なぜ豊かさは快楽なのか

pikarrr2006-07-22

"他者"との「純粋な出会い」


世界は他者でできている。他者とは言語である。ボクたちは言語で世界を認識する。「痛み」は言葉であるし、「言葉にならない気持ち」も言葉である。言葉は他者の言葉である。そこには絶えず他者が介入し続ける。

しかしそれでも「痛み」という言葉の向こうに"痛み"はあるだろう。言葉がとんだ瞬間、それは不可能なほどにわずかに他者が介入しない「純粋な」痛みが表れる。

たとえば祭りである。儀礼化した祭りでなく、人々との偶有的な興奮の共有としての「祭り」では、言葉はとび、限りなく「純粋」な興奮が訪れる。そしてそのとき新たな"他者"と出会うのである。

コミュニケーションのツールとしての言葉を越えたのにもかかわらず、コミュニケーション可能な"他者"である。しかしそれは正確には他者ではない。「他者」とは言語であるからだ。そして「私」も言語である。だからこの出会いは"他者"と"私"の出会いを越えた「純粋な出会い」であり、不可能な出会いである。

しかしコミュニケーションとはそもそもこのような不可能な「純粋な出会い」としてある。言語のやり取りという興奮の中で、「純粋な出会い」が遠くにかいまみえる。他者とのコミュニケーションは興奮であり、興奮の解消である。

たとえば悩みを誰かに相談するのもこのような効果である。コミュニケーションは興奮そのものも生みだすとともに、それを解消する。快感原則は他者を必要とする。他者とそれを共有することで興奮の不快は抑えられる。

しかし「純粋な出会い」は限りなく危険な出会いである。限りない近接の中で他者と私の差異は外部へと純化され、排他され、そして破壊が求められる。それは「純粋な暴力」である。そして「祭り」である。




豊かさの快楽


豊かさは快楽である。豊かさは生存に対する保障になり、生存率を高める。また豊かさは他者との差異により際立つ。しかし豊かさの快楽はこれらだけでは組み尽くせない。豊かさは端的に快楽を与えてくれる。豊かさの快楽とは「祭り」を日常化することにある。

「祭り」とは儀礼化した祭りをこえていくなにかである。祭りとは非生産的贈与であり、暴力であり、破壊である。近代の資本主義社会は祭りの日常化をめざしている。共産主義社会の敗退は祭りの日常化を抑圧したことにある。さらに後期資本主義は選択という消費の祭りからイベント化という祭りにむかっている。イベント化という祭りはコンテクスの脱構築である。

消費物資や商品の、部分で全体を表すというこの換喩的方法の繰り返しは、過剰そのもののおかげで集団的な一大隠喩によって、再び贈与としての見世物的で無尽蔵の潤沢さのイメージとなるのだが、それは祭りのイメージに他ならない。

「消費社会の神話と構造」 ジャン・ボードリヤール (ASIN:4314007001

物質的豊かさと祭りに正確な相関関係はない。たとえば祭りを享受するためには「若さ」が必要である。しかし日常的に祭りに参加し続けるには豊かでなければ困難である。また物質的な豊かさは「余裕」を生み出すことで祭りへの参加の意欲を高める。すなわち「若さ」さえ生み出すのだ。

豊かさの快楽とは、不可能な「純粋な出会い」への純粋な贈与である。

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