なぜ人類は「断絶」を求めてきたのか?
「断絶(ファルス)」はどこにあるのか?
人は享楽を求める。享楽とは「外部」へ向けての負債感を持たない略奪(純粋略奪の快楽)である。人は享楽することによってこの世界に対して「リアリティ」を持ち続けることができるのだ。だから人類の歴史を語るときにどこに享楽する「外部」を見いだしていたか、すなわち「断絶(ファルス)」を見いだしていたかを考えることが重要となるだろう。
「自然」という外部
人類においていつの時代も「外部」とは「自然」である。たとえばライオンがシマウマを殺すことに善悪がないのは、人間集団(内部)の「外部」にあるからだ。人はいつの時代も「自然」を外部として純粋贈与(略奪)を繰り返してきた。環境問題を出すまでもなく、それは現代でも変わらないだろう。
自然とはこの宇宙全体であり、空間であり、時間である。自然はボクたちにたえず予測できない偶然性としての「外部」でありつづける。それ故に世界は「リアリティ」を持ち続けている。自然はあまりに強大で、強力であり、外傷(トラウマ)的である。そのための多くの神話において、神とは擬人化された自然であり、「断絶(ファルス)」であった。この「断絶」をもとに原始的な象徴的な社会システムは作り出されてきた。
キリストという「断絶」
社会化とは「自然」を人間集団内部から排除することである。それによって生存を確保することが目指される。たとえば高度に社会化した現代のボクたちも自然のただ中にいるが、地震や台風などの大きな災害以外では、自然の脅威を感じずに生きている。しかし社会から自然を排除しすぎると、「断絶(ファルス)」をどこに見いだすかが問題となる。
西洋において自然宗教からキリスト教への以降は、「断絶(ファルス)」が自然の擬人化として神から、人としてのキリストへと移行したことを意味する。すなわち自然の脅威が緩和された社会において、「断絶」が自然から人間集団の内部へ移動した。キリスト教はキリストを「断絶(ファルス)」として内部を形成し、異宗教、民族を「外部」として略奪を行ったのだ。すなわち「他者」の出現、それはキリスト教の「隣人を愛せ」に特徴的である。
なぜ人を殺してはいけないのに人は殺されるのか
「人を殺してはいけない」は当たり前のようであるが、ここで隠されているのは「人間とは誰か」ということである。人は人を殺すことで負債感を背負う。それは内部において「人を殺していはいけない」と去勢されているからだ。
アガンベは宗教、哲学などが、人間集団内に「内部と外部(人間と動物)」の境界を作りだす「人類学機械」として作動してきたという。奴隷、異民族を「外部」し、「動物」とすることで、人を殺すこと負債感は排除される。
アガンベンはアウシュビッツで殺された人々を「ホモサケル(剥き出しの生)」と呼んだが、外部に排除されたものたちを、動物としての生(剥き出しの生)であり、殺すことは狩猟であり、「自然」から略奪(純粋略奪)である。歴史上耐えることない理性的な集団による虐殺はこのように行われてきた。
ルネサンスという「自然」の再発見
なぜ西洋は成功したのかという歴史上のミステリーがある。知識、文化でイスラム圏におとり、起点になったルネサンスでさえ、ギリシャ文化の資料はイスラム圏からもたらされたという。それでもとにかくルネサンスは、中世のキリスト教中心から人間回帰のリアリズムへの熱狂として起こった。
宗教対立(断絶)の争乱もキリスト教の勝利に終わった中世末期に「外部」消失の閉塞が起こった。そしてルネサンスという熱狂はギリシャ文化への回帰による「外部としての自然」の再発見だったのではないだろうか。
「自然」の再発見とは、「自然」の客観的観測という「数量化」による征服(略奪)である。中世における計量、時間は日が昇ると起き、日が沈むと寝る程度のものであり、農作物などの計量には客観性が低かった。ルネサンス以降、街に時計台が建設され、計量は客観性を持ち始める。
ダビンチは徹底に自然を観察した。それは人間しかりである。ルネサンスの「人間回帰」とは、「自然としての人間(身体)」の発見である。すなわち「人間としての心」と「自然(動物)としての身体」という人間内の「断絶」、心身二元論である。デカルトのコギト、さらには機械論がこの流れにあることがわかる。
この熱狂は、科学革命、産業革命、相対性理論、情報化社会、さらには遺伝子工学へと現代においても継続されているのである。すなわち「自然」はいまもフロンティア(無垢)でありつづており、「数量化」は継続している。ボクはこれを「機械論の欲望」と呼んだ。*1
貨幣という「断絶(ファルス)」
数量化の成功の大きな要因は、資本主義社会への移行を促したことである。時間、物理量の客観的数量化は、貨幣交換の一般化に繋がる。さらに「自然としての身体」は労働時間という商品となる。
資本主義社会は、テクノロジーをベースにして、奴隷制、植民地化によって「人類学機械」を作動させながら、「自然」から略奪し、貨幣として流通させることで成り立っている。数量化としての貨幣が「断絶(ファルス)」と作動することで、資本主義社会という内部はなりたっている。そこには労働者という「自然としての身体」の「外部」への疎外も含まれている。これがブルジョアジによるプロレタリアートの搾取である。
三種類の暴力
アガンベンはベンヤミンの「暴力批判論」を元に三つの法の暴力をあげた。ひとつは法そのものに内在する「法を維持する暴力」である。法に従うときその人の個性などは無視され、理想的な人間の正しさをもとに「杓子定規に」行使される。これは心身二元の「心」側に「内部」の秩序を教育する暴力である。
二つ目が「外部」に法を立ち上げる原初の「法を惜定する暴力」(「神話的暴力」)である。法はなぜ正しいのかという根拠は、「1万円札という紙がなぜにそのような価値を持つのか」と同様にどこにも正統な根拠はなく、「内部」の論理としてのみある。だから法が「外部」に行使されるとき、それは「内部」からの暴力である。これは内部と外部(人間/動物)と境界を想定し、原住民を排除するものと同じ構造であり、「断絶」の暴力である。
三つ目は「内部」と「外部」の交錯する「グレーゾーン」にあらわれ、二つ目の「神話的暴力」を「脱惜定化する暴力」(「神的暴力」)である。この「グレーゾーン」では、「なぜ法は正しいのか」、「1万円札という紙がなぜにそのような価値を持つのか」という内部の価値は溶解する。たとえばライオンがシマウマを殺すときに、それが善であるか悪であるかいえないのは、それは「人間内部」の外にあるからだ。ここでは「責任」さえも溶解する。
ルネサンス以後の「自然」の数量化(テクノロジー)、そして資本主義はこの「グレーゾーン」の近辺で作動する。教会によるガリレオの幽閉、さらにはダーウィンの進化論の反響のように、数量化(テクノロジー)は旧来の価値(キリスト教)と衝突した。これは宗教的な価値を疑ったことであるが、現代において人間倫理とテクノロジーは衝突している。なぜならテクノロジーは「グレーゾーン」近辺で作動し、「神的暴力」によって、人間内部の価値(倫理)を解体するのである。
フーコーは近代の人間管理として、「規律訓練権力」と「生権力」を示した。「規律訓練権力」とは「心」に社会内部の規律を内面化することであり、第一の暴力(法を維持する暴力)に対応するだろう。
そして「生権力」とは、テクノロジーの発展によって、人に気づかれないうちに動物を家畜するように管理する。資本主義社会にとっての良好な労働力となるだろう「自然としての身体」を管理する。そして「グレーゾーン」で作動する。
漠然として不安な社会
東はフーコーの権力論を拡張し、「ポストモダンの二重構造」として示した。価値が多様化したポストモダンにおいては、プロレタリアート/ブルジョアジーの単純な対立は解体され、規律訓練型が機能しなくなり、「心」の層は寛容で自由になる。
それにかわり「身体」の層を管理する「環境管理権力(広義の生権力)」が強化される。だたプロレタリアート/ブルジョアジーの単純な対立は解体されているので、「ビックブラザー」によってでなく、誰もが誰かを監視する社会を生む。
人々はこれを必ずしも拒否しない。たとえば有名なマクドナルドの例では、「店に長居をするな」、「うるさくするな」と「心」に規律を押しつけられるよりも、椅子を固くすることで、気がつかないうちに店に長くいなくなる。あるいは監視カメラが知らない間に設置されている。あるいはブログにおいてマナーの悪いひとに「ネチケットとは」と教育するよりも、黙って設定によって排除する。
このような状況は、人と人の繋がりとしての内部が解体しテクノロジーが全面化することで「グレーゾーン」が浮上し、誰もが疑心暗鬼で、漠然として「不安」な社会である。
「歴史の終わり」
そして「外部」も不明確になり、「断絶(ファルス)」も見失われる。だから「断絶(ファルス)」を求めて、コギト(心身二元論)のパラドクスに陥る。
たとえば消費社会においては、労働者は積極的な消費者でもある。使用価値以上の商品を消費し享楽するとき、自らの身体という自然を労働へと疎外し、それによって生産された商品を消費することで享楽するという、「自らの尾を食い享楽する蛇」のパラドクスが生まれている。
このような姿は「歴史の終わり」と呼ばれる。もはや資本主義社会以上の社会形態は生まれないということである。だからワーカーホーリックであり、消費過剰であり、オタクやネット住人のような趣味への没入であり、大きな内部内で自ら「断絶」を内製し、享楽する「終わりなき日常」を生きるしかないといういわれる。
「戦闘美少女」という「断絶」
たとえば斎藤環のオタクへの言及は、内製される「断絶(ファルス)」の文脈で読まれる。
われわれのさまざまな欲望の中で、性欲こそがもっとも虚構化に抵抗するものであるからだ。性欲は虚構化によって破壊されず、したがって容易に虚構空間に移植することが出来る。
(戦闘美少女)ファリック・ガールが戦闘するとき、彼女はファルスに同一化しつつ戦いを享楽し、その享楽は虚構空間内でいっそう純化されたものとなる。・・・ファリック・ガールに対しては、われわれはまず彼女の戦闘、すなわち享楽のイメージ(リアリティ)に魅了され、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混同することで「萌え」が成立する。
過度に情報化を被った幻想の共同体で、いかにして「生の戦略」を展開すべきか。それが「不適応」に似て見えようとも、ファリック・ガールを愛することは、やはり適応のための戦略なのだ。・・・その解答の一つが「自らのセクシュアリティを利用すること」である。
斎藤は、「戦闘美少女」とはオタクの「断絶(ファルス)」にあるという。そしてここで外部へ疎外しているのは「自然」としての(自分の)性欲だろう。そしてそこでセクシュアリティを享楽(純粋略奪)するのである。
また現代の氾濫するセックス商品を見るとわかるように、セクシュアリティを享楽する傾向は現代社会において一般的な傾向である。たとえば女子高生のミニスカートには同様に意味がみいいだせる。
ネットという広大な「未踏の自然」
ネットとは新たな「新大陸」と言われる。あたかもそこに「未踏の自然」があるように錯覚される。ネットのフロンティア(無垢)性は人々のコミュニケーションそのものが作りだしている。だから人々は、「未踏の自然」を求めて、人々がより混み合うところを目指す。ムラ社会という「内部」と作ることで、断絶の向こうの「外部」作り出される。
たとえば祭りの対象、イラク人質、のま猫、VIPブログ、嫌韓などをファルス(断絶)のもと内部を作ること(祭りをする)ことで、それに反対する外部(イラン人質を擁護する、ネットを批判する知識人たち、ネットを商売の為にするあくどい企業たち、汚い韓国人など)が作り出される。すなわち自らが作り出す「未踏の自然」を自らが享楽する。
またネットのフロンティア(無垢)性はテクノロジーが作りだしている。最近、「ウェブ進化論」が話題になったが、ネットは「ゴミだめ」だという閉塞感に対して、その未来にはまだまた広大な「未踏の自然」があることを語ったためだ。たとえば「Googleが人間の手を介さずに情報操作する人類知の再編を行う」と行うというビジョンを示されたときに、「人間の手を介さない」とは人間の踏み込んでいない「未踏の自然」のメタファーであり、「機械論の欲望」の回帰である。
これらの意味でも「外部」が消失し閉塞する社会において、疑似「外部」を生みつづけるネットは新天地なのである。
「断絶(ファルス)」はどこに向かうか?
ルネサンス以降のテクノロジー至上の資本主義は、いまも「自然」を略奪し拡大しつづけていることも事実である。これは環境破壊とともに、下流あるいは、後進国の労働力という「自然としての身体」も略奪し、経済格差を生んでいる。だからポスト資本主義の検討は継続されている。たとえばマルクスはいまも可能性があるというときに、享楽する「外部」はどこにみいいだされているのだろうか。
*2
*1:Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その2 「機械論の欲望」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060214