なぜドラマ「14才の母」はうすら寒いのか  死と情動とリアリティ  

pikarrr2006-11-18

恋愛ドラマのリアリティ


ドラマは基本的に障害がありそれを乗り越えることが描かれる。特徴的なのが恋愛ドラマだ。男女が障害を乗り越え結ばれることを基本にする。問題は障害をどのような設定にするか。このような障害設定は時代背景を反映する。

たとえばロミオとジュリエットでは、障害は家柄であり、駆け落ちものでは身分である。かつてはそのような社会的な秩序(拘束)がリアリティをもっていた。

韓国ドラマは障害のデパートである。韓国ではいまでも日本では失われつつある家族関係、家柄などの社会的な秩序(拘束)が重要視されているために、恋愛ドラマでも重要な障害として描かれる。オバサンたちが韓流を好むのは、彼女達が若い頃にも日本でもまだこのような社会的秩序(拘束)が働いていたためだ。

最近の若い人たちではそのような社会的秩序(拘束)は、お互い好きなら良いじゃん!と、リアリティを持ちえない。




「不治の病」ドラマという王道


現代の価値多様化時代では、障害そのものが見いだしにくくなっており、様々に試行錯誤され、障害のインフレーション状態にあるといえる。たとえば最近では「ブスの瞳に恋している」での障害はブスであった。結婚できない男では、結婚に価値がなくなった時代という障害をいかに乗りこえるかである。

その中で現代の恋愛ドラマの障害設定の王道はなんといっても「不治の病」だろう。ある愛の詩以来、最近でも「世界の中心で愛を叫ぶ」タイヨウのうたなど、様々に病名を変えて繰り返されている。

その中でも良くできていると思ったのが、神様もう少しだけだ。深田恭子演じる女子高生は一夜の援交の過ちでエイズに感染してしまう。そんな中、恋人に死なれて挫折しかけの人気音楽プロデューサーと恋に落ちていく。援交というセックスの氾濫と対比して、エイズのためにキスをするのも命がけという究極の純愛である。




「死」のリアリティ


これと同じ理由で最近流行っているのが医療ドラマである。Dr.コトー診療所ブラックジャックによろしく白い巨塔救命病棟24時ナースのお仕事など。死を身近に描ける点で医療ものにはリアリティがある。

最近、いじめによる自殺が社会問題になっている。文科相あていじめ自殺予告が送付され、連日ニュースで放映されて、衝撃を生んでいる。あるいは北朝鮮の地方にはコッチェビ(浮浪児)が、人々が普通に生活している道ばたで餓死し放置されている。このような場面がワイドショーなどで放映され、ボクたちは画面の向こうのコチェビの死に心痛める。

これらの例も、価値が多様化し、共有することが難しい時代においても、死は人々の心へ衝撃を与える力、リアリティを持ち続けているといえるだろう。




死の尊厳はコミュニティへの帰属により生まれる


死の尊厳において重要なことは、その死とコミュニティの関係である。コミュニティに帰属し、その人が唯一の代替不可能な存在となることで、その人の死は尊いものになる。だからかつて人々が土着的なコミュニティに帰属していたとき、死はそのコミュニティの一部の死として尊厳を持っていた。現代なら、ニュースでみた「どこかの誰か」の死とは異なり、自分の家族というコミュニティの一員は代替できない存在でありその死は尊い

だからといって「どこかの誰か」だから死に価値がないわけではない。「どこかの誰か」であっても、「人類」という同じコミュニティの一員であり、倫理的にその死は尊ばれる。

これは人類史でみれば、当たり前のことではない。つい最近まで「人は環境か、生まれか」と真剣に議論されてきた。生まれながらに価値ある人種と価値が低い人種が存在した。近代以降、階級社会から民主主義に向かい人間の基本的人権は認められた。そのとき「人類」という最大のコミュニティが出現したのだ。コチェビの死に心痛めるとき、このような「人類」というコミュニティが作動している。

そしてこの平等と最大のコミュニティの出現、すなわちリベラリズムは、資本主義社会を作動するために必要であり、現代のグローバリズムの基礎となっている。




なぜコチェビの死に心を痛めて隣の浮浪者の死に無関心なのか


たとえばマザーテレサが来日したとき、街の浮浪者に手を差し伸べた。これに日本人は違和感を覚えた。ボクたちは、マザーテレサがアフリカの痩せこけた子供を抱く姿をテレビで見ている。日本の浮浪者はそのような対象だったのか。

そして疑問が湧いてくる。なぜボクたちは画面の向けうのコチェビに同情し、隣の浮浪者には無関心なのだろうか。

簡単に言えば、人は日常になれてしまうということだろう。コッチェビを放置する北朝鮮人も、浮浪者を放置する日本人も、そのような日常になれてしまう。そしてボクたちがコッチェビを見て心を痛めるのはそれがボクたちにとっての非日常として現前化するからである。

しかし自分の家族が苦しむことになれることはないだろう。「人類」であれ、「日本人」であれ、大きなコミュニティへの帰属は弱いものである。コッチェビに心を痛め人は、次の瞬間にはチャンネルを替えて、お笑い番組にゲラゲラ笑っているだろう。





情動をフックにして浮上するリアリティ


価値多様の時代、多発する少年犯罪などで、死への尊厳は低下していると言われるとき、それは社会というコミュニティへの帰属意識の低下が考えられる。現代のコミュニティは、かつての土着的に固定されたものではなく、流動化しており、「不治の病」ドラマやいじめによる自殺やコッチェビのみすぼらしさなどによって想起される情動をフックにそのつど浮上する。

現代では、リアリティは波のようにあらわれ波のように去っていく。少し前、飲酒運転によって子供が死が人々の悲しみを生み、連日、飲酒運転の話題が取り上げられていた。それもすっかり消え、いまはいじめによる悲惨な自殺から、いじめ問題が連日放送されている。そしてそれもまた飽きられていくだろう。

このようなリアリティと情動の関係はさまざまなところで表れるが、最近ではネットで顕著である。ネットはさらに流動性の高い場であり、祭りにより瞬間的なコミュニティはつくられ、リアリティを共有する。このような瞬間的な情動によってしか、密接なコミュニケーションが成立しない世界である。




妊娠という「病い」14才の母


ドラマ14才の母が話題である。純真な女子中学生が好きな男子中学生との一夜のセックスから妊娠してしまう。これはかならずしもラブストーリーではない。ここで設定されている障害は14才の妊娠である。

しかしいまどき14歳で妊娠はそれほどめずらしくはない。このドラマの障害設定は普通考えると中絶して終わりであるのに、生む決意をすることだ。中絶するか、生むか、すなわち生と死である。

ここには、「不治の病」ドラマと同じ構造がある。(胎児の)死への苦悩を乗りこえて、懸命に生きる。死を担保にしているからなおさら生きることが感動的で美しい。

14才にして子供を身ごもった女子中学生・未希・・・彼女は、普通の女の子、だった。

新しい「生命」をその体に宿すまでは・・・

両親、兄妹、先生、友達、周りの人々全員の猛烈な反対を受け彼女は一人ぼっちになってしまう。

誰一人、母親になることを認めてはくれない。彼女が幼すぎるから。彼女がまだ中学生だから。誰もが、彼女に、「堕ろせ」と言う。誰もが、「堕ろせばいい」と、いとも簡単に言う。

肉体的にも精神的にも追い込まれていく主人公・・・でも、その苦しさの中で、彼女は気が付く。

「私は一人ぼっちじゃない。一人だけ味方がいる。私にはこの子がいるもん!」

彼女は、産む決心をする。14才にして母親になる決心をする。

しかしそれは決して簡単なことではない。信じられない程の厳しい困難が待ち受けている。

それでも彼女は、決して負けない。どんなに苦しくても、決して産むことをあきらめない。自分の体の中に宿った新しい「生命(いのち)」が、何物にも代えることができないかけがえのない存在だと知ったから・・・。


14才の母 http://www.ntv.co.jp/14/index.html

このような死を担保にした障害設定によって情動のリアリティを生むことは、エンターテイメントとして常套手段である。そして障害設定がインフレーションする中、妊娠という「病い」が考えだされた。しかし中絶せずに生む理由がいまひとつ説得力をもたないまま、妊娠を「病い」と同じ構造によって感動的に描くことはどうなのだろうか。

14才で子供を生むことが良いか悪いかでなく、あの状況で子供を生むことが、ただ美しく感動的であることがうすら寒いのだ。
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