なぜ世界は数学で記述できるのか

pikarrr2006-06-27

数量化の限界


アキレスと亀パラドクス」*1が示すのは距離を分割することの限界です。たとえば椅子に座る私がベッドに向かうときに、その空間を無限に分割可能ならば、同様に私はベッドへ到着できません。距離が量的に分割可能なら、無限回分割することも可能であり、いつまでもその中に空間に閉じ込められてしまいます。

簡単には質を量に還元することの矛盾がここに表れていると言えます。分割とは同一性の反復であり、数量化というあくまで一つの不完全な認識方法であるということです。

では数量化は単なる人間の作りだした認識方法であり、「ものそのもの」とは対応していないのか。このようなパラドクスに反して、「なぜ世界は数学で記述できるのか」、という疑問があります。




反復可能性という力


ボクは数量化による客観化の力を、情報を縮減する力といいました。それによって高速伝達され、共有され、反復され、体系化され、客観化される。

数字というシニフィアンがもつ力とは同一性と反復によって情報を縮減する力である。数字によって縮減された外部に関する情報は、高速伝達され、共有しあい、反復され、体系化されることで客観化された。神話でしか語られなかった外部は、予測可能で、コントロール可能な機械論的内部環境となる。

内部とは倫理的領域であり、外部とは偶然的領域である。科学によって開拓された内部環境は人間を身体として剥き出しにする。そこでは倫理は働きにくい。しかし科学はあくまで内部の論理である。だから内部環境は倫理的領域と偶然的領域のグレイゾーンなのだ。

続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その3 グレイゾーンという闘争の場 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060623

これはまさにホパーの反復可能性に対応します。科学とは反復可能性があるものであるのでなく、反復可能性が科学の力なのです。それが正しいと限らなくても、高速の反復可能性が近似的に、現実に近づいてていきます。古典力学相対性理論量子力学の近似値であったように。

それでも科学が「ものそのもの」を記述しているとは言えません。カントのいうように人は「ものそのもの」には到達できず、「客観的」「現象」を見いだすのみです。ゲーテルの不可能性が示すのはこのことでしょう。内部にいるボクたちは内部の正しさを内部の論理でのみしか示し得ない。

反証可能性

ある仮説に対し、実験や観察によってそれが間違っていると証明できる(反証できる)かどうか、という概念。科学哲学者のポパーが科学と非科学の境界基準として提唱したもので、ポパーは、科学理論は反証可能性を持ちながら未だ反証されていない理論のみ生き残る「暫定的仮説」としての性質を持つとした。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BF%BE%DA%B2%C4%C7%BD%C0%AD




科学技術は「ものそのもの」を開拓する


しかし科学技術は思弁的なものではありません。科学が体系化されるのはいつも実働の後です。産業革命は体系化され科学によるものでなく、技術的な試行錯誤が先行した結果です。科学技術は「ものそのもの」を記述しているかの前に、科学技術は内部を越えて、外部へ作用し開拓します。

たとえば人類が月へ到着したのは人類の妄想ではなく、科学技術が近似的であろうが、実働的に外部とコミュニケーション可能であることを示しています。

すなわち人が「ものそのもの」を認識できなくとも、近似的に外部環境に接近し、コミュニケーションして開拓します。ボクはこの開拓された外部環境を内部と外部の「グレイゾーン(内部環境)」と呼びます。近代以降、科学技術という反復可能性の力は「グレイゾーン(内部環境)」を拡大し、外部から「資源」を略奪し、内部を物質的に豊かにしています。

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