ネットと社会はなぜ「断絶」するのか(全体) 


1 「ボロメオの結び目」としての社会

2 愛と憎しみのネット社会

3 純粋略奪関係というバランス

4 透きとおった「帝国」

5 純粋略奪の快楽

6 終わりなき「断絶」

7 YouTubeの事例






1 「ボロメオの結び目」としての社会


① 資本社会/ネット社会への二重帰属性

ネット住人は資本社会からみると「外部」にいる山賊、異教徒に近いのかもしれない。そう考えると様々な資本社会に対する反抗、略奪、悪態、排他がわかりやすい。しかし基本的に「彼ら」が資本社会内部の人間でもあることを考えると、この二重帰属性はとても不思議である。



② 資本社会の貨幣価値への還元作用

資本社会を支える貨幣交換という「交通様式」は、「象徴的」システムである。たとえば「人間の平等」貨幣経済の産物であるといわれる。紙である貨幣が価値を持つこと、「人間の平等」など、それらは資本社会内部の無意識(象徴界)の信頼によって支えられている幻想である。

しかしこのような象徴界への参入は精神分析では去勢と呼ばれ、「想像的なもの」を禁止する。とくに資本社会においては、「想像的な」思い入れ(質)は貨幣価値という量へ還元され流通される。ボクたちが質を重視し、「お金で買えないものがある」といっても、この「象徴的な」網に(無意識に)からめとられる。生命の危険がある病になった大金が必要なのであり、命も貨幣価値で図られているのだ。

しかし「同じ機能をもつバックでも高価なエルメスを求めるのか。」というように、必要(使用価値)以上のものに価値を見出すという不可思議な傾向をもつ。マルクスはそれを交換価値という幻想として示した。

これは抑圧された「想像的なもの」の回帰ではないだろうか。エルメスの価値とは他者からの賛辞であり、それを賛辞する価値の内部にいるという実感である。商品を媒介にして他者との繋がろうという欲望であり、「想像的な」質の取り戻りである。ボクたちがよりもとめているのは「想像的なもの」であり、「想像的」他者との関係=「愛」であるからだ。



③ 「平等」という抑圧

資本社会では貨幣価値への還元という強い「象徴的な」作用が働く社会である。たとえばボクたちが当たり前と思っている「人間の平等」は、貨幣経済の産物である」といわれる。それ以前、封建社会、未開社会では、人間が平等でないことが当たり前だった。

資本社会が「平等」を重視するのは、貨幣による交換システムがとても「不安定な」ものであり、そのバランスを保つためには、「平等」によるシステムの活性化が必要であるからだ。たとえば著作権などの知的所有権が重視されるのもこのためである。封建社会などのようにシステムとして格差の入れ替え可能性が排除されていては、貨幣システムは作動しない。だれにとっても1万円は1万円の価値が保証され、それが商品と交換可能であるという「平等」への信用が内部を維持している。

そしてこの「平等」そこが、「想像的な」質を貨幣価値に還元し流通させるという抑圧の一面でもあるのだ。



④ 「ボロメオの結び目としての社会

たとえば柄谷は未開社会、封建社会、資本社会への変化を、互酬(贈与と返礼)、再配分(略奪と再配分)、商品交換(貨幣)という「交換様式」で分類している。(「世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて」 柄谷行人 ISBN:4004310016

どのような社会でも、ラカンの三界、「象徴的なもの」「想像的なもの」「現実的なもの」は、ボロメオの結び目としてどれも欠くことができないとして次元として作動している。

たとえば未開社会とは小さな「内部」であり、資本社会に比べて顔と顔のつきあい、「想像的な」関係を元に「内部」が作動している。「想像的な」関係とは良性では愛であるが、悪性であると憎しみである。これは容易に転倒する。

そのため、それを抑止する「象徴的な」秩序が必要とされる。未開社会での「象徴的な」「交通様式」は、資本社会の(貨幣)交換に対して、互酬(贈与と返礼)システムである。無償で与えることで、その負債が循環していく。たとえば現在でも家族では交換は貨幣ではなく、「水くさい」などと互酬(贈与と返礼)で行われる。子は親に養われ負債を追うことで、親を尊敬するというように、親子という社会会関係(上下関係)を規定する「掟」として作動し、過剰な「想像的な」関係を抑止する。

未開社会が維持されるのは、小さな「内部」群が大きな「内部」として取り込まれず、それぞれ個別に維持される限りである。そして小さな「内部」にとって他の小さな「内部」「外部(現実的なもの)」であり、互酬(贈与と返礼)システムや(貨幣)交換ではなく、争いによる「略奪」という「交換様式」が作動する。

争いが頻繁におこり、大きな「内部」として作動したときに、封建社会へ向かう。そこでには支配者と被支配者による再配分(略奪と再配分)が行われている。



⑤ 資本社会の「外部(現実的なもの)」からの略奪

柄谷によると、「貨幣交換は共同体の間に起こる」封建社会という「大きな内部」同士に秩序ある交通が行われるときに、「より大きな内部」として資本社会が作動する。このような「より大きな内部」を安定に作動させるために、資本社会は知的所有権保護などにも見られるように「略奪」を禁止する。

しかしこれも正常に作動し信頼が保たれた資本社会「内部」においてのことである。資本社会は拡大することで安定を保つシステムであり、「外部」からの略奪がなければ作動しない。資本社会「外部(現実的なもの)」とは、一つは資本社会化していない社会であり、もう一つは自然である。大量生産や、グローバル化の名のもと、「外部」からの略奪が進行する。



⑥ 純粋略奪と「剥き出しの生」

中野は「貨幣と精神―生成する構造の謎」ISBN:4888489785)の中で、ラカンの三界、「想像的なもの」「象徴的なもの」「現実的なもの」を、贈与−商品交換ー純粋贈与と対比させている。未開社会など小さな「内部」で行われる贈与は対面的「想像的もの」であり、資本社会などの「より大きな内部」で行われる商品交換は知らない者でもルールにのっとって行われる「象徴的なもの」である。

純粋贈与とはまったく見返りのない贈与であり、たとえば自然の恵みである。しかしこれはまた自然という純粋な「外部(現実的なもの)」からの純粋略奪とも言えるだろう。

ジョルジョ・アガンベン「開かれ―人間と動物」ISBN:458270249X)の中で「人間/動物、人間/非人間といった対立項を介した人間を産出する歴史化の原動力」としての内部(人間)/外部(動物)の境界生成を「人類学機械」として示した。*1

このように「外部(動物)」におかれた人はホモ・サケル(剥き出しの生(=主権権力の外に位置する者))」ISBN:4753102270 )であり、「動物」からの略奪であり、自然からの純粋略奪と考えることができるだろう。

フーコ-の「生政治」、そして「環境管理権力」のように、成熟した資本社会では、人々は「動物」のように管理されることが警告されている。すなわち純粋贈与(略奪)される「外部(動物)」は、内部に生まれると警告されている。

これら未開社会と資本社会の三界は以下のようになるだろう。

  未開社会 資本社会 
想像的(愛)  身内の関係 消費の過剰 
象徴的(秩序)  互酬(贈与と返礼)
掟  
商品交換(貨幣)
道徳、法 
現実的(外部)  他の未開社会  資本社会外
自然と「動物」




2 愛と憎しみのネット社会


⑦ 愛と憎しみのネット社会

ラカンの三界、「象徴的なもの」「想像的なもの」「現実的なもの」をネット社会に展開すると、ネット社会の特徴は、疑似的であるが、対面的な「想像的な」関係が容易になったが特徴である。未開社会のように顕名ではなく、多くにおいて匿名であるが、懸命にブログなどで自己を紹介、誇示し、「疑似的な顕名によって、「想像的な」関係が目指される。

「想像」関係の良性=愛と悪性=憎しみの裏腹さは先に述べたが、これは容易に転倒しやすいことが炎上などの傾向で、ネット社会で顕著に表れることがわかる。それは「繋がり」重視の表れでもある。



⑧ 資本社会的秩序が作動しにくいネット社会

このような「想像的な」関係への過剰性は、ネットが疑似対面的であるだけでなく、そこにそれを抑止する「象徴的な」秩序が働きにくいことによるだろう。

ネット社会といっても基本的には資本社会の一部であり、資本社会/ネット社会という大きな内部として作動している。たとえば「会社の顔」「家庭の顔」というような、二面性と考えることもでき、資本社会のルールが適用される。

だからそこに道徳、法は働いており、行き過ぎたものは規制される。しかし匿名が容易であったり、国内法がグローバルなネットでカバーできないなどのテクニカルな理由から、弱い拘束とならざるおえない。資本社会の本質である貨幣システムが作動しにくいのも、このような弱い秩序=セキュリティの不安からの面が大きい。



⑨ 資本社会とネット社会の「断絶」

しかし単にテクニカルな問題だけでなく、資本社会/ネット社会という大きな内部には強い「断絶」があるように思う。

ネット社会上の「想像的な」関係(=繋がり)が重視される理由は、資本社会の「想像的なもの」を貨幣価値という量へ還元され流通されるという強い象徴的な関係との反動して表れている面があるのではないだろうか。資本社会で失われた「繋がり」「心の交流」であり、「愛」であり、「ぬくもり」を求めて、人々はネット社会へやってくる。

そしてネット社会では外部から奪われるには敏感であるのに、外部(資本社会)の著作権を無視し、外部から奪うことはむしろ歓迎される。これは対等な関係でなく、とても都合のよいものである。ネット社会「内部」への帰属意識が強いほどに、資本社会が疑似「外部(現実的なもの)」の位置に置かれ、疑似「純粋略奪」が作動しているのではないだろうか。

それは「資本社会からみて」、ルールを守らずに、誹謗中傷、著作権問題など反抗、略奪、悪態、排他行動として表れる無法地帯である野蛮な場所として言われる所以である。



⑩ ネット社会という秩序

そしてこれは「ネット社会からみると」ネット社会は、無法地帯でなく一つの「内部」として作動していることを意味する。

たとえばこのような傾向は、ネット上の「空気読め」というフレーズにも表れている。日常生活では「象徴的なもの」として場の秩序を保つ「空気」は、無意識に作動しているために、そこに「空気」があることを気にしない。たとえは人混みをぶつからずに歩くくというレベルで、人々は気がつかないうちに従っている。

しかしネットではテキストのみのコミュニケーションであり、「空気のように」無意識であるはずの場の秩序を保つ働きが、意識上にのぼってきて、「空気読め」というフレーズが多用され、内部のコミュニケーションを成り立たせために、その場その場で、空気を読む努力が強いられる。

そのために2ちゃんねるを中心に、「ネットでは空気を読むことが難しい」という空気を読む」が求められる。「ネタにマジレスかっこわるい」とは「ネット上では全てがネタでしかないことを知り、コミュニケーションすること」ということである。

このような傾向はネット上の秩序の形成の困難とともに、それでも「内部」として作動しようとしていると見なければならない。たとえばのま猫問題でも、「VIPブログ」問題でも行われているのは「内部」はいかにあるべきか、という議論である。

資本社会からみると、無法地帯であり、野蛮な場所であっても、内部では一概にどこからでもかってに略奪すればよいということではなく、そして内部への帰属意識が強いほどに「内部」なりの秩序維持が試みられているのである。



⑪ 「電車男は本当にエルメスに恋をしたのか?」

たとえばボクは電車男は本当にエルメスに恋をしたのか?」と言った。

ネットという内部作動装置

電車男の感動とは、内部にいることの共有である。そしてこの内部を作動させているのは、エルメスを女神とすること、すなわち外部に疎外し超越させることである。「転倒」において神性は捏造される。しかしエルメスは一つのメタファーであるといえる。それは女性全般を意味し、さらには社会そのものを指す。

あるいは、ネット上に氾濫するヘイトスピーチも同様な構造をもつと言える。ネット上などのヘイトスピーチは、そこに差別する外部を想定することを意味する。それによって、場の緊張をやわらげ、発話者たちが内部にいることを強調する。そしてこのような「転倒」においてたとえば朝鮮人は〜だ。」などの神話が捏造される。

そもそもネット上はコミュニケーション不全の場である。このような場において、多くにおいて社会的な他者(有名人など)を外部として攻撃し、場の緊張を緩和し、内部として作動させる。繋がりを強化する。そしてネット上はうわさ話(神話)の宝庫である。

2ちゃんねる2ちゃんねらーの意味とは、「社会」と差異化した外部(すなわちそれはまた社会を外部とした「内部」)である。

なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050825

電車男はネット住人指向が強い。そのための本音はネットコミュニケーション上にあり、その繋がりながり(「想像的な」関係)に自分の居場所を見出したのである。そのときエルメス「外部(現実的なもの)」=資本社会にいる得体の知れない他者である。そして電車男たちは資本社会のエルメスを略奪することを画策したのである。それはネット内部の維持が重視されている。

のま猫問題も同様に2ちゃねらーはエイベックスを「外部」におき、その略奪を問題にしたのである。自分たちがエイベックスの歌を無断使用したにもかかわらずである。



⑫ 「なぜネットではただで労働が行われる」

さらにその傾向は、「ネットではただで労働が行われる」ということに表れている。そこで働いている「象徴的な」秩序は、未開社会的な「小さな内部」の交換様式である、互酬(贈与と返礼)に近いだろう。  

その対極において、なぜネットではただで労働が行われるのか、がある。ネットでは様々なものがただで手に入る。労働の成果がただで公開されている。労働の提供者が得ているものは、「まなざしの快楽」である。それは他者からの感謝であり、賞賛であるが、それは必ずしも実質的なものではない。それはそれは、「見られたい人から見られているだろう」という神性へと転倒されている。

このようなタダを享受する人の贈与への負債は、それが無数の人々に公開されていることで、「私にかかる負債はないほどに小さい」と見積もられる。そこには逆の意味で、「まなざしの快楽」(=みなが見ているだろう)が働いている。

なぜエビちゃんはかわいいのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060601



⑬ 資本社会とネット社会の「断絶」

先に表にネット社会を加えると以下のようになる。資本社会では特に強く「象徴的な」秩序が働き、「想像的な」関係を抑圧するのに対して、ネット社会では、「想像的な」関係(繋がり)を強く働き、「象徴的な」秩序は疑似互酬、ゆるい資本社会ルール、空気読むと、弱いものとなる。そして「外部(現実的なもの)」におかれ、資本社会とネット社会は(疑似純粋)略奪として「断絶」する。

  未開社会 資本社会  ネット社会 
想像的(愛)  身内の関係 消費の過剰  疑似対面会話
象徴的(秩序)  互酬(贈与と返礼)
掟  
商品交換(貨幣)
道徳、法 
疑似互酬、
ゆるい資本社会ルール
空気読め 
現実的(外部)  他の未開社会  資本社会外
自然と「動物」
資本社会




3 純粋略奪関係というバランス


⑭ 「Googleという立ち位置

しかしまたこのときに逆も発生するだろう。資本社会はネット住人をホモ・サケル(剥き出しの生(=主権権力の外に位置する者))」の位置におき、疑似純粋略奪を行う。「環境管理権力」的にネット住人が気がつかないうちに管理され、さらには誘導されている。たとえばボクたちは匿名でいるつもりでも、すべてのログは記録されている。さらには無料のもとに誘導されている。

そしてウェブ進化論梅田望夫ISBN:4480062858)の示すGoogleはまさにこの位置にいる。*2ネット住人にただで多くの資本社会からのものを提供しつつ、気が付かないうちにネット住人のものを資本社会売り払うという純粋略奪関係を促進する位置にある。

彼らは多くの知的財産を無料でネット社会に提供している。これによって資金を得ていた企業にとっては略奪に近い。またアフェリエイトはアクセス数を金額に買えるシステムである。ネット住人は気がつかないうちに宣伝させられており、そこに資本システムが動いていることに気がつかない。あるいは、Web2.0などにはネット社会の群衆の力を気がつかないうちに管理し、利用しようというものである。

このようなGoogleの方法論は、多くにおいて、ネット社会と資本社会の疑似純粋略奪の関係を「やわらかにつなぐ」ものであり、ネット住人の二重帰属性という微妙な立ち位置をくすぐる有用なものである。

ネット重視においては、お金を稼ぐのでなく、コミュニケーションによってネット内部に帰属する。お金はある意味でついでである。さらにいえば、ネットだけでは生きられないし資本社会住人として、小銭ぐらい稼いでもよいだろう、という温情がある。その意味でネット住人としてのプライドを傷つけずに小銭が稼げる。



⑮ 「VIPブログ」問題でみえた微妙な「境界」

「VIPブログ」問題では、そのアフェリエイトが問題になった。個人的にアフェリエイトで小銭を稼ぐにはもはや一般的である。また2ちゃんねるで盛り上がったネタはまとめサイトが作られることも、もはや定番であり、無数にある。同じように「VIPブログ」側は「想像的な」内部への帰属意識としてまとめサイトを作ったのだろう。

しかしまとめサイトという「内部」「共有財産」で、個人が勝手に外部へ「売り渡す」のは、略奪行為であると判断されたのだ。もしかしVIPPERというネット社会内部への帰属がつよい人々であったからかもしれないが、「ネット社会と資本社会の疑似純粋略奪関係」という「断絶」の根深さが示されている。そしてこのような問題は、「神的な」とても微妙な境界として、今後も回帰するだろう



⑯ 疑似純粋略奪関係というバランス

しかしこれはGoogleの戦略に反してはいないだろう。Googleが目指すべきは資本社会とネット社会の融合ではなく、「断絶」こそがメシの種なのである。「内部間の境界にお金儲けのネタがある。」というある意味で商売人の基本であるともいえる。

資本社会とネット社会は大きな内部として作動している。たとえば電車男にしろ、のま猫問題にしろ、「VIPブログ」問題にしろ、そもそもそこに強い「内部」があったというよりも、資本社会からの純粋略奪(贈与)という力があったから、内部が作動したのである。

「彼ら」は資本社会の住人でもあり、依存して生きている。資本社会が崩壊すれば、ネット社会は保たれないだろう。だからネット社会と資本社会の疑似純粋略奪の関係は、むしろ一つのバランスであると言える。そこにGoogleは鉱脈を見出したのだ。



⑰ 「想像なもの」と「象徴的なもの」の断絶

確かにGoogleが提供する「ブログを書きお金が儲かる。なんて、すばらしい」とも思う。しかしお金を儲けたければ、資本社会で労力を働かせる方が効率がよいのではないだろうか。

ボクは、資本社会とネット社会の断絶の構図で示したが、その本質は「想像なもの」「象徴的なもの」の断絶ではないだろうか。

本質は、「資本社会で失われた「繋がり」「心の交流」であり、「愛」であり、「ぬくもり」を求めて、人々は新たな「内部」を形成する」のである。そしてそこでには、ネットだけでなく実社会でも困難になっている「空気」の共有をなんとか乗り越え、大人になれない(去勢不全)ように振るまい、脱資本社会的な行為をすることを「踏み絵」として、生息している。資本社会側からみると「外部」「動物」であるが、彼ら「内部」ではとても「人間」臭い人々である。



⑱ 「資本の追求が重要ではない」

たとえばオタクと言われる「内部」も資本社会にありながら、二次製作であったり、コスプレ命であったり、ただで多くの労働が行われている。現在の資本社会の内部では多くのこのような傾向が見られる。

資本社会の最高の成功者となったビルゲイツ「どん欲」でありつづけ、多くの寄付をしたり、子孫に財を残さないと公言しているのは、まさに「資本の追求が重要ではない」ことを示すためである。彼はそれでも「内部」への繋がりを重視しているのである。彼の内部とはかつての「コンピューターオタク」であり、いまならネット社会に居続けることである。

たとえばホリエモン「お金で買えないものはない」といった。しかしそれは単なる貨幣至上主義だったのでなく、そこには「大金は特別なことはなにもない。あくまで手段でしかない。」というアイロニーが働いていたのではないだろうか。

そしてビルゲイツであり、ホリエモンであり、資本を追求することを目標にもち、成功しているときに、「資本の追求が重要ではない」が、資本社会では、資本の追求でしか「内部」を形成できないというパラドクスのもとにある。




4 透きとおった「帝国」


⑲ 「生権力」と疑似純粋略奪

成熟した資本社会の新たな権力として、フーコ-の「生権力」、そして「環境管理権力」が指摘されている。アガンベンアウシュビッツで殺されたユダヤ人たちをホモ・サケル(剥き出しの生)」と呼んだが、「生権力」は人を「剥き出しの生」のように管理する方法である。

環境管理型権力・・・人の行動を物理的に制限する権力、多様な価値観の共存を認めている。ネットワークやユビキタス・コンピューティングは、よく言えば、多様な価値観を共存させる多文化でポストモダンなシステム。しかし悪く言えば、家畜を管理するみたいに人間を管理するシステムでもある。

「生権力」・・・近代以前の伝統的な権力、たとえば王の権力は、人を恣意的に殺すことができる能力でした。それに対して、近代的な権力は、人間の生、つまり人が健康的にいきていくということに介入する。生かす権力。福祉国家的な体制。

自由を考える 東浩紀大澤真幸(2003) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040515#p1

ジョルジョ・アガンベン「開かれ―人間と動物」ISBN:458270249X)の中で「人間/動物、人間/非人間といった対立項を介した人間を産出する歴史化の原動力」としての内部(人間)/外部(動物)の境界生成を「人類学機械」として示した。

このように「外部(動物)」におかれた人はホモ・サケル(剥き出しの生(=主権権力の外に位置する者))」ISBN:4753102270 )であり、「動物」からの略奪であり、自然からの純粋略奪と考えることができるだろう。

ネットと社会はなぜ「断絶」するのか その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060607

そして「生権力」化する資本社会の「内部」に対抗して、資本社会を「外部」とする「小さな内部」を生みだす小さな「人類学機械」が作動している。この大きな「人類学機械」と小さな「人類学機械」の「断絶」が、互酬でもない、交換でもない、新たな「疑似純粋略奪的「断絶」という交通様式である。



⑳ 「透きとおった悪」

このような状況は、ボードリヤール「透きとおった悪」ISBN:4314005521)でも示されている。それが「悪」であるのは、資本社会「内部」から見た場合である。

「小さな内部」「小さな闘争」だからと舐めてはいけない。なぜなら闘争とは、大小にかかわらず、「私とはなにものである」をかけた、すなわち生死をかけた闘争であるからだ。主体が主体であるのは、内部に帰属することによって可能になる。私は何ものであるか、ということは、多重な内部への帰属による、他者との差異によるのである。

このような「歴史の終わり」に対して、ボードリヤール「透きとおった悪」ISBN:4314005521)の中で、「外部」がなくなるわけではない。「大きな内部」では自己免疫性が低下し、「外部」がウイルスのように進入してくると言った。その例として、フーリガンエイズ、コンピューターウイルスそしてテロリストなどを上げている。

このような状況は、まさにボクがいう、「歴史の終わり」の後の「小さな内部」による「小さな闘争」に対応させることができるだろう。オタク、引きこもり、コギャル、ニート、2ちゃねらーなどは、「大きなゆるい内部」からみれば、「歴史の終わり」の後に現れたウイルス化した「不気味な他者たち」である。

2ちゃんねるでも顕著であるように、社会=「大きな内部」ではおとなしい住人であるが、2ちゃんねる上では、「大きな内部」を否定する「不気味な他者たち」として登場する。それが「透きとおった悪」の姿である。

なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050825



21) 崇高な略奪

ネットにおいては、「象徴的なもの」が作用しにくく、「資本の追求が重要ではない」という「内部」への動きが加速し、大きな「人類学機械」と小さな「人類学機械」「断絶」が表面化する場である。

たとえばのま猫問題、「VIPブログ」問題のように、資本社会(象徴的なもの)からの抑圧が働くと、2ちゃんねらーという強い内部(想像的なもの)が浮上し、「断絶」が生まれる。そこでは、「象徴的なもの」は疑似的な「外部(現実的なもの)」へ排除されるために、「想像的なもの」の利己的な論理が働き、資本社会側からは不条理な「野蛮な」攻撃としてうつる。

またボードリヤールのいうように、このような「断絶」がすでに社会のあちこちで表出している。たとえばオウム事件であり、911NYテロである。「小さな内部」にとって「外部(資本社会)」の成員とは、「剥き出しの生」、非人間、動物なのである。そしてテロ行為は「外部」でももっとも大切とされる「生」を純粋略奪する行為であり、それ故に「小さな内部」では崇高な行為なのである。



22) 「大きな内部」内の「断絶」

このような状況を、大きな「内部」として示す。「象徴的なもの」は商品交換(貨幣)の重視、市場原理主義的に働く。それはグローバル化である。 「想像的なもの」は、「小さな内部」への帰属意識に求められる。そしてもはや大きな「内部」には「外部(現実的なもの)」はなく、 「想像的なもの」「象徴的なもの」、 小さな「内部」と資本社会の疑似純粋略奪的な「断絶」として表れる。それは二重帰属であり、明確な「断絶」でなく、「大きな内部」の中で 「透きとって」いる。

  資本社会  ネット社会
(小さな内部) 
大きな内部
想像的(愛)  消費の過剰  疑似対面会話 強い「小さな内部」
象徴的(秩序)  商品交換(貨幣)
道徳、法 
疑似互酬、
ゆるい資本社会ルール
空気読め 
商品交換(貨幣)の重視
市場原理主義
現実的(外部)  資本社会外
自然と「動物」
資本社会 疑似純粋略奪的な「断絶」
「想像的なもの」と「象徴的なもの」
小さな「内部」と資本社会
マルチチュード」と「帝国」
「透きとった社会」



23) 透きとおった「帝国」

さらにはこの「大きな内部」内の「断絶」とは、アントニオ・ネグリ「帝国」ISBN:4753102246)とマルチチュードにも対応するだろう。

やはりネグリの<帝国>は巨大な資本制システムそれ自体でとらえた方がいいです。そのシステムは、国家や国民という枠を越え出たものです。<帝国>というのは、一種の機械装置だと考えたらいいのです。

「帝国」のシステムの最大の問題は、それが個々人を寸断していくところにあるわけです。個々人を機械の一コマに固定して連帯させないようにする。

このような形で資本制システムが全面的に開花した<帝国>においては、プロレタリアートブルジョアジーと対決して闘うという構造は、事実上もはや通用しないのです。・・・このシステムを破壊する存在は、具体的に誰々であるという形ではつかめないのです。あるときはこういう人たちであり、またあるときは別のこういう人たちであるという具合に、その場合その場合に応じて特定はできても、一般的には特定できない。

しかし、確かなことは、システムの中でつくられながら、そのシステムの中から排除されていくような人たちは常にいつのです。こういう人たちの総体を、ネグリはとりあえずマルチチュードと呼んだのです。

マルクスを再読する−<帝国>とどう闘うか」 的場 昭弘 (ISBN:477270423X

ネグリ「帝国」では、マルクス主義的に「帝国」を克服するものとしてマルチチュードの登場が描かれるが、疑似純粋略奪的な「断絶」とはもっと混沌とし、「透明な」ものである。それは「想像的なもの」「象徴的なもの」の「断絶」であるが、「想像的なもの」「象徴的なもの」ボロメオの結び目によって決して離れることができない二重帰属性としてある。




5 純粋略奪の快楽


24) セカイ系という「断絶」「純粋略奪の快楽」

東浩紀セカイ系象徴界の喪失」と呼んだ。

哲学者の東浩紀は、ほぼ同じ状況を指して象徴界の喪失」と表現する。・・・東氏は、たとえばアニメ作品新世紀エヴァンゲリオンほしのこえなどに顕著な傾向として、登場人物の学園生活といった近景すなわち想像界と、世界破滅の危機といった無限遠の彼方にある遠景すなわち現実界とがいきなり短絡されがちである点を指摘する。

心理学化する社会」 斉藤環 (ISBN:4569630545

たとえば機動戦士ガンダムの敵(ジオン軍)は、言葉(イデオロギー)をもち、物語、背景がある。これはアムロたちとジオン軍はひとつの「内部」内の対立である。しかしセカイ系では敵が「見えない」ということに特徴があり、敵もまた同じ人なんだというヒューマニティーは排除されなければならない。

たとえばエヴァンゲリオン使徒最終兵器彼女ほしのこえの敵。敵はただ漠然と「不気味な者」として迫ってくる。セカイ系では、「想像的なもの(ボクたち)」「現実的なもの(敵)」の短絡の前に、まず「外部(現実的なもの)の産出」に特徴がある。

そして産出された「外部(現実的なもの)」「想像的なもの(ボクたち)」に短絡したとき、ボクたちにとって敵は「外部」であり、敵にとってはボクたちは「外部」である。そして純粋略奪しあう「断絶」が生まれるのである。

セカイ系の快楽の一つにその短い殺戮シーンにある。敵はただボクたちから「略奪」する。だからボクたちは敵を「動物」のようにただ殺戮する。この「断絶」「純粋略奪の快楽」が生まれる。



25) 「外部(現実的なもの)の産出」

ボクは、「大きな内部(帝国)」「象徴的なもの」「想像的なもの」の対立として示した。しかしこの本質は「現実的なものの産出」にある。

システムには必ず「外部(現実的なもの)」が必要とされる。しかし大きな「内部」「帝国」)には、もはや「外部」が存在しない。だから「疑似純粋略奪的な対立」とは、疑似的に「外部(現実的なもの)」を産出する運動としてある。

これは閉塞する社会にダイナミズムを与え続けるための自己言及的な運動である。強く「内部」を求めることは強く「外部」を求めることである。

セカイ系の物語は、「大きな内部(帝国)」で喪失している「外部の産出」、そして「純粋略奪の快楽」を疑似的に補完しているといえる。しかし「大きな内部(帝国)」は一種の機械装置として作動し続け、象徴界の喪失」はない。だから「象徴的なもの」「想像的なもの」「断絶」によって「外部」が産出されている。



26) 「断絶」はどこに見出されるのか

「小さな内部」の成員は、その「純粋略奪」行為によって、「小さな内部」に対して「想像的な快感(強い絆と自己充実)」を味わいながら、「現実的な快感(純粋略奪の快楽、閉塞からの解放感)」を味わうのである。

これは未開社会の快楽、集団的熱狂に近いだろう。「小さな内部」の神に捧げる崇高な行為である。そしてテロリストにとっては崇高は略奪である。さらにこれを多発する短絡的な少年犯罪につなげるのは強引だろうか。ただ殺戮する快楽。

資本社会はこのような快楽を祭りなどの一部にのみ抑制し、禁止してきた。しかし人間の「リアリティ」はいつもここにある。「純粋略奪の快楽」とはフロイト「欲動(リビドー)」である。「欲動(リビドー)」は社会の中で抑圧され、去勢される。

しかし人間の生きる力であり続ける。フロイトは欲動が「昇華」され、社会に貢献する創造活動の元となるといった。なにかを創造するとは、「外部(現実的なもの)」からの(アイデアが)おりてくる純粋贈与であり、略奪の快楽であると考えられるだろう。

だから問題は、「純粋略奪の快楽」「欲動(リビドー)」そのものではなく、「大きな内部(帝国)」の閉塞によって、その出口を見出すのが難しくなっていることである。「断絶」はどこに見出されるのか。

オタクの妄想(セカイ系)であり、ネット社会は、「大きな内部(帝国)」「断絶」することで、疑似的に「外部の産出」「純粋略奪の快楽」をうむ「小さな内部」として作動している。著作権の問題などあるが、これらは創造性を促進する比較的良性な「昇華」といえるだろう。



27) 「キレる」の社会的な全面化

たとえば格差問題とは内部内に上流と下流の固定化する「対立」にある。これはかつてのプロレタリアートブルジョアジーの対立を再現する。しかし「若者が格差に怒らない」といわれるとき*3、格差がないということでなく、「内部内の対立」から「内部間の断絶」への移行しているのだ。抑圧されたものは「怒る」のでなく、「キレて」いるのである。

かつての若者は怒っていた、という。そこには主張すべき「正義」があった。「正義」に対する信頼があった。・・・そして、場はより繊細になった。分かりあえないことを知っている。僕のことはだれにもわかってもらえないことを知っている。だからコミュニケーションの場で、その場限りの場を繕う。繕うことに疲れ、コンビニ、ファーストフードなど他者回避する。そして引きこもる。オタクる。それでも、集まらなければならない場での不安は、誰かを生け贄に外部へ排除し(イジメ)、内部という場を繕う。

だからマジで「怒る」人は、このもろさがわからない、そのべたさ、天然は、頭が悪いのであり、排除され、笑われ、いじめられる。格好悪く、馬鹿で、排除されるのだ。だからボクたちは「怒らない」のだ。

怒ることに尻込みしつづけた結果、抑えきれなくなったときに、もはや場も、「正義」も糞もなく、我を失い、ただただ感情的にキレるしかない。「怒る」のはコミュニケーションであるが、「キレる」はコミュニケーションの破壊であるということだ。

なぜ若者は怒らずにキレるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060412#p1

しかしこの「怒る」「キレる」の差は、「大きな内部」からみた見方だろう。たとえばテロ行為はテロ集団という「小さな内部」では論理的な理屈をもつ「怒り」である。その「怒り」「大きな外部(帝国)」からみると、利己的で、不条理なものであり、「キレて」いるとしか思えないのである。

たとえば中国や韓国の排日デモの見えなさもそこにあるのではないだろうか。彼らの親日の面を良く知っている。しかし突然「怒る」ときに、ボク達には彼らは「怒って」いるより「キレ」ているようにしかみえないのだ。そしてこの「断絶」をもとに日本の嫌韓などのナショナリズムは台頭しているのだろう。それは「外部(現実的なもの)の産出」である。

「キレる」の社会的な全面化とは、このような「断絶」の多発をもとに考えなければならないだろう。だから格差社会に怒らない若者」はいつもは「大きな内部」の成員として溶け込みながら、どこかの「断絶」「キレて」いるのかもしれない。それは、たとえば、のま猫問題や「VIPブログ」の問題、あるいは多発する短絡的な若者の犯罪などで「透き通った悪」として、表出しているのかもしれない。




6 終わりなき「断絶」


28) 東浩紀ポストモダンの二重構造」

「大きな内部(帝国)」の秩序維持としての権力は「規律訓練型」から「生権力型」へとむかう。「規律権力型」は内部の人々を教育し、内部秩序のための正しい人とする。しかし「生権力」は人々にどこで作動しているかわからない。それは「透きとおった権力」である。そして人々を「内部」の者としてでなく、あたかも「動物」のように、「外部」として扱う。

それは必ずしも悪いことではない。多くの面で、人々はそのように扱われることを望んでいる。そしてそのような「大きな内部」に溶け込むのである。

これは、東浩紀が示したポストモダンの二重構造」に近いかも知れない。*4

情報社会の二層構造(ポストモダンの二層構造」

東浩紀ised@glocomでの中心的なコンセプト。価値中立的なインフラ/アーキテクチャ(市場)の層と、価値志向的なコミュニティ(共同体)の層に大きく分けられることを示す。・・・ポストモダン社会においては・・・必要最低限の共通サービス(セキュリティ)の上に、消費者たちは自由に多様なコミュニティ・サービスを選択する、という二層構造を理念型とするようになる。中央集権的権力はそこでは機能せず、法・経済・政治などを統合してきた国家システムは弱体化する。

この図のもうひとつのポイントは、インフラに繋がっていないフリーライダーあるいは「テロリスト」の存在です。これは、アーキテクチャにタダ乗りし、アーキテクチャを蝕む「脱社会的」な成員の存在と、それに対するポストモダン社会の厳しい対応を示しています。

ポストモダン社会は多様な価値観の共生を善としていますが、そのかわりに、共生の基盤であるアーキテクチャを蝕むものに対しては断固たる態度で臨みます。テロのことを考えれば分かりやすいと思いますが、実際には、この集団の範囲は拡大する傾向にある。

たとえばいまの日本では、僕がウィニート」と呼んだ若者たちなどは、このような危険集団と見なされ始めています。ポストモダン社会は、その構造上、多様性の裏側に必ず排除の動きを抱えているので、排除の対象が不必要に拡大しないように監視する必要がある。(東)

情報社会の二層構造 http://ised.glocom.jp/keyword/%e6%83%85%e5%a0%b1%e7%a4%be%e4%bc%9a%e3%81%ae%e4%ba%8c%e5%b1%a4%e6%a7%8b%e9%80%a0



29) 東はなぜ「脱社会的成員」を例外的な存在としたのか

東の構造図(http://www.glocom.jp/ised/img/E2/slide/hazuma_PostModern2layer_large.jpg)を改訂する形でボクが考える「透きとおった大きな内部の断絶構造」図を示す。




東との違いは、東の構造が「脱社会的」な成員が「不必要に拡大しないように監視する」例外的な存在として示されているのに対して、ボクの示す構図は「脱社会的」な成員を日常的な存在として示している。この違いは小さいようで、実はかなり大きい。

東が「脱社会的」な成員を例外的な存在とするのは、東の動物化論」から来ているだろう。*5

2005年04月12日 メタと動物化と郵便的世界
「渦状言論」 東浩紀 http://www.hirokiazuma.com/archives/000135.html

僕の動物化論の基盤はここにあります。・・・無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁き・・・のような状態では、もはや何を主張してもだれかよりはメタレベルだし、他方ほかのだれかにとってはネタでしかない。そして、このような混乱した情報環境においては、結局のところひとは動物的に生きるしかないのだし、実際生きている、というのが僕の考えなのです。

ひとびとが動物化するのは、世界が郵便的だからです。近代社会が作り上げた巨大な郵便局(大きな物語)はいまや壊れてしまい、ひとびとは、・・・無限の伝言ネットワークのなか、メタレベルの志向の宛先を見失ったまま、局所最適に基づいて動物的に生きるしかなくなってしまった。これが僕のすべての議論の中核にある世界認識です。

東の二重構造によって、小さなコミュニティの成員は環境管理権力に管理されるシステムとして収まっている。「内面(主体)の自由/身体の管理」という動物化によって「実際生きている。」だから「脱社会的」な成員は「不必要に拡大しないように監視する」例外的な存在におかれるのだ。



30) 「断絶」の意味

それに対して、ボクが考えるのは、「想像的なもの」「象徴的なもの」「断絶」である。そして「断絶」によって、互いに相手を疑似的に「外部を産出する運動」である。

だから動物化とは、あくまで「大きな内部」側からみて、成員を「外部」へと排除することである「オタクが動物化している」というのは、「大きな内部」側から見て、オタクを「動物」のように扱うということである。そしてオタクという「小さな内部」からみると、オタクはとても人間くさい集団なのである。

しかしこの「怒る」「キレる」の差は、「大きな内部」からみた見方だろう。たとえばテロ行為はテロ集団という「小さな内部」では論理的な理屈をもつ「怒り」である。その「怒り」「大きな外部(帝国)」からみると、利己的で、不条理なものであり、「キレて」いるとしか思えないのである。

たとえば中国や韓国の排日デモの見えなさもそこにあるのではないだろうか。彼らの親日の面を良く知っている。しかし突然「怒る」ときに、ボク達には彼らは「怒って」いるより「キレ」ているようにしかみえないのだ。そしてこの「断絶」をもとに日本の嫌韓などのナショナリズムは台頭しているのだろう。それは「外部(現実的なもの)の産出」である。

ネットと社会はなぜ「断絶」するのか その5http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060611

オタクは、あるいはネット住人は、(「大きな内部」からみると)動物化しているし、(「小さな内部」からみると)ムラ社会化しより人間臭いくなっているという二重性が「断絶」の意味である。だから東のいう「複数のコミュニティ」「脱社会的な成員」は別の存在ではなし、「不必要に拡大しないように監視する」例外的な存在ではない。それは東の立場は「大きな内部」側に見ているからである。



31) 終わりなき「断絶」

「大きな内部」と融合する「小さな内部」は突発的にある「断絶」により「脱社会化」し、「透きとおった悪」として「大きな内部(帝国)」から「略奪」する。いわばその静寂に耐えかねたように「欲望(リビドー)」が突出し、祭りような興奮と共に「純粋略奪の快楽」をむさぼり、また「大きな内部」に静かに帰っていくのだ。このような「略奪」はすでに日常化しているだろう。

「大きな内部(帝国)」「環境管理権力」によって、そのような「悪」を管理しようと試みつづけているが、この「祭り」は突発的で混沌とし予測不可能で、ズレつづけていくのである。

これは対立ではなく、ただ「断絶」があり、そこにコミュニケーションは成立しない。だからそれが「悪」であるのは、「大きな内部」の論理でしかない。




7 YouTubeの事例


「スプー」祭り

「スプー」削除の舞台裏 YouTubeにテレビ局苦慮


YouTubeが運営する動画共有サイトYouTubeからこのほど、NHKの動画「スプーの絵描き歌」が削除された。NHK「当協会の著作権を侵害している」として米YouTubeにメールで削除を要請。翌日には削除されたという。

NHKの要請で削除されたのは、今年4月にNHK教育テレビが放映したおかあさんといっしょの一部。出演者が「スプーの絵描き歌」を歌いながら、番組キャラクター「スプー」の似顔絵を描くという内容の数分間の映像だ。・・・出演者の1人で「うたのお姉さん」こと、はいだしょうこさんが描いた似顔絵が「あまりにユニーク」掲示板やブログ、SNSソーシャルネットワーキングサービス)などで話題となり、多くのユーザーが視聴した。似顔絵を模写した絵やアスキーアート(AA)、パロディー動画、ゲームなども次々にネット公開され、人気を呼んだ。

YouTube著作権を侵害する動画の公開を禁じており、違法コンテンツの削除フローも徐々に簡略化しているようだ。・・・とはいえ、YouTubeの動画は、1度削除して終わりではない。公開されている間に動画をダウンロードし、ローカルに保存したユーザーなどが、削除を知るなり再アップすることが多いためだ。絵描き歌の動画も、削除後すぐYouTubeに再アップされ、現在も公開されている。

「違法コンテンツをすべて把握し、いちいち削除依頼を出すことは不可能に近い」――NHKとフジテレビはこう口をそろえる。NHK広報局YouTubeの動画を毎日1つ1つ確認するのは大変で、人員も足りない」とし、視聴者から通報があった場合のみ、違法かどうかを確認して削除依頼を出しているという。通報は今年に入って目立って増えているというが、増え続けるコンテンツに対応が追いつかない。

それでも指をくわえているわけにはいかない。フジテレビは、米国のテレビ局などYouTubeに抗議している団体の動きを注視しながら、訴訟を含めて今後の対応を検討するとしている。日本テレビ放送網「当社の番組がYouTubeにアップされていることは、明らかな著作権侵害と考えており、削除要請も検討している」とコメントした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060607-00000075-zdn_n-sci

Winny著作権侵害 特定へ


ファイル交換ソフトWinnyをめぐっては、映画や音楽などがインターネット上で大量にやり取りされ、著作権法に違反するとして問題になっていますが、Winnyは暗号を使っているため、誰が不正なやり取りをしているのか特定しにくく、決め手となる対策はありませんでした。

今回アメリカの情報セキュリティー会社が開発したプログラムは、映画や音楽などのファイル名を入力すると、Winnyの暗号を解読しながらネットワークを検索し、ファイルがあるパソコンのアドレスをすべて表示する仕組みになっています。つまり、誰が著作権のある映画などを不正にやり取りしているかを突き止めることができるのです。

プログラムは著作権保護団体に限って提供され、これまでに、日本国際映画著作権協会コンピュータソフトウェア著作権協会が来月以降利用し始めることにしたほか、JASRAC日本音楽著作権協会も利用する方向で検討しています。また、国内のインターネットプロバイダーでつくる団体は、すでに協力することを決めており、著作権団体から要請があった場合、パソコンのアドレスから利用者を特定し、ファイルの削除を求めることにしています。

著作権保護団体では「これまで匿名で行われていた不法行為が白日の下にさらされることになり、抑止効果が働くと期待しているが、悪質な不正については刑事告発をしていく」と話しています。インターネットでは、最近Winnyとほぼ同じ機能を持つ「Share」と呼ばれるソフトの利用も増えていますが、今回のプログラムは、近く「Share」にも対応できるようになるということです。

http://www3.nhk.or.jp/news/2006/06/09/d20060608000161.html



「スプー」祭りの「断絶」

ここにはボクが示した「透きとおった大きな内部の断絶構造」が示されているのではないだろうか。

登場人物は、「小さな内部」・・・ネット住人、「大きな内部」・・・テレビメディア、「ネット企業」・・・YouTubeである。

YouTubeWinnyを楽しむネット住人は「大きな内部」では秩序を守り暮らしている普通の人である。その彼らが「小さな内部」のネット住人としてYouTubeWinnyを通して、明らかに「大きな内部」の秩序である著作権保護に違反する行為を行っている。

この違法行為はテレビメディアへの反逆として行われているのだろうか。ネット住人には罪の意識は低いだろう。みんながやっていることだから、すなわちネットという「小さな内部」ではもはや伝統的、正統な行為である。これには負債感も感じない無意識な略奪(純粋略奪)がある。

さらに今回は「スプー」祭りと化しており、削除されたことがさらに祭りを盛り上げている。より大きな「純粋略奪の快楽」を生んでいる。

テレビメディアはこれに対応し、YouTube「削除依頼」を出している。YouTube「大きな内部」の一員であるので、その正統な処理として削除している。ただ穴の開いたバケツのように漏れが止まらないだけだ。

ここでYouTubeには確信犯的なものがあるのではないだろうか。「大きな内部」の論理に従い正統な処理を行いながら、「小さな内部」の論理ではこの違法が止まらないこと、そして止まらないことがYouTubeの成功につながることを知っているのである。このYouTubeの場合はあざとすぎる気もするので、法的に停止される可能性あるかもしれない。しかしGoogleなどのネット企業は「大きな内部」「小さな内部」の境界に位置取ることによって、利を得るのである。

テレビメディアは、Winny対策プログラムを導入するという。これはネット住人には監視されていることがわからないように監視する方法であり、「環境管理権力」を強化する典型である。(プライバシーの問題もありそうだが?)



まず「対立」でなく「断絶」であることを知ること

ではこの先はどのようになるのか。ネット住人はこれを回避し、同様に「犯罪」を繰り返していくだろう。Winny対策プログラム対策Winnyをネット住人は、罪の意識なく、楽しく、誇らしげに作り、そしてタダでばらまくだろう。それが「純粋略奪の快楽」である。

もはや「脱社会的」な成員=「マルチチュード」は東が考えるような「不必要に拡大しないように監視すべき」例外的な存在ではない。それは「大きな内部」の普通の人である。

そしてそれぞれの論理で対応してもいたちごっこである。まずはこれが「対立」でなく「断絶」であることを知ることである。

*1:なぜ「倫理的な開かれ」は困難なのか?http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051128

*2:Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか 「ウェブ進化論梅田望夫 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060213

*3:なぜ若者は怒らずにキレるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060412#p1

*4:[批評]東浩紀ポストモダンの二重構造」とその限界 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060117

*5:なぜ宮台は「世界」の中心で「魂」と叫ぶのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050502