なぜ限りなく「純粋な悪」は存在しえるのか

pikarrr2006-07-07

「負債の循環」という内部


「悪いこと」をするときにはほとんど自己正当化の心理が働いている。「本当の俺も悪いこととわかっているし、そんなことはしたくはないが、外からなんらかの圧力を受けたから、仕方がないんだ。」親が悪い、先生が悪い、社会が悪いなど。

これは「負債の清算である。社会の中で循環する「負債の連鎖」が私に回ってきたので、清算するために次へと送り返しただけ、ということだ。しかし悪いことをしたあとに「負債の清算清算されることはなく、罪悪感が残るのだが。




「略奪」「純粋略奪」


このような「悪いこと」とは、負債の連鎖内部の他人からの「略奪」である。逆に言えば、内部(社会)とは負債の連鎖の作動が作動する範囲であるといえる。

それに対して純粋略奪はこのような連鎖の外にあり、略奪を行っても負債感は生まれない。この違いは略奪が内部(社会)内にあるのに対して、純粋略奪は内部(社会)と外部の間で行われるためだ。

その典型が自然からの略奪である。野性の木の実を取ることに負債は生まれない。それは「自然のめぐみ」であり、「純粋贈与」であり、善悪の価値の外にある。「自然のめぐみ」なくしては人は生きられないし、内部(社会)は維持されない。内部を運営するためには必ず外部からの純粋略奪が必要とされる。



貨幣交換ネットワークというグレイゾーン


現代の資本主義社会では「貨幣交換」のネットワークによる「市場」が全面化する。「貨幣交換」とは互いに負債感がわかない「平等」は行為である。このような「貨幣交換」のネットワークは、「負債の連鎖」が形成する内部の繋がりを希薄化し、また自然からの純粋略奪を極地におく。

たとえばボクたちの生活に欠かせない「光源」は電気による。電気は発電所で作られる。その多くは火力発電所として石油を燃料としている。石油は多くは中東で産出されている。すなわち中東で自然から純粋略奪された石油が貨幣交換のネットワークの中で電力として送られてくる。

これは「分業」化された社会である。分業に必要なことは正確なコミュニケーションである。標準化、数量化による管理が分業を可能にする。全てが「同一性の反復」への還元される。

「光源」を手に入れるのは貨幣交換に参加するだけで、そこには負債感も、快楽も「同一性の反復」によって抑圧される。だからこのような「貨幣交換」は内部と外部の境界にあるグレイゾーンである。

たとえば野性のニワトリは外部にあり、飼育されたニワトリはグレイゾーンにあり、ペットの「ピーちゃん」は内部にある。飼育されたニワトリを略奪されることはルール違反の窃盗であり、そしてペットの「ピーちゃん」を略奪されることはルール違反の窃盗以上に人の気持ちを踏みにじる行為であり大きな負債感が生まれ、野性のニワトリの略奪は負債感なく純粋略奪される。




戦争の「悲惨さ」


かつては外部は異教徒、グレイゾーンは奴隷(下層階級)、内部は市民であった。戦争は内部と外部の間で行われ、動物の狩りに近い純粋略奪の快楽があった。近代でも絶対主義下では外部(原住民)への純粋略奪が行われた。

近代において、境界は人間内に進入した。外部は野性の人間(身体)、グレイゾーンは管理された人間(身体)=分業に活用される労働力、内部は固有名という唯一の私である。世界大戦では内部内の人間同士で行われたのであるが、兵士は分業され、グレイゾーン(管理された身体)として機械と並列に扱われた。しかしその「死」が母国に帰ったとき、内部の死として扱われ、「略奪」しあう「悲惨」があらわになったのだ。




「純粋な悪」は存在しえる


中国でコピー製品が反乱するのは知的所有権という価値を知らないからであるが、日本が自分たちとは関係がない外部にあるために、純粋略奪し罪悪感がわきにくいのだろう。

「貨幣交換」は、本来的に人間にそなわっているものではない。「同一性の反復」によってすべてを流通される工学的なグレイゾーンと、平等と同じく高い「教育」を必要とする。だから教育を受けなければ、外部は野性の木の実同様に純粋略奪の対象となる。

コロンブスアメリカという新大陸を発見した」とそれまで「人間」はいなかったように「罪悪感なく」語られ続けている。「悪いこと」をすると罪悪感をもつのでなく、罪悪感をもってしまう行為が「悪いこと」ということであり、そして罪悪感が存在しない限りなく「純粋な悪」は存在しえるということだ。

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