なぜお笑いブームは「狂気」化するのか

pikarrr2006-03-22

世界は「狂気」である。


たとえば電車の中でサラリーマンがすこし大きな声で仕事の話をしています。そんなことはよくあることで特に気になりません。しかしよく見ると、そのサラリーマンには話し相手がいなかった。独り言を会話しているようにしゃべり続けていたのです。このとき「狂気」を感じます。

たとえば昼間、サラリーマンが街中で、大きな声で歌を歌っている。その場に緊張が走ります。このサラリーマンが、「みんなビックリした?笑いのために、あえてやってみました〜!」と言ったとします。これでは誰も笑わないでしょう。さらなる「狂気」がおそいます。

この場合に僕たちがすることは、このサラリーマンがだれとコミュニケーションを成立させているか、ということでしょう。たとえば同僚が少し離れたところで、はずかしがり、歌うサラリーマンをわらっている。それはなんらかの罰ゲームかもしれませんが、「歌うサラリーマン」と同僚に間にコミュニケーションが成立していることを確認すると、僕たちはホッとします。

さらには、「実はテレビ番組の収録でした。みんなビックリした?笑いのためにあえてやぶってみました〜」といいそこにTVカメラが出現すると、もっと緊張は緩和されます。そして「正常な地点」へ回復することで笑いがおこります。

そもそも「他者」とはなにを考えて、なにかするかわからない「狂気」の存在です。「狂気」の方が「一般的」であるということです。この「狂気の世界」で懸命に、「他者」ときちんとコミュニケーションができているように、装うのことで社会はできています。それは、「薄氷の上を歩く」ようなものではないでしょうか。




笑いの強迫性


TVとは関係なく「歌うサラリーマン」は、普通は「狂気」ですが、とても「シュール」であるともいえないでしょうか。「シュールな笑い」とは、緩和し回復されるはずの「正常な地点」でないが、それが(新たな)正常点なんだという、この「狂気さ」を笑おうとする意志によるものです。このような「滑稽さ」「あり」だとそこに正常点が見出され、同意されるときに、それは緩和されるのです。

実は、この「同意」性はシュールだけでなく、笑い全般に言えることではないでしょうか。どこに正常点があるのか。それは誰にもわかりません。それはそのときにのみなの同意によって決められるのです。同意は「薄氷」のごとく脆いものです。だからTVのお笑いで笑い声が足されるのです。ここが同意された「正常点」であると教えるのです。

シュールな笑いは、その「正常点」を一般的に同意されているだろう地点とは、ズレたところ、まだ狂気が残っているだろう新たな地点を新たに見出し、(無理矢理に)笑ってしまいます。それによって同意の「小さな内部」を形成されます。だから「シュールな笑い」はいつもマニアックであり、「オレそれわかるわかる!」というわからない人を排他する快感とも言えるでしょう。

だから笑いはあたらに創造されづける意味で解放的ですが、「内部」を強要すると言う意味で、排他的です。たとえばアメリカのコメディを見ても、違和感があり、面白くありません。なぜなら僕たちが「正常点」を同意する「内部」に属していないからです。そして「内部」に属していないために、疎外された不快感を感じます。そしてこの笑いの疎外が、人々に「笑わなければ」、あるいは「笑いなさい」という強迫性です。




お笑いの浄化作用


現代、「同意」形成の場として作動しているのは、テレビメディアでしょう。テレビは大きな「同意の内部」を形成して、社会の正常点を生みだしています。あるいは強迫してもいます。テレビタレントは往々にして「変人」です。一般社会では「狂気」の人ですが、それがテレビに出て、「同意」されるとその「狂気」「笑うもの」として同意されます。

たとえば素人参加番組でも、テレビにでると人々はよく日常隠していたことを暴露します。日常の狂気、罪をみなに同意されることで、あるいは笑われることで、正常点として、浄化されるのです。これはテレビだけでなく、悩みを友達に相談することでも行われる「同意」の効果です。




狂気化するお笑いブーム


このような同意の「内部」は生き物であり、絶えず変化し続けています。それによって、人々は最近の「空気(ノリ)」に同意するのです。

最近のお笑いブームでは特に流行り廃りが早いですね。「なんでだろ〜」「ゲッツ」「〜切り、残念」ヒロシです。」「フォ〜!!!」と見事に切り替わっています。これは「狂気の消費」といえるかもしれません。ブームとは新たな新鮮な「狂気」が同意されていくという消費過程です。同意し尽くされ、そこに「狂気」が失われると、ブームは終わる。そして人々は新たな「狂気」へ向かうのです。これはボクが「無垢への欲望」と呼ぶものの一形態です。

HG当たりから、特に受ける笑いがヒステリックになっているようにも感じます。猫ひろし小梅太夫など、人々が刺激を求めて、より「狂気」へ、それはより「病的」へ向かっているように思います。
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