なぜ「物そのもの」は暴力的であるのか

pikarrr2006-07-21

カントの欲望論


カントの「物そのもの」は外部であり、それとの相対的に現象はあらわれる。しかし物そのものの本質はそれがあるか、ないかでなく、真理を考える上で必要とされる概念であるということだ。カントはアンチノミーを説明するための調停的な第三者の点として物そのものをおいた。

これはラカンの欲望論と重なる。ラカンにおける現実界とはそれがある、ないではなく、到達できないことによって欲望される点である。そして欲望は現実界があるように擬装して現実という幻想を作り出す。この現実はカントのいう現象(幻想)ということになるだろう。

そしてカントはこのような幻想を感性(直観)と悟性(理性)による統覚の働きに求める。カントには幻想に向かう構造の説明はあっても力についての言及はないが、あえて言えば、統覚とは自己が自己として同一であり続けるという力による。これをラカンの欲動を結びつけることはそれほど難しいことではないだろう。




柄谷の「他者」という暴力


柄谷はカントの「ものそもの」「他者」と呼ぶ。それは共時的共同体の外、そして現在の外としての未来の「他者」である。柄谷の「他者」脱構築とつなげることができる。内部の外へ、外へと脱構築する、開き続けるという倫理的なものである。

これもまたラカン的である。象徴界を共有しない現実界「他者」象徴界内部では解消されないアンチノミーの解消=真実は、外部の他者に求められる。人は真実を欲望する。この欲望が外部の「他者」へ開かれ続ける。そのような「他者」がいるかどうかではなく、真実を求める欲望が「他者」を生み出すのである。

そして真実を求める欲望は、ある意味で暴力である。現状という秩序の破壊であり、また未知を開拓するという暴力である。そして真実を求めるというよりも、暴力をふるうことそのものが欲望なのである。すなわちリビドーの解消に向けて、真実を求める名のもとに脱構築的暴力が行われることは排除できない。




「物そのもの」という「機械論の欲望」


「近代自然科学の哲学的基礎付けをした」といわれるカントの「物そのもの」デカルト「コギト」同様に、そこに開拓されていない、そして決して組み尽くせない「未知」があるのだという「機械論の欲望」を想起されるフラッグでもある。だから柄谷のように「物そのもの」を単に倫理的なものとして楽観的語ることはできないのである。

しかし「方法序説」(ISBN:4003361318)に書かれる身体の解体のリアリティを読むと、デカルトの恐怖の叫びは、また享楽への叫びであったのではないだろうか。デカルトの本当に言いたかったことは、「人間は機械だ」ということではないだろうか。「我思う故に我あり」とは、人類が「機械論の欲望」を見出した瞬間であったのだ。「我思う故に我あり」、故に「我」を征服(機械化)せよ。

そしてデカルトの末裔たちは、身体を徹底的に引き剥がしに必死である。「コギト」を消去することに躍起なのだ。それが科学の秘密である。「科学は客観的世界である」というときに、隠されているのが、「なぜ人びとは科学へ没入するか。」ということだ。それは、テクノロジーが享楽への入口を開く有効な手段であるためであり、それは「機械論の欲望」である。

「自由に享楽させろ」 享楽自由主義の時代 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060309




反証可能性機械


たとえば柄谷は「他者」語るのに反証可能性を例に上げている。反証可能性とは「未来の他者」が反証することに開かれていることである。

それに対して、ボクは反証可能性を科学技術そのものがもつ力だといった。*1高速で伝達され人々に反証されることそのものが客観性を構築し、トライ&エラーとしての実働的効果を持つ。それは「真実(他者)」への欲望を動力によって、資本主義社会の根底で作動する開いては閉じる反証可能性機械」であるのだ。

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