なぜ贈与は暴力なのか

pikarrr2006-07-11

想像的な贈与


現代は貨幣による等価交換の世界であるといわれる。しかしそれでも贈与の世界でもある。一般的に贈与は親しい人の間で行われる。家族、友達、恋人ではお金のやり取りでなく、貸し借りでもなく、見返りのない贈与が行われている。

最近ではネットでも贈与の構図が働いている。たとえば2ちゃんねるはいろいろいわれますが、知らない者どうし集まっているのに、全般的に情報の贈与で成り立っている。なぜならそれが教える方も、教えられる方にも繋がる喜びがあるということだ。ネットは交換でなく、互酬(贈与)的世界なのだ。

贈与は「想像的な」関係をもとに作動している。他者への想像関係はもはや人間の根元である。精神分析でいえば、幼児期の母と子の自他未分化をの地点(享楽)を求めてやまないということだ。

誰もが愛する人のためになにかをしてあげたいと思う。親は子のために、彼氏は彼女にために。愛する者のためになにかをすることは嬉しいものである。それは相手への貸しではない。贈与することがただうれしのだ。

しかしこのような想像関係とは、おまえがわたしで、わたしがおまえという関係であり、愛の関係であるとともに闘争であると言われる。たとえば過保護な親は、子供のためといいながら、子供の人生を横取りしているのだ。自らの人生を生きることは苦しいがまた楽しい。親の子への過剰な贈与は生きる喜びを奪い、親自身が子の人生を楽しむという略奪でもあるのだ。




象徴的な贈与


だから様々な贈与は儀礼化されている。たとえば結婚式のお祝いは、ただ送るのでなく、渡し方、金額など儀礼化されている。その他、誕生祝い、恋人へのプレゼントなど度を越えた形の贈与は、相手への迷惑である。なぜなら返礼できない負債感を与え、相手を拘束するからだ。親子でも親子という儀礼化された社会的な関係の中で、子供への贈与は抑止されているのだ。

精神分析でいえば、愛する人にすべてを贈与し、すべてを略奪したいという純粋贈与(享楽)を禁止するために、幼児と母の想像関係が去勢され、象徴関係という社会へ参入することである。親子でも恋人でも、そこには想像関係を抑止する象徴的な関係があり、それによって贈与と返礼が連鎖する社会が形成されている。

また儀礼であると言うことは、そこに「まなざしの快楽」が働くということである。他者へ見返りなく贈与しようとして純粋な贈与(享楽)が目指されても、そこには第三者(まなざし)が介入し、贈与する私に優越感という自意識を与える。




象徴的交換と想像的交換


「象徴的な贈与」は相手が誰であるかが重要な「想像的贈与」から過剰性を排除し儀礼化する。それに対して、貨幣交換は等価交換であり、取引の相手が誰であるというような想像的な関係はより徹底的に排除され、ただ市場のレートによって交換が行われる象徴的な交換である。しかしこのような交換にも、想像的な関係は完全には排除できないだろう。

たとえば市場(いちば)などへ行くとその場で値引き交渉が行われる。それは買い手と売り手が単に等価交換だけでなく、想像的な関係を構築する。それが進めば、常連さんとして安い値段で取り引きできたりする。

あるいは商品のブランド力は、生産側と消費者の信頼関係であるとともに、想像関係で成り立っている。「あのブランドがお気に入り」というのはブランドへの思い入れである。なぜ同じようなバックで高価なブランド品を買うのかは、ブランド品を持つことで、ブランドとの想像関係を結んだ人となることが出来るからだ。そしてブランドがイメージチェンジし気にくわなかれば、せっかくいままで買ってきたのにと、恩にきせる(負債感を盾にする)。




過剰消費というポトラッチ


だから現代では消費が疑似的な純粋贈与(享楽)への行為でもありえるのだ。たとえば有名なアーティストの作品への強い思い入れをもち、消費するときにはそのアーティストは超越的な存在になる。思い入れのあまり自己破滅的な消費を行う人がいるが、これはある意味で現代のポトラッチといえるかもしれない。

人はどのような状況においても愛する人にすべてを贈与し、すべてを略奪しようと享楽の機会を狙っているのだ。だから想像関係が排除されているはずの等価交換にも人は想像関係を見いだす。またここにも「まなざしの快楽」が働いている。現代の超越性は自然神でなく、みんなであり、消費の向こうの誰かとの繋がりである。




繋がりの強度


純粋贈与は不可能であり、贈与が延滞された返礼を求めることから逃れられないとすれば、一種の交換であるとも考えられる。このように考えると、贈与と交換はこの享楽(他者への繋がり)の強度と考えることができる。

想像的贈与は、不可能な享楽へ近づくもっとも強度が強い。象徴的贈与はそれを抑止する。象徴的交換は限りなく、想像関係が排除されているが、想像的交換では排除されたはずの想像関係が見いだされる。

繋がりの強度

純粋贈与/純粋略奪(享楽)−想像的贈与/象徴的贈与−想像的交換/象徴的交換




純粋贈与という純粋な暴力


愛する人にすべてを贈与しつく享楽の地点はいかに可能だろうか。原始においては、それは供儀(祝祭)の中でめざされた。自然へ返礼を求めない贈与と共に、興奮の祝祭の中で一体化する。自らの財産を破壊するポトラッチ、また極限には自らの命さえ捧げるのである。バタイユ儀礼化される前の祝祭にこのような純粋な贈与に近接する「消尽」が存在したと考える。

現代では、純粋贈与の対象は愛する他者(家族、恋人、カリスマ)へ向かう。自然はなにも言わず、純粋贈与を受け止めることができたが、生の人間への純粋贈与は脅威ではないだろうか。

純粋贈与(享楽)とはおまえはわたしで、わたしはおまえだという闘争である。そして限りない近接の中でおまえとわたしの差異は外部へと純化され、排他され、そして破壊が求められる。純粋贈与(享楽)の本質は負債なき暴力により破壊する「純粋略奪」であり、破壊できる外部の産出である。

このように考えると現代の負債なき自然破壊も外部を内部へ引き込もうとする純粋略奪である。享楽が向かう先、受け止めることが可能なのは、いつも自然であるといえる。一体化したいとかつては純粋贈与し、そして現代は純粋略奪するのだ。
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