続々 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか

pikarrr2006-06-26

テクノロジー「確実性」「高速化」

ある日ボクは昼下がりの小さな公園にいた。親たちが公園の隅で立ち話しを続けるなかで数人の子供たちがやっと補助車輪がとれたのだろう。やや危なっかしい操作で小さな自転車で小さな広場のまわりを懸命にぐるぐると走り回っていた。その生き生きとした姿は今にも空へ飛び上がりそうな勢いである。

たとえばこのような「速度の快楽」はバイク、車を運転する人なら感じたことがあるだろう。速度を上げていくときのスリル、快楽、超越感。これは「フロー体験」の一種ではないだろうか。・・・

このような「フロー体験」は単に乗り物の速度だけのことではない。ラカンにとってコミュニケーションとはすれ違うことで成り立っている、「他者」とのコミュニケーションはかならず失敗する。(ラカン的にはコミュニケーションとは言わないだろうが、)このような「テクノロジーとのコミュニケーション」は必ず成功する。それはベイトソンのコミュニケーション論の「ゼロ学習」*1である。

この確実性がテクノロジーの応答性の速度を保証するのであり、すべてのテクノロジーは人の能力を機械論的に擬似拡張する可能性をもつ。そしてそこには「無垢への欲望」が生まれる。たとえば一般的に子供もパソコンは大好きである。学校教育でも楽しい授業の一つではないだろうか。キーボードを押すと即座に文字が表示される応答速度の快楽。それは大人でも同じである。パソコン能力としての応答性の速さ。しかしこのような「ゼロ学習」的反応そのものはすぐに退屈な反復になるだろう。この応答の速度が継続されるときに、「フロー体験」としてのドライブ感を生むのである。

続 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050624




数量化の力はグレイゾーン(内部環境)を開拓する


ここで示したテクノロジーコミュニケーションの「確実性」「応答性の高速化」とは、近代の数量化の力による。

このような内部環境(グレイゾーン)の拡大は、近代以降の数量化革命による。数字というシニフィアンがもつ力とは同一性と反復によって情報を縮減する力である。数字によって縮減された外部に関する情報は、高速伝達され、共有しあい、反復され、体系化されることで客観化された。神話でしか語られなかった外部は、予測可能で、コントロール可能な機械論的内部環境となる。

内部とは倫理的領域であり、外部とは偶然的領域である。科学によって開拓された内部環境は人間を身体として剥き出しにする。そこでは倫理は働きにくい。しかし科学はあくまで内部の論理である。だから内部環境は倫理的領域と偶然的領域のグレイゾーンなのだ。

続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その3 グレイゾーンという闘争の場 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060623

車を飛ばすスピードの快楽、PCを操る快楽、小さな子供が自転車を飛ばす快楽とはなにか。機械とは身体の拡張であると言われる。たとえば車は速さ、力を拡張する。PCは頭脳を拡張する。ネットはコミュニケーション速度を拡張する。

この拡張とは、外部環境の開拓である。偶然的、混沌の外部環境を、フォーマットし内部環境(グレイゾーンへ)へと転換する。




グレイゾーンで身体と機械は融合する


しかし身体の拡張であるというときには、身体という環境そのものも開拓されている。心身二元論的に身体は「剥き出しの生」として分離され、機械化される。そしてグレイゾーンにおいて、テクノロジーと身体は融合され、「心」によってコントロールされる。

このようにテクノロジーを使う快楽は、機械化され拡張された身体がいままで到達し得なかった領域(外部=無垢)を征服し、コントロールする快楽である。そしてこれは外部環境からの(純粋) 略奪であり、略奪する快楽である。
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*1:ある刺激に対する反応が一つに定まり、刺激−反応が単純な一対一の関係に固定された状態

*2:デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040718

*3:続 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050624