数量化革命である。世界のすべてを定量的に数値化する手法は確実に、開拓を成功させ、内部世界を拡張した。それは地球から宇宙へという空間から、物理的な量子力学によるミクロ的、そして宇宙物理学的なマクロ的へ、あるいは遺伝子工学による身体へなどなどへと向かうのである。

たとえば量子力学が、原子力発電所に応用され人類の英知と言われるときは、エロスであり、それが原子爆弾として使われるときには、タナトスと呼ばれるのである。だからこの分類は両義的である。あるときは豊かさを生み、すばらしい芸術作品を世に生み出すが、またある時は、殺戮の狂気へ向かう。そもそもにおいて過剰性があり、それが有効であるか、どうかに決定できないだろう。これは「人間」が生まれた時から内部に抱えた問題なのであり、「本能の壊れた動物」としての「人間」である。




3 他者からの呼び声→まなざしの快楽→無垢(汚物)への欲望*3


集団性から社会性へ

人間は個体の自律性(個体性)が向上したために、集団性が欠如した動物である。動物のように「完全な」集団行動をすることができない。しかしそれでも「力としての生」の中には、集団性、すなわち先天的な他者志向性の残余が残っている。これを「他者からの呼び声」とよぶ。

集団性が欠落した中でも、人間は一人では生きることはできない。故にいかに集団行動を行うかが問題となる。人間において、この個体間の「間」を埋めるものが言語による意味の伝達である。動物では、情報→解釈(遺伝子)→命令によって集団の統制がとれるが、言語では、情報→解釈→命令において、いかに共通の解釈をするかという問題がおこる。それが大文字の他者という取り決め(社会性)の獲得である。社会に参入することで、集団性は社会性によって補完される。



単独性の獲得の幻想=無垢、汚物

しかし大文字の他者には欠如があり、完全な意味の伝達はできない。そして完全な意味体系をもとめ、たえず補完しつづけられる。それが、自己言及の穴である「私とはなに?」という単独性を求め続けることであり、それが欲望である。

大文字の他者(社会)の欠乏の補完物は、大文字の他者(社会)の外にしかないために、欲望は、大文字の他者の外をめざすが、それは失われたものであり、手にはいることはない。だからみんなが求めているだろうという(「まなざしの快楽」)対象(対象a)として現れ、それを獲得することで他者とは異なる私だけの単独性が獲得されるという幻想である。対象a「無垢」性を帯び、また「汚物」であるのは、大文字の他者の外にあるという幻想だからである。

完全な他者との繋がり(集団性)を求める→大文字の他者(社会性)の獲得→大文字の他者(社会性)には欠如があり、欠如としての私の意味(単独性)の補完を欲望する→大文字の他者を越えた他者との近接(差異化運動)→単独性の獲得の幻想としての対象a(無垢、汚物)への欲望



闘争的か、相補的か

この大文字の他者を越えて他者への近接は、ラカンでは闘争的に描かれる。想像界では想像的な闘争、転移、ナルシシズムであり、象徴界では去勢であり、抑圧であり、現実界では享楽であり、死への欲動である。

しかしこれは必ずしも闘争的はなく、一つの相補的なシステムでとらえられるだろう。失われた集団性を求めるための社会性を維持するシステムである。想像界を挟んだ、象徴界/(想像界)/現実界のシステムであり、たとえば社会への協調/利己的な自己実現の物語では、この対立は相補的にシステムを支えているのである。



動物/人間

人間は集団性が欠けている、ということである。そして集団性(他者との関係性)を求めることが欲動(他者志向性)である。たとえば動物は集団のC−5の位置に配置されても集団性を持ちえているために問題がない。しかし人間は集団性が失われ、それを補完する社会性によって、C−5位置に配置され、「あなたはC−5だよ」と名付けられる。しかしそこに残余としての「不安」が生まれる。なぜC−5なのか。誰が決めたのか、他の人はちゃんとB−3で収まっているのか、というコミュニケーション不全による不安である。そしてたえず私がC−5である「意味」が求められ続ける。

すなわちこれは「私とはなに?」という単独性の芽生えである。集団性への欲動が社会性を生み、社会性が単独性を生むのである。他者と密になろうとすることが、逆説的に、他者と差異化された私という意味を求めるという、利己的な主体を生み出すのである。

この社会性への対立としての単独性が「欲望」である。そして欲望は絶えず社会性(他者の承認)に支えられる。他者が望むことを望むのであり、社会性において、おまえは〜だからC−5なんだよ、という単独性への完全な関係を求めるのであり、そのためには他者と違っていなければならないのである。

この終わりのない他者との差異化、すなわち欲望が、人間の進歩を支えている。動物にはこのような差異化はない。完全な集団性も持っているために、変化は環境との関係という長期的な時間を要する進化によって、変化する。しかし人間は、自ら欲望という動力をもったために、進歩というダイナミズムをもった動物なのである。



無垢/汚物への欲望

だから「私は誰?」という問いはいつも他者に向けて発せられる。教えてよ・・・繋がりたいよ・・・

欲望は他者に向けて行われる。見てよ。僕って凄いだろ。だから欲望の対象はみなが求めているが、誰も手にしていない「無垢」であり、「上から二冊目の本」である。そして他者が持っていないものへ、他者が禁じている「汚物」へ向けられる。性関係は無垢で、汚物として欲望され、現代ではロリータという幻想が、無垢な汚物である。

「他者からの呼び声(現実界からの声)」が、「まなざしの快楽」象徴界)を想起し、(想像界に)「無垢(汚物)」という幻想を投射する。たとえば、ロリータという「無垢(汚物)」の幻想は、「他者からの呼び声」による「まなざしの快楽」が投影した幻想である。それがロリータであるのは、社会(象徴界)の外(禁止されたもの)にあるまだ誰も手に入れていない本当の「他者からの呼び声」がそこにあるという幻想である。このような「まなざしの快楽」が見せる幻想がなければ、ボクたちは「他者からの呼び声」に答えられないことによって発狂してしまうだろう。




4 ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法*4  *5


ジャングル化する社会

人間社会とはジャングルから秩序を建設することであった。そのような社会的秩序は階級構造によってなりたっていた。うまれながらに居場所、行為が規定されている。民主化とはそもそもが社会構造解体の流れをもつ。平等であることは競争で、位置ポテンシャルは上昇し、社会的な規律は低下する。

欲望とは、高い秩序性という抑圧からの解放ではなく、秩序がゆるんだ余裕に生まれる。すなわち秩序と解放の対立、「社会的であれ」「主体化しろ」ダブルバインドに欲望は生まれる。

そして現代、いよいよ社会が老朽化して底が抜けた。社会の流動性はいよいよ上昇し、「ジャングル」が回帰する。これは、当然、野性に戻るというとロマン主義的なことではなく、自然淘汰の世界へ向かう。「社会的な抑圧」から解放され、それに変わって回帰するのが、自然淘汰的環境圧」である。

「社会的な抑圧」はある規範がありそれに従えということであるが、「環境圧」は、「好きにしろ、だた生き残れ。」ということである。構造改革規制緩和など、自由度の向上と言われるが、それはまた、「環境圧の上昇」である。

このような「ジャングル化」は、社会が豊かさにより、社会秩序を抑圧として感じる人々が、自由を望んで、進めている。それは「不確実化する」というリスクがともなうが、ホリエモン問題、耐震偽造問題では露呈してきていると言われる。しかしこの社会の「ジャングル化」は止められないだろう。



下流社会

最近、下流社会と言われるが、「競争社会」と同じ次元にある。下層とは黙々と安い賃金で働くものだ。最近の下層はご託が多い。だから正規職員にせずに、入れ替えるのだろう。ここには、いつの時代の社会には下流がいる、「社会には下層となる誰かが必要である。」という端的な事実があるだけだ。

それが最近取り上げられるのは、今まではたとえば、貧しい家庭は子供の教育も不十分で、中卒で働くに出すという、下層は下層だという暗黙の前提があった。これはこれで、当たり前とされていたわけだが、総中流の時代を経て、誰が下層とするのかとなったときに、フリーターやバイトなどの中流出身者である人々が下層に「落ちぶれた」ことからの、ある種の同情として、語られている。

誰かが下層になるのは、資本主義ということでなく、社会そのものの構造だろう。だから誰かが下層である、ということはいままでも、これからの変わらない。民主主義は、生まれながら下層をなくし、入れ替え制のチャンスを与えるシステムである。しかしドラゴン桜では、「大学受験だけが一生で唯一、努力さえすれば誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、いやなら努力するしかない。それが「競争社会」である。



ジャングル化社会(不確実性社会)と競争社会

しかし「競争社会」とは、「ジャングル化」の一面でしかない。たとえばなぜいま人間が栄えているのか。それは恐竜が滅んだからだ。強者である恐竜がなぜほろんだのか。環境が激変したからだ。隕石の落下?で気温が急激に下がった。その環境では、弱者だったネズミ(ほ乳類)が強者になり、進化して人間が生まれたのだ。ジャングルは強者、弱者の競争場だがが、その環境がこの先どうなるかわからない。「ジャングル化」する社会とは、競争社会である前に、「不確実性社会」だ。

「ジャングル化」した社会では、流動性があがり、偶然性が増え、なにが正しく、何が間違いか不明確で、各自がそれぞれリスクをもって生きる社会である。それは当然、経済格差社会を生むし、勝ち組、負け組を生むだろう。今まで、「なんとなく総中流的」を守っていた「社会」は解体され、「なんとかなるだろう」意識は、挫折させられるだろう。

もともとも社会には格差がある。民主主義的平等とは、格差を均質化するものではなく、平等に競争した格差を認める社会であることが、ありありと現れるだろう。どの時代において、負け組や下流層は必ずいた。そして、「なんとかなるだろう」では、負け組になる可能性は高い。

しかし「ジャングル化」(不確実性社会)を単に「競争社会」ととらえると本質を見失うだろう。このような「競争社会」とは資本主義ゲームの上に成り立っている。勝ち負けは、多くにおいて物質的な豊かさという価値によって図られる。ジャングル化社会での勝ち組の所作とは、「サバイバル」することが目標である。現在の不確実な社会では、貨幣を取得すること、社会信用を得ることが、生き残る可能性を高めるが、それで確実に勝てると保証されないからだ。

サバイバルにおいては、「攻めるか(立ち向かうか)」「守るか、(頭を低くしてより保守化するか)」の選択だろう。保守化とは、ジャングル化した社会での一つの生き方だ。元インテルアンディ・グローブパラノイア・イズ・サバイバル」と言った。「臆病者だけが生き残るのだ」ということだ。野生動物はみな臆病者である。昼は穴蔵に引きこもる小動物であるが、また百獣の王ライオンでも同様だ。たえず回りの環境に敏感でなければならない。まさにサバイバルの極意だ。そこまでして生きたくないのではなく、そこまでしないと生きられないのが、ジャングル化する社会なのだ。



欲望の不可能性

ただサバイバルすることが重要になり、テクニカルに生き残ることが求められる。そこでは「私とはなにか?」という欲望することは困難になっている。欲望は社会への反抗によってなりたっている。「好きにしろ」という環境圧へは反抗は成り立たない。

欲望とは隠すことによって想起する。見えそうなミニスカートの中であり、性の対象としてはいけない幼児であり、そこになにかがあるわけでなく、隠されることで、現れる。この隠すとは社会である。社会があり、その禁止によって、欲望が生まれる。

ジャングル化した社会では、社会の底が抜けて、世界があらわになる。そこでは、欲望は、隠されることを欲望する。禁止されることを欲望する。盗んだバイクで走り出すとは、禁止されることを欲望し、走り出すのだ。そこでは禁止としての「死」を近接するのである。ジャングル化する社会では、究極的には「死」さえも禁止されない。そこでは、もはや欲望することが困難になる。

さらに、ジャングル化社会では、素直な執着は危険である。だから、熱いもの、ウエット感は暑苦しい、マジ、かっこわるいと最近では「欲望」は嫌われる。逆にライトは、シニカルなスタンスが好まれる。その不確実性を理解していれば、執着は回避されるだろう。アイロニカルで、シニカルで、クールな姿勢が求められる。



欲望社会

しかし欲望が回避されるから、欲望がなくなるわけではない。それ故に、作動しているのは、まさに欲望の原理そのものであるといえる。たとえば、フリーター、ニートは、無気力と言われるわりには、自分らしさにこだわる、すなわちより欲望深い面があると言われる。では、欲望深い人々がフリーター、ニートになったのか、あるいはフリーター、ニートになることで、欲望深くなるのか。ボクは、フリーター、ニートになることで、欲望深くなる傾向が強いと考える。

しかしそれは一つのデフォルメであり、「無気力なのに実は欲望的だ」という「面白さ」である。それは勝ち組が欲望的であるのは当然である、ということと隠している。ここに見られる傾向は、人々がなおも、いや欲望が難しく、隠されている故になおさら、欲望論によって動いているということだ。さらに隠されているのは、不確実性社会における本当に目指されるものは、「(無垢への)欲望」である。すなわち「この私そのもの」という充実である、ということだ。

逆にいいえば、欲望の困難が欲望を加速し、歪な形で表出している。「サバイバルのために保守化する」ことは、シニシズムへ向かっている。欲望は現前化することができない。この環境圧に負けて、か弱い夢を語ることは滑稽であり、許されない。みなが「どうせおれなんか」と、シニカルに向かう。

欲望は難しくなり、よりきわどい禁止へ向かうことによる、ロリコン、幼児殺害、リスカ、自殺願望など。はけ口がより匿名へ、弱い者へ、より集団化へ向かう2ちゃんねるの誹謗中傷。そして勝ち組であったはずの、ホリエモンの過剰性はその他の何であると言えるのだろう。ジャングル化した社会では、生きることに対して姑息であらねばならない。匿名で愚痴をこぼし、弱い者イジメをする。

すなわちジャングル化(不確実性)に、いきなり社会が野性に戻るわけではない。社会的な豊かさは維持されるだろう。では、サバイバルにおいて賭けられるものが生存するための「生死」でなければなにか。「プライド」を賭けた生死のサバイバルである。

それは「欲望の充実」を目指すサバイバルゲームである。ただ欲望は他者の欲望としてあり、「この私そのもの」という充実とは他者の承認であるために、それはあたかも、物質的な豊かさを賭けた「競争社会」の姿をしているのだ。



なぜ「負け組」なのか

動物化などといってまったりするというフリーター、ニートは、ジャングル化からの逃避である。彼らはサバイバルしていない。たとえば彼らは打算的にニート、引きこもりをしているなら良い。お金持ちのボンボンが親の財産で遊んで暮らすというのは、古くからあることだ。しかし彼らにはそのような打算も、サバイバル意識もない。ただ逃げているだけだ。途中で社会にでても負け組であり、親が死んだら、路頭に迷う。

彼らの親が社会に厳しさをしらずに、ある意味で幸福な社会を過ごしたために、子供が引きこもることの深刻さがわからずに、甘やかしている。彼らはそのような気分のままで、生きている。いつの時代にも下流、負け組というのは存在し、冷静に考えれば、もはやそう生きるしかないのに、サバイバルせずに逃げているのだ。

そして彼ら「なぜ生きなければならないのか」というだろう。そんな必死にサバイバルする必要などない。ということだ。しかしいくらなんと口で言おうが、人は「生きたい」から生きているのではなく、すでに生きつづけるように、生きているのだ。そして、「なぜ生きなければならないのか」「死んでやる」こそに欲望的な言葉であり「本当は生きたい」という意味以外になんだろうか。

あるいは、「世間でなく自分の価値を目指しているのだ。それぞれのやり方がある。」という、いつものいいわけが現れる。確かにジャングル化では必ずしも「競争社会」は成り立たない。人それぞれの目指すゴールが異なるからだ。そのような意味では、ニート、フリーターは確かにこの相対主義が、不確実性の特徴でもある。

しかし欲望を充実されるというサバイバルにおいて、彼らは不確実性な環境圧からも逃げている。彼らの言う「世間でなく自分の価値を目指す」というのは、「競争社会」で勝つことに比べられないほどに、とんでもなく困難なことなのだ。

下流社会「競争社会」が隠蔽しているものは、あたかもみなが同じ物質的豊かさを競うゲームをしているように見せかけていることである。そして彼らがその「下層」を演じるおかげで、物質的豊かさが幸せであるという幻想としての「競争社会」は存続し、みなが安心して「社会」に帰属することが可能なっている。だから彼らが「負け組」であるのは、物質的に豊かでないからでも、競争社会に負けたからでもなく、自ら、「競争社会」という幻想の「負け組」という位置に依存しているからだ。



ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法

ジャングル化する社会を生き抜く方法とは、簡単に言えばいかに「生き生き」しつづけるかということです。 かつてのサバイバルが豊かさによる「生死」であったのに対して、現代においては「生き生き」できないものは「落ちてゆく」「生き生き」することが「生死」を賭けるサバイバルである。

1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ!」

ジャングル化した社会で、現代の豊かさになれ甘えた人々が生き抜くには保守化する必要があるだろう。適度な欲望を解消し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、「ヘタレサイクルを回す。」ゲームを楽しみ、オタク的にちょっとしたクリエイトもして、仕事のほどほどにこなす(これをぼくは「ヘタレサイクル」*1と呼ぶ)もしか、もしか、もしかすると、直木賞でも取れたりして・・・ていうささやかな楽しみで生きる。そして回帰する「私とはなに?」「なんのために生きているのだろう」という不安をやり過ごす。

「フリーターの知」とは、ジャングル化する恐怖の世界で、檻に入り、容易に手に入る無垢で満足する。甘やかされた者の超保守化である。

2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け!」

ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。ドラゴン桜では、「大学受験だけが一生で唯一、努力さえすれば誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、これが意味するところは、受験ぐらいで「勝ち組」になれるなら楽なもんだ。ここには、「ジャングル化した社会では、「競争社会」で勝つぐらいで、「本当の勝ち組」にはなれないが、」というアイロニーがあるのではないだろうか。だからなおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で生きていく。

「エリートの知」とは、ジャングル化する世界で、檻の中で一番になることを求める。現状を支えるという保守化の一つでもある。

3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな!」

物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。しかし安易な「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。「己の欲望に譲歩せず」生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、孤独で、ストイックな方法である。物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、という覚悟が必要である。

「芸術家の知」とは、檻からでて、恐怖のジャングルに乗り出すことだ。しかしこれは運動としてとらえないといけない。当然、外にいくことなどできない。それは、外を目指し続ける姿勢である。それは、無垢を手に入れるという充実を得る可能性へ問いかけ続ける。またそれは朽ち果てるかもしれない。



いかに生き抜くか

たとえば、様々な社会問題に対してどうにかすべきだ、という意見では、その多くに、「問題を単純化し、自分の不安の解消のネタとして、ストレスを発散し、安心する」という欲求不満解消の機能をしている。まさにワイドショー的マスメディアが大衆に与える商品である。このような娯楽性は「フリーターの知」であるといえるだろう。2ちゃんねるなども多くにおくてこのような機能で動いている。

「エリートの知」ではこのような社会問題をより積極的に、実働的考えるということであるが、そこにも、売名行為とまではいかなくても、優越感としての欲望解消の機能が働いている。2ちゃんねるには「やらない偽善よりやる偽善」という標語があるが、これは「エリートの知」のある種の開き直りであり、偽善性の排除の難しさを示している。そしてそれは単に間違っているということではない。

「芸術家の知」では、社会問題に対して、その目先に善悪でなく、自分がなりのやりたいことを掘り下げる姿勢である。このような「芸術家の知」に近いのは、宮台の「エリート」だ。宮台の「エリート」とは徹底的に現代を歴史主義的に客観視する能力を養い、時代を導く存在になることをめざす、そのようなエリートを教育しようという考えだ。ボクの「芸術家の知」はそこまで世界そのものに直結は考えていない。たえず世界を疑いつづける、そして意図的でなくても世界をかえる力になる姿勢だ。

これらは、基本的にはどれが正しいということではなく、ジャングル化する厳しい社会を、生き抜くための3つ方法ということだ。

参考 自然主義パースペクティブ(草稿)その1  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040312 自然主義パースペクティブ(草稿)その2  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040313