なぜ亀田兄弟は強いのか?

pikarrr2006-03-27

「なぜその薄氷を渡るのか」


人は脆い構造物である。人という構造物は「薄氷を歩く」ように維持されている。人は確かな土の上を歩いているように実感している。それが生きるということだからだ。しかしそこで隠されているのは、歩く方向を示す「誰か」のあとを歩く限りである、とうことだ。

たとえば親、先生、医者はなぜ技術的に優れているだけでなく、人格者でなければならないのか。それは、彼らがその「誰か」であるからだ。人々から「なぜその薄氷の上を歩くのか」という不安を忘れさせる存在であるからだ。彼らに求められているのは、寡黙に、「(行き先を)知っているだろう存在」としてあることだ。

人は誰かを信頼し従うときに、最大の力を発揮する。「なぜその薄氷を歩くのか」という決断を「誰か」に託し、「いかに薄氷をあるくか」とただ実行するだけのときである。たとえば、亀田三兄弟の強さにはあの強気なオヤジさんの存在が欠かせない。オヤジさんは亀田兄弟から、「なぜボクシングのチャンピオンになるのか」という不安を消し去り、「いかにチャンピオンになるか」だけに、専念させている、のだ。




フリーズする私


「いかに薄氷を渡るか」は不安でなく、「充実」である。不安はいつも本質的に「なぜその薄氷を渡るのか」ということである。そして「なぜその薄氷を渡るのか」は、その理由を知る「誰か」を喪失することの不安である。その問いの前で立ち止まる不安である。それが「孤独」である。

みな、他者からみると些細な理由で「不安」になる。しかしその些細なことによって、薄氷を歩くことを可能にしているために、そこに固執するのだ。たとえば子供は親が離婚するのは、ボクが悪い子だからだ、と考えてしまう。それは外部から見ると、過剰な思いこみである。この混乱は、親を失う不安からでなく、なぜ親が失われるのかに答えてくれる「誰か」を失う不安である。

多くにおいて人が大きな「不安」にあたると、この子供のような思考へ向かうしかない。「なぜその薄氷を渡るのか」という不安に直面したときに内部へ向かう。そして内部にあるのは、自己の不完全さである。しかし「不安」によって自己の不完全さが開くのでなく、いつも自己とは不完全であることが、現前化するのだ。いつも「薄氷を歩いている」こと、そして「なぜその薄氷をあるくのか」には答えがないことが、現前化してしまう。そしてそのまえでフリーズし、自分を責めるしかないのだ。
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