続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その1 環境問題という闘争

pikarrr2006-06-21

環境への漠然とした恐怖


環境問題にはわからないことが多々ある。一番は地球の温暖化はほんとに人間活動によるのか、ということ。これはまだ証明されていない。地球上の二酸化炭素の多くの動きはいまだ不明である。また温暖化した場合になにが問題なのか、たしかに現状維持はできないだろうが、環境変化と人間の順応を加味するとどうなのか。人間はさまざまな環境に適応し生きてきたのである。だからむしろ環境問題の根底にあるのは漠然とした恐怖ではないだろうか。




環境をコントロールしたい欲望


「環境にやさしくしよう」とは、そこに「やさしくすべき環境」があるといことであり、「やさしくすべき環境」をやさしくしようということ以上の意味はない。この「やさしくすべき環境」とはなにか。人間の生活に関係する「自然」である。この「自然」は人間のみが使うわけではなく、さまざまな生命と共有し、共存している。この「自然」の破壊は人間のみが生き残ることができない。

「やさしくすべき環境」とはそれが壊れると人間の生存が危ぶまれるような「自然」であり、またコントロール可能であるような「自然」である。「環境にやさしく」とは環境をコントロールしたい欲望である。




環境問題という闘争


環境と人間とはそのはじめから闘争としてある。たとえばマルクスが目指したようにマクロ的に一動物としての生命連鎖としての人間のあり方があったとしても、動物そのものは環境と闘争していることことにはかわりがないのであり、それが終わることがない。

人間の歴史のほとんどは太古から環境にひれ伏し、神聖化し崇めてきた。その後、文明化により内部から排除し、近代化で日常生活から隔絶され、資源として略奪する都合の良いシモベとなりさがったと思っている。

しかし「自然」とはこの空間、時間そのものとしてあり、人間の「自然への思い」を遙かに越えた次元で、不確実なものとして到来する。そのトラウマ的事実を無意識に隠蔽しているのである。そして環境からの反撃という漠然とした恐怖に、「調和」というより高度なコントロールしようという新たな闘争へ向かっているのだ。

環境のトラウマ性を隠蔽した調和としての環境問題の言説にはリアリティがない。新たな闘争として語るときに環境問題は欲望を想起し、リアリティを持ち得る。それはニーチェのいうディオニュソス的である。
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*1:参考 環境問題にはなぜリアリティがないのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040712

*2:画像元 http://www.okinawa-jma.go.jp/ishigaki/school/200312/jisin12.htm