なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか?

pikarrr2006-07-25

神話的暴力と神的暴力


「正義の門前:法のオートポイエーシス脱構築馬場靖雄
http://www.thought.ne.jp/luhmann/baba/gj/gj00.html)を参照に、ベンヤミン「暴力批判論」デリダ「法の力」による暴力論を考える。

ベンヤミン「暴力批判論」では法の暴力を、「神話的暴力」「神的暴力」に分けている。

・神話的暴力・・・何らかの目的のために行使される暴力
   法維持的暴力・・・現存の法秩序を再生産する
   法措定的暴力・・・空白状態のなかから新たな秩序を立ち上げる

・神的暴力・・・何ものをも目的としない暴力

いっさいの領域で神話が神に対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない

「暴力批判論」 ベンヤミン


前者(神話的暴力)が罪をつくり、あがなわせるなら、後者(神的動力)は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。……まさに滅ぼしながらも、この裁きは、同時に罪を取り去っている。……前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受け入れる

「法の力」 ジャック・デリダASIN:4588006517

デリダ「法の力」の中で、ベンヤミン「暴力批判論」の解読を試みる。そしてベンヤミンを同意しながら、「神的暴力」の前で尻込みしたと言われる。

神的暴力には、もはやはぎ取るべき規定性など何一つ残っていないのだから。したがってわれわれは、「血の匂い」を恐れることなく、あえて現実の交配形態のなかに神的暴力の痕跡を捜し求めるべきではないか。

ベンヤミンのテクストはこの直後で終わり、デリダの講演も終わりを迎える。しかし今確認した結論がその含意を明らかにするのは、講演に付加された「あとがき」においてなのである。すなわち、われわれが現実の歴史のなかに、神的暴力にもっとも近いものを求めようとするなら、ナチス「最終的解決」こそがそれに当たるのではないか、と。

「最後に私は、このテクストに含まれるもっとも恐るべきものに注意を促しておきたいと思います。それは……あのホロコーストを、あらゆる解釈に抗う神的暴力の表われとして考えることに他なりません。……ここでわたしたちは、あのホロコーストが法の罪の許しであり、『神』の暴力的な怒りと正義の、判読しがたい署名であったという解釈の可能性に震え上がり、震撼させられることになるのです(Derrida)」

「正義の門前:法のオートポイエーシス脱構築 馬場靖雄




神的暴力は可能か


「何ものをも目的としない暴力」など可能なのだろうか。強いて言えば、自然災害である。自然の猛威がいかに大量に人を「殺害」しようが「何ものをも目的としない。」逆に言えば、人間が介するときに「何ものをも目的としない暴力」は不可能である。

このとき神的暴力は法措定的暴力に転倒する。法措定的暴力とは内部の秩序を外部へ行使する暴力である。それに対して神的暴力は内部秩序の外の暴力であるが、人間が介するときにもう一つの内部として作動する。外部は内部となり、そして内部が外部となり暴力は行使される。

現にベンヤミン「暴力批判論」のもとになったソレルの「暴力論」では、ブルジョアジープロレタリアートの対立において、内部のブルジョアジーに対して、新たな秩序を形成するプロレタリアートの革命がこのような神的暴力として示しされていた。ベンヤミンはこのような「あたらな内部」を純粋化することで、神的暴力を構想したのであるが、それは不可能な領域である。




限りなく純粋な断絶


そしてまた逆に法措定的暴力が神的暴力に近接する可能性がある。デリダがいうようにホロコーストを、あらゆる解釈に抗う神的暴力の表われとして考えること」ができるとすれば、それはただそこに神的暴力が表れるのでなく、そこに限りなく「純粋な内部/外部の断絶」が再現されているのではないだろうか。

限りなく純粋な断絶の向こうの外部は、法の外であり、そこで 暴力が行使されるときには内部の論理では法措定的暴力であるものが、外部からみるとまるで脈略がなく訪れる自然災害のような、すなわち神的暴力に近接して表れる。そしてまるで木の実をもぎるように人が殺される可能性が生まれる。そのような殺害される人をアガンベン「ホモサケル」と呼んだ。そしてボクはこのような暴力を純粋略奪(暴力)の快楽とよぶ。

この違いは略奪が内部(社会)内にあるのに対して、純粋略奪は内部(社会)と外部の間で行われるためだ。・・・その典型が自然からの略奪である。野性の木の実を取ることに負債は生まれない。それは「自然のめぐみ」であり、「純粋贈与」であり、善悪の価値の外にある。

コロンブスアメリカという新大陸を発見した」とそれまで「人間」はいなかったように「罪悪感なく」語られ続けている。「悪いこと」をすると罪悪感をもつのでなく、罪悪感をもってしまう行為が「悪いこと」ということであり、そして罪悪感が存在しない限りなく「純粋な悪」は存在しえるということだ。

なぜ限りなく「純粋な悪」は存在しえるのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060707




ゲーデル脱構築「(後期)デリダ脱構築


馬場は東のゲーデル脱構築「(後期)デリダ脱構築を元に、神的暴力を「(後期)デリダ脱構築につなげる。

「法の力」の)第一部では、同じものを再生産しようとするシステムのメカニズムに抗って新たな秩序を構想するための拠点となる、純粋な否定性としての正義が追求された。一方第二部(ベンヤミンの神的暴力)では、・・・まず存在しているのは現実の混合形態であり、そこに含まれる異質な諸要素の間の齟齬こそが、救済のチャンスをもたらすと同時に、恐るべきものを招来する危険をも孕んでいるとされるのである。この二つの方向性は、東のいう「二つの脱構築のそれぞれに対応しているように思われる。・・・東は、ゲーデル脱構築「(後期)デリダ脱構築を区別するよう提案している。


ゲーデル脱構築否定神学

いかなるヒエラルキー形而上学的二項対立)にも、必ずその一貫性が自壊してしまう地点がある。〔この地点が存在するということが、ゲーデル問題」である。〕その地点を暴露し、既成のヒエラルキーを転倒(あるいは解体)する批評行為」である。・・・しかしこれは一種の否定神学に行き着かざるをえない。つまりこの作業によって暴露される「空虚」や不可能性が、あらゆる存在者に内在する「本質」として措定されてしまうのである。


「(後期)デリダ脱構築(幽霊)

私たちの考えでは、『幽霊』には、形式体系を想定すること、アンチノミーに行き着くこと自体が転倒であるという認識が含まれているはずなのだ。・・・システム全体の脱構築の結果として得られる『外傷』『穴』から、システムの細部、シニフィアンの送り返し一回一回の微細なずれによって引き起こされる無数の『幽霊』へ。もはやシステム全体を見ることができない以上、ゲーデル問題も起こらないのである

「正義の門前:法のオートポイエーシス脱構築 馬場靖雄

ボクは、不可能な「神的暴力」と、神的暴力が転倒した法措定的暴力を上げたが、馬場にならい以下のように言うことができるだろう。

神的暴力が転倒した法措定的暴力・・・ゲーデル脱構築否定神学

不可能な神的暴力・・・「(後期)デリダ脱構築(幽霊)




「(後期)デリダ脱構築は可能か?


「正義の門前:法のオートポイエーシス脱構築馬場靖雄の主題は、問題はいかにゲーデル脱構築否定神学)から「(後期)デリダ脱構築(幽霊)へズレいくか。いかに「(後期)デリダ脱構築(幽霊)は可能かである。そしてルーマンのシステム論も駆使され以下のように考えられる。

観察の観察を不断に行いながら、同時に何らかの「背後」にたどり着こうとする誘惑と常に戦っていかねばならないのである。あるいは「法の力」を捩って、こう言ってもいいかもしれない。法の背後に、それを可能にしたり一定の方向へ導いたりする何らかの「力」を求めようとしてはならない。その「力」が、まったく無規定な、それ自体としては存在しえない「正義」であろうと、あるいは麗しい「寛容の精神」であろうと同じことだ。むしろ、法をめぐって生じるあらゆる観察=作動が、それ自体として現実的な力であると考えるべきなのである。

われわれは、あくまで個別的に、そのつど誰(どの観察者)が、どんな区別を用いて観察しているのかと、問いつづけねばならない。形式体系の矛盾を突く、というかたちで一挙に同一性一般の「背後」に回り込もうとしてはならないのである。

「正義の門前:法のオートポイエーシス脱構築 馬場靖雄

「個別的にそのつど誰が、どんな区別を用いて観察しているのかと、問いつづけねばならない。」「たどり着こうとする誘惑と常に戦っていかねばならない」・・・これらは、簡単にいえば、「安易に全体性を望むな。部分部分で考えるのだ。」ということになる。

神的暴力=「(後期)デリダ脱構築(幽霊)とは、究極的には自然災害のごとく、それは「何ものをも目的としない暴力」である。それは人には不可能な領域にあると言っていいだろう。

そしてつねに法措定的暴力へ転倒(ゲーデル脱構築否定神学))するのである。「たどり着こうとする誘惑」から逃れられず、暴力は行使されるのだ。

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