「どうして人を殺してはいけないのですか?」
「死」の心身二元性
「死」とは、概念です。この概念は「人間」のみに可能です。動物は「殺す」ことはありません。「死」の概念がないので、「他者を潰そう」ということはあっても、そこに「死」への目的性はありません。
(「人間」の)「死」という概念は、「この私」という個人の尊重によって、生まれています。「この私」というとき、「死」は最高の「強度」をもち、逆に「集団の中の一人」のとき、いわば身体を形成する1細胞という集団の新陳代謝の1個体のように「死」の「強度」は低下します。
だから「殺す」=「他者を死へ至らしめる」ということは、「他者」とは「この私」の反転としての「このあなた」であり、個人の尊重された存在であり、「殺す」という概念には、すでに始めに「禁止」が内在されているのです。
このように「死」、「殺す」という言説を考えるとき、「人間としの人」と「動物としての人」の二面性、「心身二元性」を見る必要があります。そして「死」、「殺す」は、、「人間としての人」、「心」にしかないのです。
「殺意なき殺人」は存在しない
人間の「殺人」事件では、「殺意があったか」ということが問題になりますが、人間は動物のような「他者を潰そう」だけという純粋性は失われています。人間から「死」の概念を完全に排除することは不可能です。しかし多くの「殺人」は、「殺意なき殺人」のように、行われます。
たとえば戦争の目的は、「殺人」ではありません。各自ミッションがあり、そのために、障害を排除し、ミッションを成功させるのです。それが多くの殺害を生むのは事後的な結果でしかないのです。
しかしこれは、なるべく「殺す」こと、「死」の概念を忘却し、「他者を潰して」いるだけだ、という隠蔽です。この隠蔽のもとに、多くの「殺人」が行われているのではないでしょうか。人間は動物ではないように、「殺意なき殺人」は存在しません。多くの軍人が退役後に苦しむのは、隠蔽された「殺意」が回帰するからです。
*1