続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その3 グレイゾーンという闘争の場

pikarrr2006-06-23

内部環境(グレイゾーン)の円滑なコントロール


「歴史の終焉」論、そして動物化「生権力」「帝国」などの現代論で示されるのは、外部の消失、外部の内部化である。外部は本当に消失したのか。内部化したのか。

環境問題とは、近代の科学技術は外部(自然)からの略奪に成功した。しかしあまりに計画性のなさから外部からの反動がおこりそうである。だからより計画的に内部環境をコントロールしなから略奪しようということである。

また生権力とは、近代以降、心身二元論によって自然としての身体を労働として取り出した。そこでは心も訓練しコントロールしてきたが、さらに身体(自然)のみをより管理し活用しようということだ。

ボクはこのようなコントロールされる環境を内部環境と呼んだ。この内部環境とはアガンベンのいう人間と動物、社会と自然のグレイゾーンである。そしてグレイゾーンにある内部環境(資源、労働力)の円滑なコントロールが、外部環境とのクッションになる。

外部環境との闘争をすべて内部へ引き込み、外部が消失し、内部の問題のようにふるまう。しかしこれは外部の消失でなく、太古からつづく自然(外部)との闘争の現代的な1形態でしかない。




数量化というグレイゾーン製造装置


このような内部環境(グレイゾーン)の拡大は、近代以降の数量化革命による。数字というシニフィアンがもつ力とは同一性と反復によって情報を縮減する力である。数字によって縮減された外部に関する情報は、高速伝達され、共有しあい、反復され、体系化されることで客観化された。神話でしか語られなかった外部は、予測可能で、コントロール可能な機械論的内部環境となる。

内部とは倫理的領域であり、外部とは偶然的領域である。科学によって開拓された内部環境は人間を身体として剥き出しにする。そこでは倫理は働きにくい。しかし科学はあくまで内部の論理である。だから内部環境は倫理的領域と偶然的領域のグレイゾーンなのだ。

三つ目は「内部」と「外部」の交錯する「グレーゾーン」にあらわれ、二つ目の「神話的暴力」を「脱惜定化する暴力」(「神的暴力」)である。この「グレーゾーン」では、「なぜ法は正しいのか」、「1万円札という紙がなぜにそのような価値を持つのか」という内部の価値は溶解する。たとえばライオンがシマウマを殺すときに、それが善であるか悪であるかいえないのは、それは「人間内部」の外にあるからだ。ここでは「責任」さえも溶解する。

ルネサンス以後の「自然」の数量化(テクノロジー)、そして資本主義はこの「グレーゾーン」の近辺で作動する。教会によるガリレオの幽閉、さらにはダーウィンの進化論の反響のように、数量化(テクノロジー)は旧来の価値(キリスト教)と衝突した。これは宗教的な価値を疑ったことであるが、現代において人間倫理とテクノロジーは衝突している。なぜならテクノロジーは「グレーゾーン」近辺で作動し、「神的暴力」によって、人間内部の価値(倫理)を解体するのである。

なぜ人類は「断絶」を求めてきたのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060616




純粋略奪の快楽というトラウマ


たとえばエイズは人がアフリカの未開を開拓することで人に感染したと言われている。人間の歴史は、自然との関係が下部構造としてあるということは疑えない事実としてある。しかし自然はいつもただそこにあり、自然と対等でありえないシミのような存在の人間にできるのは「闘うふり」のみであり、終焉宣言などできない。だから調和でも、終焉でもなく、「環境コントロール技術のありようという新たな闘争なのだ。

人は「闘い」「敵」の仮想性から逃れることはできない。そして「闘う」快楽から逃れることもできない。人は自然との闘争を望んでいる。自然との闘争にこそ純粋略奪の快楽があるからだ。それがまさに人間存在のトラウマである。