なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか

pikarrr2006-07-02

id:genesis
「なぜデスノートセカイ系ではないのか」*1 *2を拝読いたしました。セカイ系の構図把握については異論無いのですが,最後に展開しておられる『デスノート』への適用については不明瞭な印象を受けました。

pikarrrさんは「外部の産出、そして強い内部の再生とともに...」と立論しておられますが,これは作中の時間経過によってセカイ系から逸脱し,従前の二極構図へと回帰していったという趣旨のものなのでしょうか。あるいは,本作はセカイ系的構図の存在を前提としつつ,それを乗り越えた「ポスト・セカイ系であることを主張されるのでしょうか。

前者の場合,ノートという〈断絶〉の機能は,アンチヒーロー(エル)の出現によって変化が起こったものなのかのか,ストーリーとの関連が気になります。後者の場合には,新たな構図をどのように捉えるのが適切なのでしょうか。

私自身も『GUNSLINGER GIRL』を素材にして類似した議論を提供したことがありますが,未だ適切な結論を得られておりません。*3

本稿に関して疑問を提起いたしましたが,これは私も長らく考えあぐねているところであります。忌憚なくご意見をお聞かせいただければ嬉しく思います。

pikarrr
閉塞した「大きな内部」からの解放

はじめましてgenesisさん。セカイ系は、私的な日常(想像界)×社会領域(象徴界)×ハルマゲドン(現実界)において、社会領域(象徴界)が消失すると言われていますが、ボクはむしろ無理矢理にでもハルマゲドン(現実界)を産出しようとする表現=「外部産出型」だと考えています。

たとえばヒーローVS敵では、敵は社会領域(象徴界)の外(現実界)にいなければいけません。でなければ本来の闘争は可能になりません。しかし現代のポストモダン社会では、敵を社会領域(象徴界)に回収してしまう。敵も親もいれば、子供もいるし、さざまな背景をもち同じように悩みながら闘っている。

すなわち社会領域(象徴界)が大きくなりすぎて、全てを回収し、そして外部(現実界)が消失します。このようなヒューマニティーなドラマは多くありますが、では閉塞した「大きな内部」でボクたちは動物化して生きられるかというと、そうはいかない。

セカイ系が目指すのは、外部にいる敵(現実界)です。なんの背景もなくただ不気味に殺戮にやってくる敵です。そしてこちらもなんのためらいもなく殺す。それが享楽(純粋略奪の快楽)です。「人間」であるためには享楽が必要なのです。これは人は人殺しを望むということではありません。人殺しとは内部で行われ、罪悪感がともないます。人は外部=フロンティア(新大陸)を征服(略奪)することを望むのです。

「戦闘美少女」という外部産出装置

このような外部にいる敵(現実界)を喚問するのが「断絶(ファルス)」としての「戦闘美少女」です。「戦闘美少女」の無垢なヒステリーとセクシュアリティと道具性は、すなわち彼女のもつ「狂気」は、ボクたち(内部)の達し得ない不気味な「外部」を生み出す装置なのです。

たとえばボクはハードゲイHGも同様な位置にあると言いました。彼の「フォ〜」というヒステリーとハードゲイというセクシュアリティと道具性は、人々のまえに「狂気」を提示します。彼の向こうにボクたち(内部)の達し得ない不気味な外部があるように錯覚し、欲望するのです。だから彼は空気の読めない狂気を演じ続けなければならない。

様々な「外部産出型」物語

ポストモダンという「大きな内部」への閉塞感は一般化していますので、このような「外部産出型」物語はさまざまなに生まれています。先にお笑いの狂気化もそうです。たとえば有名なものは映画「エイリアン」です。エイリアンは外部であり、人間と倫理、情なく、ただ殺し合います。背景がない外部であるから大きな恐怖を生み、それをただ殺すから大きな快楽を生む。この物語の「断絶(ファルス)」の位置にも「戦闘美少女」リプリーがいます。

「リング」着信アリなどが国際的にニーズがあるとすれば、日本の幽霊話がもともと「外部産出型」の構造を持つからではないでしょうか。この当たりは様々に語られている「日本文化が本来もつ閉塞性とスノビズムとその継承としてのオタク文化につなげることができるかもしれません。

外部の産出は強い内部を産出する

デスノート「外部産出型」の構図を持っていますが、それを利用して、ヒーローVS敵を復活させています。それは、外部が産出されることは、それに相対化する強い内部が産出する効果も期待されるからです。たとえば先に示したように、「リング」着信アリでは、負の贈与の連鎖によって、原初的な社会の形成過程が再現されています。

これは「ポスト・セカイ系というよりも、様々な「外部産出型」物語の多様性を示しているのだと思います。セカイ系はオタクの特徴であるセクシュアリティへのこだわりによって、「外部産出型」純化させたものだと思います。

デスノートの作中の時間経過によっての変化は、想像するしかありませんが、ご存じのように少年「ジャンプ」は毎週の人気投票がきびしいので、自転車操業的なものでありますので、作者もどこまで全体を俯瞰して作っているかは疑問です。

*4