なぜ純粋略奪は快楽なのか

pikarrr2006-07-06

落とし物は「純粋贈与」ではない

(1)純粋贈与は、贈与の循環がおこなわれる円環を飛び出してしまったところにあらわれる。それは、贈り物が贈られその返礼の品が返されるという、モノの循環システムを破壊してしまう。

(2)贈与では物質性を持ったものを受け取る。しかし、純粋贈与ではモノを受け取ることを否定してしまう。モノの物質性や個体性は、受け渡された瞬間に破壊されることを望むようになる。

(3)贈与では、贈り物がなされたことを、いつまでも人は忘れない。そのために贈与には返礼が義務となるのである。ところが純粋贈与では、贈ったことも贈られたことも、いっさいが記憶されることを望んでいない。誰が贈り物をしたのかさえ考えられないようにして、純粋贈与はおこなわれる。それは自分がおこなった贈与に対して、いっさいの見返りを求めないのである。

(4)純粋贈与は目に見えない力によってなされる。その力は物質化されない、現象化されない。最後まで隠れたまま、人間に何かを贈り続けるのである。


「愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュ〈3〉」中沢 新一 ISBN:4062582600

落とし物は「純粋贈与」であるという勘違いがある。落とし物は「純粋贈与」ではない。落とし物を交番に届けるのは、それが誰かのものとわかっているからだ。森の果実をもぎって、交番に届けない。誰のものでもないからだ。「誰か」のものであるというときに、そこに負債感が生じるのである。それが「内部(コミュニティ)」の出来事だからだ。

人間同士の間では、「純粋贈与」は不可能な次元にある。たとえば太陽の光であり、空気が「純粋贈与」である。




「純粋贈与」という外部


少し前にテレビで見たが、小学生に命の尊うさを学ばせるために、ニワトリを飼うというのがあった。買うだけならどこの学校でもやっているが、最終の目的が大きくなったニワトリを自分たちで殺し、それを食べるというものだ。

ここでの問題は、ボクたちは様々な生き物を殺して食する。大好きは焼肉の裏で、確実に大量の牛やブタ、鳥が殺されているのだ。現代ではそのような死は隠されている。この学校の試みは「死」を現前化させることで、命の尊うさを学ぼうという趣旨だったと思う。しかし結局のところ、そのニワトリは殺されなかった。子供達が嫌がったのと、親たちも反対したためだたように思う。




「純粋贈与」による内部(コミュニティ)の再生産


「純粋贈与」とはそもそも「空気」のような負債感が生まれないものである。空気を吸っていることにいちいち感謝する人はいない。しかし古来、人が原始的な自然神を信仰してきたのは、まさに「純粋贈与」への気づきと、感謝である。

「純粋贈与」とは単に「めぐみ」だけではない。なぜなら自然は人間の価値の外にあるからだ。空気が強く吹けば台風、太陽が強く照れば日照り、雨が大量に降れば洪水、その強度に意味はない。「純粋贈与」が天の恵みであるか、天災であるかは、人間の価値でしかない。

だからこの「外部(純粋贈与)からの衝撃」にいかに適応するかが、人間が歴史である。そして「純粋贈与」への敬意は内部を作る。天の恵み/天罰があり、それを分けることで、「贈与」は開始される。それは内部(コミュニティ)の始まりである。だから「純粋贈与」への自覚は絶えず、内部(コミュニティ)の結束力を生む。すなわち「純粋贈与」は内部形成のドライブなのである。





「自然のめぐみ」から「管理された商品」


動物の「死」とは「純粋贈与」である。だからこの授業の目的は「純粋贈与」の残酷さ、尊さを知ることで、「内部(社会)」の意味をしることだと言える。このような経験は確かに貴重なものになるだろう。

しかしボクたちに迫っているのはむしろ家畜の「死」を知るよりも狂牛問題などの食の安全性の問題である。「自然のめぐみとして牛の命をいただく。感謝!」ではすまない。食肉の生産の中で人工授精、飼育、生産、商品交換をいかに管理するか。それが問題である。

純粋贈与が根源的に消失しているわけではない。地球環境は空気を浄化し、太陽からは光が降り注ぐ。問題は贈与から資本主義的な貨幣交換への転換によって、空気、太陽光でさえも、日当たりの良い環境、空調と商品化されている。それらを商品化するのが管理技術である。

「自然のめぐみ」から「管理された商品」へ。ここでは、食の安全が脅かされてるから管理が求められるのか、管理されることが安全への気づきを掘り起こすのか、相補的な関係にある。それが純粋贈与の存在を見えないものとしている。




純粋略奪の快楽


純粋贈与の到来は、、内部/外部の二項対立を生みだす。そして外部へ対峙すること、この未知を前にした身震い、そして死ぬ気でむかう必死さの中で人間は実感(リアリティ)をえる/でしか得られない。それが人間が外部へ向かう略奪略奪の快楽(享楽)である。

人間は、外部からの衝撃にいかに適応するか、として文明を発達させ、懸命に生き延びてきた。贈与社会ではこのような純粋略奪の快楽は抑止されてきた。それは内部の掟以上に純粋贈与の到来によってである。強い掟によっての集団性によってしか、外部(純粋贈与)からの衝撃に耐えることができなかったからだ。

科学技術は内部から外部への反撃である。科学技術は内外の対立を溶解し、内外の境界に「グレーゾーン」を拡大する。このグレイゾーンにおいて資本主義の貨幣交換は作動する。そしてここでは純粋略奪の快楽をドライブに作動している。そして解放された略奪略奪の快楽(享楽)は強迫性を増している。

なぜ人間は破滅的に豊かさを求めるのか。「安全は危険を生み出すためにある」という「安全への強迫性」に見いだせる転倒が生まれる。さらに「環境問題は自然の恵みである。」排除したはずの純粋贈与が回帰しくるのだから。「危険こそ安全(安心)である」という逆転倒である。遺伝子改良、そしてネットテクノロジーなど、テクノロジーの過剰の意味もここに見いだせる。




純粋略奪の快楽はどこへ向かうのか


ニワトリは殺させかなった子供達。彼らは略奪略奪の快楽(享楽)することが怖いわけではない。ニワトリは「ニワトリさん」なのである。すなわち動物とはペットであり、内部に回収されている。それは「殺人」に近い。これは転倒であるが、純粋贈与が消失した社会とはそのようなものである。

にも関わらず彼らは資本主義社会に生きて、略奪略奪の快楽(享楽)を増殖させているのである。それはどこに向かうのか。すなわち彼らは「外部」をどこに見いだしていくのか・・・
*1