ネットは市場主義的「コンビニエンスな解決」以外のものを生み出せるか

pikarrr2007-03-01


①「モンスターハンターはなぜおもしろいのか


モンスターハンターポータブル 2nd(ASIN:B000GWKY9Y)にはまっている。リアリティあるグラフィックのモンスターと格闘し狩るというこの興奮はなんだろう。モンハンはアクション性が強いゲームであり、RPGのように続けるうちにキャラクターの経験値が上がり強くなるのではなく、経験はプレイヤーの操作の熟練に求められる面が大きい。キーの操作やアイテム使いのタイミングなど、プレイヤー自身の条件反射的な上達が求められる。だから格闘中はまわりが見えなくなるほど画面に集中し、体が緊張し、興奮する。

しかしこのような「身体的な没入」とは別に、人はかならずこの状況を俯瞰するメタ視線がある。鏡をみてそれが自分であると認識できるように、どんなにヴァーチャルなリアリティが向上しても、これがゲームという「劇」であることを忘れることはない。そしてゲーム機の中の「劇」はさびしい。そこに疑似的な他者がいても、この楽しさを分かち合うことはできない。モンハン2が先週発売されてから、2ちゃんねるの携帯ゲーム板は祭り状態である。PSPでもっとも売り上げたソフトのパート2ということで待ちわびた興奮を共に祝い、そして実際にゲームをしては同じ失敗、成功体験を語り合い興奮を共有する。

かつての狩猟生活の時代を想像するに、獲物を狩ることはゲーム以上に興奮する体験だろう。そしてそれをともに「祝う」という「他者という通路」が耐えず、ともにあった。それが呪術的な祝祭の意味の一つだろう。(ヴィトゲンシュタイン「私的言語は存在しない」というように)ボクたちが快楽を味わうことさえも「他者という通路」を必要する。みんなが楽しいというから楽しいという共同性の興奮(まなざしの快楽)が作動している。「身体的な没入」とは異なる「精神的な感染」であり、それぞれは切り離せないものであり、相補的に混在している。




②ストレスは「他者という通路」を通って社会的弱者に流れこむ


ストレスとは圧力である。ストレスは悪くいわれるが、主体は他者からの圧力があることで、相対的しか現れない。それでも他者からの過剰な圧力はマイナスなイメージでの「ストレス」を生む。そしてこのようなストレスは感覚的には内部にたまりやすい。身体的疲労が体を休めると解消されるのに、心の疲労は解消されにくい。なんらかの形で意図的に放出する必要があるように思う。運動や環境の変化などのストレス解消があるが、一番はやはりおしゃべりではないだろうか。友達との愚痴や、サラリーマンの仕事のあとの酒飲みなど。すなわち溜まったストレスは「他者という通路」を通すことで解放されやすい、という特徴をもつ。ここから精神分析が語りを基本にしていることとつなげるのは容易だろう。そしてこのようなストレスが他者を伝搬することで解放されるという特性は、ストレスの連鎖が弱いほうへ流れると言う意味で、いじめや虐待につながる。会社のストレスが父から母へ、そして家庭内で母から子へ、そして学校でもっとも弱いいじめられっ子へ、というように社会的な弱者に溜まってしまう。




③「可哀想な動物」という偽善


「可哀想な動物」というのがある。最近では崖に取り残された野良犬、少し前なら矢が刺さったカモなど、連日放送され、テレビでも「可哀想な動物」として話題になる。しかしここにいつも違和感があるだろう。保健所では犬猫年間400.000頭が処理されているという事実とのギャップである。崖に取り残された犬も話題にならずに捕まえられれば、処理されていただろう。だからこのような「可哀想」は偽善であるということになる。

このような特定の対象への志向性が「精神的な感染」である。みんなが可哀想というから可哀想だという共同性の興奮(まなざしの快楽)が作動している。そして人はどんな場合に感染するか考えると、強い感染は親や恋人、親友などであり、弱い感染は知らない街より、一度いった街に馴染むなど、のように感染は人のすべての行為に作用していることがわかる。たとえば、感染の典型的な例である恋を考えると、恋することで恋人という対象へ強く感染し、いつかは弱い感染へと覚めていくことがある。ここで強い感染とは、対象が他では代替できない対象になることであり、弱い感染とは他でも良いという代替可能な対象への変わることである。




④予測可能性の高さが「作業ゲー」化を生む


ゲームー用語に「作業ゲー」という言葉がある。RPGなどではキャラクターが経験を積むことでレベルがあがっていく方式がとられており、成長していくことがゲームの楽しみである。しかしレベル上げの工程が単なる作業の反復でしかないと思ってしまうようなおもしろくないゲームを「作業ゲー(ム)」という。これは主観的な感想であり、同じようなゲームをしているとどうしても感じてしまう退屈だろう。一部で娯楽としてのゲームの衰退が言われるのも、このようなマンネリにある。そしてニンテンドーのDSやWillが人気を獲得したのはこのようなマンネリを打破する新たな切り口、市場を開拓したためと言われる。

また「作業ゲー」化が進む理由には、ネットで攻略がネタバレされており、そのような情報の中で、先を見てしまい、作業のようにしか感じられないということが起こる。マニュアルがなければ、予測可能性が低くすぎて、難しすぎて楽しめない、逆にネタバレされて予測可能性が高すぎると退屈で「作業ゲー」と感じてしまうという特徴がある。すなわち予測可能性の高さは感染を発散させる。たとえば恋という特定の対象への想いも、その対象の情報がネタバレしすぎると冷めてしまう。幻滅するような事実が暴露されるということではなく、感染は対象への神秘性への錯覚によって支えられているからだ。「可哀想な動物」もみんなが騒ぐからそこに何かがあるよな錯覚が生まれることで支えられている。だから対象への感染を維持するのは、予測可能と不確実性のバランスが重要である。




⑤人生の「作業ゲーム」化と格差社会


このような意味において、人生は「作業ゲー」化していないだろうか。以前にも言及した*1石原氏の「情報氾濫のもたらすもの」に繋がる。そしてここでいう「情報なるもの」はボクのいう「予測可能性の壁」に繋がるだろう。科学技術の発展による「予測可能性の壁」の構築は、「情報なるもの」という人生のネタバレ化を進め、人生におけるさまざまな感染を発散させて、「作業ゲー」化し、「人間としての積極性が殺(そ)がれてしまう」ということだ。

首都大学東京准教授の宮台真司氏が面白い分析をしていたが、そもそも情報なるものは現実を希薄にしてしまう。第一に、情報は勘違いを難しくしてしまう。昔は勘違いだらけだったからこそ夢を追い試行錯誤があった。情報に依って、「どうせ現実は−」という容易な断念は人間の想像力を減退させてしまう、と。第二は、情報化は規範の輪郭を曖昧にしてしまう、と。昔は良いこと悪いことの境目がはっきりしていたが、今は昔は有り得なかった情報によって、・・・禁忌なるものが消滅してしまい、それを侵して超えるといった姿勢や行為の濃度が希薄となり人間の活力の低減に繋(つな)がっていく。第三には、現実を入れ替え可能にする、と。かけ替えない体験だと思っていたことが、「そんなものはよくあることだ」といなされ、・・・水をかけられてしまう。

つまり自分の感性や情念にのっとった決断や選択の、自らの人生における比重がごく軽いものにされてしまうことで、生きるということの中での、人間としての積極性が殺(そ)がれてしまう。これは人間全体にとっての損失以外の何ものでもありはしない。人生そのものが既視現象になってしまえば生きることそのものが無意味にさえ感じられてしまうだろうに。


「情報氾濫のもたらすもの」 石原慎太郎 http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no54.html

科学技術とは、世界の不確実性を要素還元主義的に数量化することで、帰納法的に正確で、高速な伝達を可能にし、反復を容易にした。そして加速された反復によって「硬化」された科学的規則が積み重なり、科学技術体系プログラムが重層的に体系化されているのだ。このような科学技術の進歩は、プラグマティックに世界の変容し、予測可能性を飛躍的に向上させ、安定した生存を確保する。ボクはこれを「予測可能性の壁」と呼ぶ。そして情報化社会において、「予測可能性の壁」は管理コントロール社会を達成し、世界を「フラット化」している。貨幣という数量化による等価交換をベースにした資本主義システムも、同様な近代以降の知識システムであり、世界の「フラット化」を進めている。


なぜ「フラット化」は強者の欲望を隠蔽するのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070119

一部では、情報化社会では社会の流動性が高まり、不確実性が増しているという意見がある。これは正しいだろうが、それ故に人々は「予測可能性の壁」に引きこもり、でられないという保守化を生む。「予測可能性の壁」の内部は安全性が高く守られているが、一歩外にでると途端に不確実性が高まり安心できないという構図がある。このような傾向は最近の格差社会にも繋がるだろう。格差社会の問題は格差そのものではなく、格差間の入れ替えのなさ、下流下流から抜け出せないことにある。社会の保守化傾向は既得権の確保という「予測可能性の壁」への引きこもり傾向を生み、格差を静的に構造化してしまう。




⑥行き場を失った「誰かのためになにかをしたい」という想い


このような「予測可能性の壁」への引きこもりにおいて、娯楽は重要である。「予測可能性の壁」へ引きこもる退屈な日常の解放を、「安全な危険」に求める。ジェットコースターは恐いがそれは安全に支えられている「安全な危険」である。すなわち安全に「身体的な没入」に向かう。これは動物化といわれる傾向であるが、人生が「作業ゲーム」化すればするほど、このような「身体的な没入」に向かう傾向があるだろう。

しかしまた「身体的な没入」「精神的な感染」は切り離すことができない。そして並行して「可哀想な動物」のような過剰な「精神的な感染」を生む。たとえば、嫌韓などのナショナリズム傾向にも「憎たらしい異国」という共有を求める過剰な感染の例を見ることができるし、以前示した社会における「かわいい(萌え)」の氾濫*2にも同様な傾向が見ることができる。この過剰性は誰もが「予測可能性の壁」を越えて、繋がりたいという想いが、行き先を失っているということではないだろうか。そしてメディアを通してなど、遠くに感染源を求めざるおえない。だから「可哀想な動物」ような感染そのものを否定することはできない。誰もが誰かのためになにかをしたいと思っているのだが、現代ではそのような想いは行き場を失っている。ネットが無償の労働でなりたっていることは、他者のためになにかをしたいからだ。「いや自分が楽しいからやっているだけだよ」といっても、「他者のためになにかをしたい」と対立しない。感染は他者という通路を必要とする。他者のためになにかをすることが自分が楽しいということであり、自分が楽しいから他者のためになにかをしたいということである。




⑦市場至上主義による「コンビニエンスな」解決への一元化


市場至上主義傾向の中で、ボクたちの解決策は、効率向上による低コスト化という「コンビニエンスな」方法に一元化されつつあるように思う。社会的な「問題」は開発課題となり、汎用的な商品となり、効率的に安価で提供される。コンビニエンスな快楽、コンビニエンスな繋がり、コンビニエンスな老後、コンビニエンスな環境問題策、コンビニエンスな死(現代の「自然死」が孤独死であるのは悲しすぎる。)現状ではこれ以上の問題解決策をボクたちは持っていないだろう。ボクはこのような一元化を、「お金があればなんとかなる社会」=「お金がなければどうしようもない社会」と呼んだ。そして格差社会の問題は一元的にしか出口が見いだせないことにあるだろうといった。

引きこもりでもそうだが、コミュニティから離れ、一人でやっていくことができる社会ということがすごいのかもしれない。それを可能にするのは、お金である。「お金があればなんとかなる社会」である。これは格差問題の核心でもある。たとえば各国に比べると、日本の格差はむしろ小さいと言われるが、格差が問題になるのは、「お金があればなんとかなる社会」とは、逆にお金がなければ、どうしようもない社会ということだ。コミュニティが解体され、「幸福」と貨幣の関係が密接になってしまったことで、お金がないことが孤立的な状況を生んでしまう。


なぜ「ひとり団地の一室で」孤独死するのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070125

コミュニティを再生する必要があると言われるが、現代のような「予測可能性の壁」によって生存を保証され、他者へ依存する必要がなく、価値の多様な時代に、あるコミュニティに継続して帰属することが困難である。むしろ危険でさえある。流動性の高い社会では、「予測可能性の壁」に引きこもりながらも、帰属する場やコミュニティを見極め、渡り歩かなければ、取り残されてしまう。たとえばドラクエの次に、モンスターハンターポータブル2nd、そしてポケモンというように流行りを渡ることことでさえ馬鹿にすることはできない。いじめ自殺の問題はこのような場に馴染まないというような些細な社会性の躓きによって生まれるのである。




⑧ネットに新たな解決策は見いだせるか


市場主義的な「コンビニエンスな」解決への一元化だけでなく、ボクたちはより多様な解をもつべきである。以前言及したように*3柄谷がいうように、社会は資本=ネーション=国家という3次元的な構造もち、資本による経済的な格差は、国家政策と共に、ネーションによって「想像的に補充され解消され」てきた。それはアルビン・トフラー「プロシューマー(生産消費者)」にも繋がるだろう。

ネーションもそのような意味で「想像的」な共同体なのです。ネーションにおいては、現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補充され解消されています。また、ネーションにおいては、支配の装置である国家とは異なる、互酬的な共同体が想像されています。こうして、ネーオションは国家と資本主義経済という異なる交換原理に立つものを想像的に総合するわけです。私は最初に、いわゆるネーション=ステート(国民国家)とは、資本=ネーション=国家であるとのべました。それは、いわば、市民社会市場経済(感性)と国家(悟性)がネーション(想像力)によって結ばれているということです。これはいわば、ボロメオの環をなします。つまり、どれか一つをとると、壊れてしまうような環です。


「世界共和国へ」 柄谷行人 P175 (ASIN:4004310016

「BS特集 未来への提言スペシャル 未来学者 アルビン・トフラー “知の巨人”との対話」を見ました。・・・「プロシューマー(生産消費者)」というのはおもしろと思いました。「プロシューマー(生産消費者)」とは、ボランティア、趣味で畑仕事、日曜大工をする人、最近では、ネットの群衆知など、DIY(Do It Yourself)型で自分で自分のために労働する人々です。最近のWeb2.0や、グーグル化の議論はネットに生まれた群衆知をいかにお金にかえるシステムをつくるのか、ということですが、「プロシューマー(生産消費者)」という概念の射程の大きさは、このような従来の金銭経済と並行して非金銭経済という新たな潮流が生まれている。「金銭を使わないまま、多数の必要や欲求を満たしている。この二つの経済、金銭経済と非金銭経済を組み合わせたものが、「富の体制」である。」ということです。


なぜ「生産消費者」は非金銭経済を目指すのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070104

現在は、ネットにそのような役割が求められているのではだろうか。ネットの創発性を支える無償の労働の可能性は、Web2.0やグーグル化のような資本では組み尽くせない可能性がある。そこに市場至上主義による「コンビニエンスな」解決策とは、異なる新たなコミュニティのあり方が見いだせるのではないだろうか。ただネットにおける「想像的な解消」は、必ずしも、かつての「グローバルヴィレッジ」のような楽観的なものでも、「スマートモブズ」のような理性的なものでも、あるいはトフラーいう「プロシューマー(生産消費者)」のような生産的なものではないように思う。




⑨想像的な「ネーション」としてのネットコミュニケーション


もはやボクたちは市場経済による効率向上による「コンビニエンスな」方法に依存しなければ生きていけない。しかしまた市場主義による自由競争は社会の不確実性を高め、格差を生む。たとえばそれは、暗闇の中の宝探しゲームのようなものかもしれない。そこには情報が重要になる。宝の在処の地図、道を照らす明かりを持つ者は「予測可能性の壁」を拡張し、宝まで迅速に安全にたどつけ、勝ち続けることができる。しかし持たざる者は暗闇の中で安易に動けず、身の回りの小さな「予測可能性の壁」に囚われる。そして人生は作業ゲー化し、コンビニエンスな身体的快楽に没入し、「誰かのためになにかをしたい」という想いは、「可哀想な動物」に感染し解消される。ネオリベラル(ネオコン)では、そのような格差はある程度許容されつつ、国家(政策)によって解消されるいうことだろうが、実際には不確実性の高さから十分に対応されることは期待できない。

柄谷的にいえば、このような資本と国家とともに重要になるのが、ネーションという「想像的なもの」である。いわば、暗闇の中で動けない弱者たちが、「そっちはどうだ。大丈夫か」と互いに声をかけ、情報交換を行い、「予測可能性の壁」を拡張するように助け合う。ネットに求められる役割とはこのようなものではないだろうか。しかしこの例えは、宝物を獲得することのみを目的化にしている点で、市場主義的である。本当の宝物は宝物を探す中で生まれた他者との繋がりだった、という童話風な解もあるだろう。宝物(幸福)がなにかは、「開かれ」ていなければならない。それも「想像的なもの」としてネットに求められるもの一つだろう。

*1:モバゲータウンはなぜ薄気味悪いのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061126

*2:「なぜ「かわいい」が氾濫するのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061126

*3:なぜコミュニティは必要なのか その1  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061015