なぜ「なぜ山に登るのか」と「なぜ女をものにするのか」は違うのか。
自然主義的闘争論
欲望の構図
①外部と内部の境界を引く。
②外部が無垢(いきいきした幻想)として表れる。(まなざしの快楽)
③無垢(外部)への欲望(略奪衝動)が掻き立てられる。
④開拓という「正義」の名のもとに、負債なき暴力(純粋略奪の快楽)が行使される。
この欲望の構図において、外部と内部の境界の強度が重要となる。より境界が明確に、そしてより純粋な外部であるほど、外部は無垢として生き生きと表れ、開拓は正当化され、負債感なく、より純粋な暴力が行使される。このように純粋な外部の表れが「自然」である。
自然とはこの世界そのものであり、未曾有の混沌であり、不確実性であり、決して到達できない「物そのもの」であり、人にとってトラウマ的なものである。だから自然は欲望を想起する純粋な外部としてあり、「自然」として回帰しつづける。経済とはこのような「自然」と人間の関係のことである。
この「自然」と人間の闘争を下部構造に考えるのが、自然主義的闘争論である。人は有史以来、そして将来にむけて、どのように「自然」をみい出し闘争するのかを考える。
「なぜ山に登るのか」
たとえば「なぜ山に登るのか」で考えてみると、
①外部と内部の境界を引く。
山は社会の外部である。②外部が無垢(いきいきした幻想)として表れる。(まなざしの快楽)
外部としての山は登頂が困難であるほど、無垢(未知)としていきいきと表れる。しかし山はいつもそこにあり、そこに無垢という価値はない。これは人間側の価値による、幻想である。③無垢(外部)への欲望(略奪衝動)が掻き立てられる。
生き生きとした無垢に見せられ、登覇したくなる。④開拓という正義の名のもとに、負債なき暴力(純粋略奪の快楽)が行使される。
人類の快挙という正義の名のもとに、登覇される。
たとえば未踏の山は霊山と言われ、神聖なものとされる。なぜ未踏の山を霊山として崇めるのか。人間にとって、未知という底の見えない暗闇はトラウマ的恐怖だ。だからそこに蓋をしたい。それが「神」である。
神とは本質的に「他者」である。他者とはコミュニケーション可能な者である。だから未知に「他者」をおくことで、人は安心する。なにかあれば、「他者」へコミュニケートすれば良いからだ。祈り、贈与する。だから未知は「他者」だらけである。沼には河童、山には天狗、仙人、闇には幽霊、宇宙には宇宙人・・・
そして贈与とは暴力である。未知であるものを「神聖なもの」と崇めるのと、それを略奪したいと思うことは同じことの裏返しである。たとえばかつての呪術でのポトラッチは自然への純粋贈与と呼ばれますが、これはまた純粋略奪でもあるのです。
近代科学の闘争では、かつての「他者」を配置し贈与する暴力から、数量化による計測する暴力に切り替わったのだ。
「なぜ女をものに(登頂)するのか」
これを、たとえば「なぜ女をものに(登頂)するのか」と比較すると、
①外部と内部の境界を引く。
女は男の外部である。②外部が無垢(いきいきした幻想)として表れる。(まなざしの快楽)
外部としての女は「登頂」が困難であるほど、無垢(未知)としていきいきと表れる。③無垢(外部)への欲望(略奪衝動)が掻き立てられる。
生き生きとした無垢は、「登覇」したくなる。④開拓という正義の名のもとに、負債なき暴力(純粋略奪の快楽)が行使される。
男性の快挙という正義の名のもとに、女は「登覇」される。
山はより純粋な外部(「自然」)としてあるために、負債感なく暴力が行使されるが、相手が女の場合、相手のことを考えない略奪は、暴力である。だからそこには負債感がともなう。
しかしかつて男尊女卑の時代、女への略奪(暴力)は負債感なく行われていた。女性、奴隷は「自然」=動物であったのだ。たとえば現代でもある処女信仰とは、無垢を略奪したいという略奪(暴力)の快楽である。
このように、人は有史以来、そして将来にむけて、どのように「自然」をみい出し闘争するのか。それが自然主義的闘争論である。
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