なぜ数字で呼ばれると不快なのか

pikarrr2006-06-17

固有名という「強い名付け」と普通名という「弱い名付け」


住記ネットなど行政の管理がデジタルする中で国民総番号制へは強い反発があった。このような番号制の不快はなんだろうか。

これは固有名の議論に繋がるだろう。たとえば1万匹の「犬」がいて、そのうちの1匹を「ペロ」と名付けたときに、その犬は「ペロ」というたった1匹の犬になる。「固有名」は、対象に単独性(唯一性)を与える。単独性とは「内部」の成員によって「内部」に強く帰属することの宣言である。

対象を「犬」「普通名で呼ぶことも、「名付け」の一種ではある。対象を「犬」という同一性へ還元する。そして「1万匹の犬」というように同一性は反復される。固有名は反復を持たない「強い名付け」であり、普通名とは反復される「弱い名付け」であるといえる。

だから「あなたは56,739,035です。」と番号を付けられたとき、たった一人の「この私」という単独性は貶められる。反復の中におかれた私は、56,739,036でありえたかもしれないし、55,233,145でありえたかも知れないという「偶有性」に開かれる。

偶有性に開かれるとは、たった一人の「この私」が、蟻の群の1匹のように容易に代替がきく存在へと貶められることである。「この私」を愛してくれる家族や、友達にとっても他の誰かでもよかったのであり、また「この私」にとって特別な家族や友達も、たまたまの存在であり、誰でもよいのである。




数字による情報量の縮減


たとえば1万匹の「犬」は一匹ずつ違い、それぞれに「個性」がある。この1万匹の「犬」すべての個性を認識することはできるだろうか。「ペロ」だけならできても、ボクたちにはそれだけの認識能力はない。だから「犬」という同一性の反復に還元し認識するのだ。これによって犬それぞれの個性という大量の情報は縮減される。

ボクたちの限られた認知限界を有効に使うために、何の「個性」を優先し認識するか、という順位付けが必要である。人の名前、地名など社会的に「固有名」で呼ばれるものは、重要である故に限られた認知量を使う特権的な位置を与えられているのである。

そしてこの重要度は人の内部への帰属を支えている順序である。ボクの名前は「ムラタタカシ」で、出身は「ワカヤマケンナンブチョウ」で、「キムラケンセツ」につとめています。




機械論の欲望


ボクは、ルネサンスという熱狂は、数量化によるものだといった。「普通名の名付けは弱く、情報量が縮減されいる故に、認識、伝達に有利であり、その反復は無限に開かれる。数量化とはこの「同一性と反復」の力の行使である。

自然という「外部」の無限の混沌を、数学、物理学などの数字の体系によって、少ない情報量で記述し、伝達する。そして情報は人々のネットワーク的流され、分業され、「自然」は急速に征服されていったのである。

ルネサンスという熱狂はギリシャ文化への回帰による「外部としての自然」の再発見だったのではないだろうか。・・・「自然」の再発見とは、「自然」の客観的観測という「数量化」による征服(略奪)である。

この熱狂は、科学革命、産業革命相対性理論、情報化社会、さらには遺伝子工学へと現代においても継続されているのである。すなわち「自然」はいまもフロンティア(無垢)でありつづており、「数量化」は継続している。ボクはこれを「機械論の欲望」と呼んだ。

なぜ人類は「断絶」を求めてきたのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060616




貨幣の力


その中でもっとも強力な数字は「貨幣価値」である。「固有名」という内部への強い帰属から、普通名と数字(反復)への弱い帰属、さらには貨幣などの数字は普通名さえも解体し、貨幣という一つの価値の反復というより少ない情報量へ還元される。

それは単なる数字でありながら、「豊かさ」という物資を巻き込んでいく。そしてここではボクたち自身も「労働という商品」として巻き込まれている。現代ではデジタル情報として、世界中に張り巡らされ、高速で伝達され、「帝国」という巨大な資本制システムが形成されているのである。

数量化の成功の大きな要因は、資本主義社会への移行を促したことである。時間、物理量の客観的数量化は、貨幣交換の一般化に繋がる。さらに「自然としての身体」は労働時間という商品となる。

資本主義社会は、テクノロジーをベースにして、奴隷制、植民地化によって「人類学機械」を作動させながら、「自然」から略奪し、貨幣として流通させることで成り立っている。数量化としての貨幣が「断絶(ファルス)」と作動することで、資本主義社会という内部はなりたっている。そこには労働者という「自然としての身体」「外部」への疎外も含まれている。これがブルジョアジによるプロレタリアートの搾取である。

なぜ人類は「断絶」を求めてきたのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060616




倫理が溶解する「グレーゾーン」


固有名とは、内部への強い帰属であり、「私」の存在の意味、尊厳を保証する倫理へ繋がる。数字への還元は、倫理を偶有性(外部)へと開き、解体する。逆にいえば、この偶有的な世界(外部)で人々は内部秩序を構造化し、それぞれの尊厳を保証しあっている。

数字の体系を利用する科学は、当初古典物理学などのように決定論を指向した。そこではこの体系を支えているは「神」であるという、かつての宗教的倫理は保証されたていた。しかし統計学、進化論によって、世界は偶然で出来ているという非決定論へ向かう。

このような経緯からも数字への還元は内部秩序を外部との境界である「グレーゾーン」へ開いていき、倫理を溶解するのである。このために科学の発展(自然の数量化)は倫理と衝突しつづけている。




心身二元論のパラドクス


ボクたちは数量化によって自然を征服することに熱狂する。しかしボクたち自身もまた自然(外部)の一部なのである。ここに征服する私と征服される私の分離がおこる。内部の倫理的な「心」と外部へ開かれた「グレーゾーン」「自然としての身体」。これはデカルト心身二元論であい、「己の尾を食い享楽する蛇」のパラドクスである。

心身のその境界は曖昧である。たとえば遺伝工学、認知科学、心理学などによる自身の数量化は、アーキテクチャー(管理技術)として心を身体化してコントロールする。




「グレーゾーン」の全面化


数量化の発展により「グレイゾーン」は社会で全面化している。問題は、倫理が溶解しないように守らなければならないということではない。内部倫理とは歴史上の産物である。その時代の内部に適応しいて作られている。「グレイゾーン」が全面化し、内部倫理が溶解するとき、これからの「内部」はいかようにあるべきかという問題が浮上するのである。

たとえば最近のネオリベラルの台頭は「グレイゾーン」の全面化を背景しているだろう。古い内部秩序に拘束と感じ、新たな「内部」を見いだす「自由意志、自己責任」を主張する。それを可能にする「グレーゾーン」の全面化を支持する。しかし新たな「内部」とはどこにあるのか。自分たちで見いだす力があるのか。構造改革支持から格差社会批判への向かうときに、改革と保守のバランスのとまどいが表れているだろう。それが日本以外の先進国にも表れるとまどいである。
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