なぜお金はすべてなのか 純粋贈与と、贈与と、交換(全体) 

pikarrr2007-10-04



1 純粋贈与と、贈与と、交換

2 貨幣への負債感

3 科学技術−国家(法)−貨幣

4 貨幣交換世界の正当性

5 神々の闘争




1 純粋贈与と、贈与と、交換


幸運と神

たとえば宝くじで10億円当たってしまうと、どのような気持ちになるのだろうか。それは飛び上がるほどのうれしさであるとともに、不安になるのではないだろうか。無償で大金を贈与されることの罪悪感がともなうだろう。

このために宗教への帰属とは関係なく、漠然と神に感謝するだろう。それはこの罪悪感(負債感)を解消するために必要な返礼する他者を想定する。神へ感謝することで返礼する。あるいは慈善団体へ一部寄付することもあるだろう。また知り合いに祝儀を振る舞うだろう。

これはつゆ払いであるとともに、負債感の解消行為である。このような散財による贈与は、神=超越的な他者への返礼であり、負債感の解消である。これは迷信のようなものであるだけでなく、経済的な行為である。負債感は無意識に罪悪感として、今後の様々な行為を萎縮させるようなことがおこる。この幸運を吹っ切り、次に結びつける行為であるといえるだろう。たとえばホールインワンをするとパーティーを開く、たとえばサッカーでゴールをしたあと、神に祈る行為などにも現れている。



純粋贈与、贈与、交換

贈与は、贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、贈与者になるということは、相手の上位にたつことなのである。・・・モースにとってそれは、交換の原因をなす精神的な基礎、すなわち優越性への欲望と、引き続き生ずる負債感である。

かつてデリダ「時間を与える」において「純粋贈与」とでも呼びうるものに言及した。モースの言う贈与は、交換・交易を必然的に引き起こす。すなわち含んでいる/予定している契機であるがゆえに、真の、無償の、つまり純粋なそれではないのである−それはむしろ、「贈与交換」と呼ばれるべきものである。・・・「純粋贈与」とは究極の無償贈与であり、たとえば神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなものを想定すれはよいだろう。

純粋贈与と、贈与と、交換の差異とはいったい何だろうか。それは、「負債感」の相殺にかかる時間の差異である。交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。これに対して贈与では、返礼をするまでのあいだ負債感が持続する。そしてむしろ、その持続する負債感が返礼の原動力となる。・・・さらに純粋贈与にあっては、それに対する返礼は人間業では用意できない。すなわち負債感の相殺は永遠にできないことがはっきりしているので、負債感は永続的なものとなる。


中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) 第7章 聖なるものと構造



純粋贈与と純粋略奪

「純粋贈与と、贈与と、交換の差異が、「負債感」の相殺にかかる時間の差異である」、中野の指摘はとても示唆的である。交換における時間的な延滞を引き起こすのが、「神への返礼」だろう。贈与は、他者との間で完結しない神の存在によって、等価交換のような瞬時に負債を解消することができない。たえず自然の恵み、脅威という純粋贈与の不確実性に晒されている以上、神への返礼を欠かすことはできないのだ。

純粋贈与は、「神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなもの」であるとともに、自然脅威や予測不可能な災難なども考えることができる。すなわち神や自然の人間に対する略奪である。ボクはこれを「純粋略奪」と呼んだ。

たとえば子供を殺された親はその犯人への恨みを持ち続けるだろう。そして負債を解消するように復讐を望むだろう。しかしそれは地震などの天災出会った場合には、生まれる負債感の相殺はどこにも向かうことができない。

そしてそれを解消するために神が生まれた。神という他者を想定することで、負債を解消する可能性を開く。なければ、人は決して解消されない負債の中でいきることができない。人はいきるためにたえず、純粋な贈与(略奪)に晒されてきた。それを神との贈与交換として解消する、すなわちいつかは、「負債感」の相殺できるだろうと想定することで、解消しようとする。



人は贈与せずにはおれない

ここに互酬性(贈与と返礼)の起源をみることができるのではないだろうか。原始的な社会では自然の恵み、脅威という偶然性のまっただ中で、生きていた。その日常は、原因なく、幸運と不幸が降りかかる、すなわち純粋贈与(略奪)が到来する世界である。

このような原始的な社会で互酬性(贈与と返礼)が一般的であるのは、単に共同体の成員同士の助け合いというだけではなく、神という他者も含めた互酬性(贈与と返礼)を考えなければならない。だから贈与は誰かに贈与すれば、いつか返礼がかえってくるだろうという打算的な交換であるが、そのネットワークに神が含まれていることで、ボトラッチなど散財のような交換をこえた行為となる。すなわち贈与とはいつも神への返礼が含まれているのである。

逆に言えば、神からの贈与への負債感を解消するために人は贈与せずにはおれない。そして互酬性(贈与と返礼)に参加するしかない。




2 貨幣への負債感


現実の貨幣交換はどこまで純粋か

「交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。(中野)」というとき、現実の貨幣による等価交換はどこまで負債感の持続時間がゼロである純粋な交換でだろうか。

たとえばある電化製品を買った。しかしそれは期待したような特性を満たしていなかった。それは不良ということではなく、消費者が勝手に期待したものであり、製造メーカーにクレームを言うものではない。たとえば人はブランドへの信用で商品を買う場合にこのようなことが起こる。ソニーの製品だから期待して買ったのに・・・。

ここでは貨幣による等価交換が行われているが、負債感の持続時間がゼロである純粋な交換とはいえない。ブランドとは、信用という形で負債感を引き受けることを意味する。だから消費者はブランド品を好むのである。すなわちどのような等価交換であっても、相手が誰であるかという期待があり、贈与性が完全に解消されることはないだろう。



マルクス貨幣論

マルクスは等価交換を「命がけの飛躍」と呼んだように、交換は奇跡的な行為である。たとえばAという対象を持っている人とBという対象を持っている人が出会い、交換するためには、Aという対象を持っている人がBという対象を望み、Bという対象を持っている人がAというう対象を望んでいなければならないという「奇跡的な出会い」が必要である。

貨幣はこれらの間を結ぶ位置にいる。Aという対象を持っている人もBという対象を持っている人もまず貨幣と交換することで、等価交換を容易にする。貨幣を持つと言うことは商品に対して優位な位置にたつことを意味する。

さらには交換では、AとBというまったく共通項のない対象の間に、どのように等価を決定するのか、という問題がある。対象の価値とは交換されることで事後的にしか決まらないものであるからだ。そしてここでも貨幣は優位な位置をもつ。商品は貨幣と交換されることで初めて価値を持つのである。

商品を売る人は売ってもらうのであり、貨幣で買う人は買ってあげるという非対称な関係が生まれる。資本家は労働者から労働力を買ってあげる、労働者は労働力を買ってもらうという非対称性にマルクスは搾取の基底をみた。消費でいえば、消費者は商品を買ってあげる。資本家は商品を買ってもらうという非対称である。



ラカン的贈与論

交換をラカンにつなげることができるだろう。先の互酬性(贈与と返礼)では、以下のような関係で整理される。

原始社会では、自然のめぐみ、脅威という不確実性を生きる。人は不確実であることを受け止めることはできない。このために自然を神という交換可能な(超越的な)他者とし、不確実性を負債とする。不確実性には(交換)コミュニケーションは存在しないが、負債とはいつかは返礼できる。そこに交換関係が成立している、ように振る舞う。

自然のめぐみは神からの褒美であり、脅威は怒りというメッセージである。それを受け止めて適切に返答することで、自然をコントロールする。話しかけてもコミュニケーションが成立しない力とはなんと脅威であろうか。話せば分かることで人は安心する。

現実界(不確実性)=純粋贈与(略奪)、自然のめぐみ、脅威→外傷的

想像界(神的なものへの期待)=外傷をさけるために、神を想定し、贈与(交換=コミュニケーション)が可能ないよに振るまう→神(自然)に対して人は負債を負う→交換に贈与性(神への贈与)を混入し負債を返礼する。

象徴界(社会的な構造化)=互酬性(贈与の儀礼化)



ラカン貨幣論

異なる対象を等価に交換することは、「命がけの飛躍」であり、不確実である。なににおいて等価とするのだろう。そこには絶えず、闘争(略奪)の可能性がある。そこに絶対的な価値観としての貨幣を媒介する。貨幣価値化されたものは絶対的なものであり、従うしかないと考えられる。

貨幣価値は交換価値として市場で決定されると思われているが、それも一つの神話である。たとえばメーカーは市場に出回る前に価格を決定する。ここにはマルクスのいうような労働時間(人件費)など加工費は考慮されるが、最終的にはこの商品ならこれぐらいかな、という戦略的、偶然的に決定される。だから貨幣は神の位置にいる。資本家と労働者の非対称性であり、お客様は神様なのである。

現実界(不確実性)=純粋等価交換(負債感の持続時間がゼロ)→利害による闘争(略奪)の可能性

想像界(神的なものへの期待)=闘争(略奪)をさけるために、神(貨幣という絶対的な価値)を想定し、等価交換(交換=コミュニケーション)が可能ないよに振るまう→貨幣に対して人は負債を負う(買ってもらう立場)、貨幣を持つ者は神様→交換に贈与性(貨幣への返礼)を混入し負債を返礼する。売るときに返礼が働く。

象徴界(社会的な構造化)=貨幣交換(貨幣交換の儀礼化)

だから貨幣交換は負債感の持続時間がゼロであり、心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるようなものではない。交換関係が成立しているように振るまうことで、人は貨幣に対して負債をおう。売る立場は負債感をもつ。たとえば先のブランド戦略とは、売る立場が等価交換以上のもの(信頼=贈与性)を提供するという意味を持つだろう。



稀少品の優位性

「なんでも鑑定団」をたまにみるがあのおもしろさはなんだろう。ある鑑定対象に対して、二つの物語が語られる。ひとつは依頼者の鑑定対象への思い入れの物語である。先祖からの言い伝え、友人からの贈り物などなど。もう一つは対象そのものの物語である。どのような時代にどのように生まれたのか。

そして最後に、プロにより価格が査定される。父の形見、一族の尊厳、作者の生死をかけた作品など感動的な物語であっても、物語と断絶したところで価格が決定される。貨幣のもつ価値制定の力の場面がある。

だから商品を売る立場は、その商品の信頼性、それはまさに売る人の信頼性をPRしなければならない。そこには貨幣という商品はなにによって保証されているのか、ということも問われるはずが、その問いは隠されている。貨幣はいつも絶対的な位置にいるのである。

しかし商品が十分多くなく、商品が希少なものである場合、逆に売る立場は強い位置にくるのではないだろうか。だが売る立場が強い位置にくるのはあくまで貨幣による価値査定の後でる。稀少品もまず貨幣価値化されなければ、価値を持たない。希少商品は希少であるから価値であるのではなく、「貨幣」が稀少であると認めることで価値を持つのであり、価値を認めなければ、どのような物語があっても、私的に思い入れがあっても価値を持たない。稀少品を売る立場の強さは貨幣に従属したものでしかない。




3 科学技術−国家(法)−貨幣


生存を保障したものとしての「神」

不確実性としての外部を隠蔽し儀礼的に調停するところに「神」は生まれ、人は負債感をもち、従う。このようなラカン的象徴化装置において、贈与も貨幣も説明されるが、この装置は汎用的である。たとえば君主や国家も同様の構造にある。さらには、これはとてもよくある構造である。浜崎あゆみだろうが、カリスマとはいままでにない外部を調停したものとして登場し、ファンは「いろんなモノをもらった」と負債を負うことで崇める。

すると問題はどこに不確実性としての外部を「見いだす」か、ということになる。重要な点は外部は客観的に存在するのではなく、人々が脅威であると「見いだす」ことであらわれる。

贈与も貨幣も君主も国家も浜崎あゆみも、外部を調整することで外部を作りだすという、循環論に陥る。それを断ち切るのは「生存」ではないだろうか。結局のところ生存を保障することで、その時代の「神」は選ばれる。アガンベンはシュミットを引用し、「主権者とは例外状態につ いて決定する者である。」と言ったが、ここでいう選ばれた「神」とは、誰が「例外状態」(外部と内部の境界)を調停したのか、が問題となるだろう。



贈与交換の強さ、貨幣交換の弱さ

原始社会において、自然が脅威であったとき、共同体と自然との関係には、自然という「神」への贈与に向かうしかない。。そして贈与における負債感の持続が人の繋がりを作る。だから基本的に贈与は身近な共同体の中で行われる。これは共同体内の贈与交換に信用を与え、略奪(闘争)を排除するような繋がりの「強度」があるだろう。それとともに共同体と共同体の間では、略奪(戦争)が繰り返されてきただろう。

近代において、自然の脅威が科学技術によって、管理され、自然の脅威を調停する贈与関係の繋がりは希薄化する。ここにホッブズ的な自然状態(略奪)が生まれる。ここでは、貨幣交換が全面化することは難しいだろう。なぜなら貨幣交換は、負債感を生じにくく、貸し借りの感情が相殺されるやすく、繋がりの強度を生みにくい、繊細で弱いシステムであるからだ。

だから柄谷がいうように帝国主義において、植民地として略奪が行われたのは、等価交換などというめんどくさいものよりも、略奪が行われた。そしてこの等価交換という脆弱な行為を成立させるためには、国家権力が必要とされた。



科学技術−国家(法)−貨幣

柄谷は国家の設立の条件に、破壊力をもった火器の発明と商品経済の浸透をあげた。科学技術と世界経済が権力の独占を可能にすることで、国家は可能になった。すなわち、科学技術と国家と商品交換は相補的に発展し、「近代世界システムを形成したということだ。科学技術は自然(労働力も含む)を解体して資源化し、貨幣の非対称性によって市場へ流入する。これらの運用を国家権力が補強する。

国家と商品交換は共同体と共同体の間で、並行的に成立する。一つの共同体が他の多数の共同体を支配するようになるとき、多数の共同体の間で生産物の交換が無事に行われるようになる。商品交換は人類史の早期段階からはじまったが、近代国家と市場経済が確立されるまで従属的・補足的である。

絶対主義王権国家は、王がこれまで王と並び立っていた多数の封建諸侯を制圧し、また教会の支配権を奪うことで成立する。これを可能にしたのが、破壊力をもった火器の発明と商品経済の浸透である。火器は・・・国家が暴力の独占に存する。商業や交易は帝国によって管理独占され、商品交換は他の交換様式を上回ることはできないかったが、絶対主義王権は商品交換の原理を全面的に受け入れる。

主権は1国だけでは存在しない、他の国家の承認によって存在する。西ヨーロッパにおける絶対主義国家(主権者)の誕生は、帝国や部族国家を主権国家として再組織し、世界的に主権国家を生み出す。また資本主義的市場経済も1国だけで考えることはできない。いったん世界市場=世界経済が成立すると誰も外部にあることはできない

絶対主義王権国家は、明かな略取−再配分をもっていいたが、市民革命以後の国家では、国民が義務として自発的に納税し再配分するため、国家は国民によって選ばれた政府と同じにみなされる。しかし国家は政府と別のものであり、国民の意思から独立した意志を持っている。国家は戦争においてあらわれる。


「世界共和国へ」 柄谷行人 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903




4 貨幣交換世界の正当性


経済学的貨幣交換世界はどこにあるのだろうか

古典派ないし新古典派経済学においては、純粋状態とも呼べる経済システム像が構想された。すなわち経済主体とは自律的「個人」であり、そうした個人が「利己心」をもって「市場」で取引をするなかで「神の見えざる手」(スミス)の力によって、需要と供給の「均衡」がもたらされた。「需要」はそれをちょうど均衡するだけの「供給」を生み出した(セーの法則)。財市場だけでなく、貨幣市場や労働市場でも、つまりすべての市場で同時に均衡した(ワルラス一般均衡理論)。個人は「商品」あるいは「財」について「効用」をもち、自分の効用を最大化に関して、「合理的」に行動し、市場の均衡点においてその集積である「社会的厚生」が最大化された(特にピグー厚生経済学)−。

こうした市場について考え方は、まず基本的に、快楽の量は計算可能であるとするベンサム功利主義思想に基づいているといえる。こうした「快感計算」の不可能性や「合理的人間」という仮定が非現実的であることから、こうした諸々の仮定を批判したり、経済学理論全体の有効性を疑問視したりする向きもある。また第二に、過去の状態が現在を決定し、現在の状態が未来を決定するという<機械論>の考え方がベースにあると言える。


中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P33-32

こうした経済学的世界では、「負債感は生じない」完全な交換が基本とされるだろう。しかしこのような経済学的貨幣交換世界はどこにあるのだろうか。

経済学の基本である効用を求める合理的な主体は消費者であるより、生産者に適応する。これは公共的と私的に関係する。人は生産的な場面、すなわち労働の側面において公共的に振るまい、消費において私的に振るまいやすいからである。そして経済学的合理性を公共的なものとする考えそのものが近代におけるものであり、資本主義社会において制定され、目指されるイデオロギー(科学技術−国家(法)−貨幣)を表している。



「科学技術−国家(法)−貨幣」の正当性

科学技術は自然(労働力も含む)を解体することで資源化する。そこに時間的、空間的差異を生み出す。そして貨幣の非対称性によって、貨幣価値し市場に流し込む。これらの運用を国家権力が補強する。

マルクスは資本家が(特別)剰余価値を生み出すために、技術革新は必要とされる、といったことに対応するようであるが、科学技術−国家(法)−貨幣は相補的に利益を生むだけでなく、「例外状態」を制定することで、正当化される。正当化とは、生存を保証することで、神の位置に立ち、人々に負債感を与え続けているのだ。

人々は貨幣に対して負債感をえる。たとえば労働者は労働力を企業を売る時、等価交換であるはずが、有り難み(贈与性)を感じ、社長など経営陣は貨幣を与える者として、神格化される。あるいは、市民は国家(お上)に対して負債感をえる。



例外状態で浮上する贈与関係

ただ人々の「感染」はただ貨幣にだけむかっているわけではない。いまも、科学技術−国家(法)−貨幣の下で、贈与関係の強度は社会を支えている。これは、柄谷的には「ネーション」ということになるが、贈与的な人の繋がりは家族、地域、あるいは人類愛のような様々な大小の領域で基底として働いている。それは、贈与関係の強度が、いまも有用であり続けるからだ。

「想像の共同体」ベネディクト・アンダーソン。18世紀西洋におけるネーションの発生。啓蒙主義、合理主義的世界観の支配の中で宗教的思考様式が衰退したところ、ネーションは宗教にかわって、個々人に不死性・永遠性を与え、その存在に意味を与える。

ネーションは、商品交換の経済によって解体されていった共同体の「想像的」な回復する。ネーションは、資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補充され解消される互酬的な共同体である。


「世界共和国へ」 柄谷行人 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903

それが明らかになるのもまた例外状態においてである。たとえばアメリカの大震災やハリケーンの大災害などに顕著であったが、電気の不通など科学技術が有効でなく、国家(法)による援助も不十分で、ましてや貨幣が機能していない例外状態、無法地帯では略奪が発生する。そしてだからこそ、自衛的な贈与関係が現れる。日本の震災などで、地域的な繋がり、あるいはボランティアなどの人々の助けあいが浮上してくる。

それはまた、逆説的に、正常状態における科学技術−国家(法)−貨幣の強力さを示すだろう。




5 神々の闘争


なぜグローバリズムで格差が生まれるのか

例外状態をいかに統治し、成員の生存を確保するか、それがその時代の「神」の役目である。

柄谷がいうように、グローバリズムとは、最近のことではなく、国家はそのはじめから世界経済とともに発生した、ということである。そして科学技術−国家(法)−貨幣の秩序体系は、国家の境界(グレイゾーン)で自国のために、権力を発動させる。国家権力のもと、科学技術は自然(労働力も含む)を解体して資源化し、貨幣の非対称性によって市場へ流入することで利潤をえる。ここに国家間の権力闘争があり、先進国は帝国主義的な植民地であり、南北格差問題など、合法的に権力行使を繰り返してきた。

たとえば中国が世界の工場と言われるのは、大量の人々を労働力として均質に科学的に教育し、安価に市場に投入することで、安価で質のよい人材を提供することにある。国家としての中国は、先進国との利害をめぐる駆け引きが行われる。

このような例外状態における闘争は、国内でも格差として現れるだろう。経済学者がいうようにネオリベラリズムが生み出す格差が単に経済学的な合理性、すなわち自由と平等の状態では統計学的に算出されるような格差である、という外で、その例外状態において、このような闘争が行われ、そして決定的に権力(お金)を持つ者が優位に働くだろう。「小さな政府」はまた一つの国家戦略である。



回帰する純粋贈与(略奪)

現代の外部は、「回帰する純粋贈与(略奪)」として現れる。「回帰する純粋贈与(略奪)」とは、人間とは関係がない純粋は自然災害などではなく、環境資源問題、テロリズム、ネットなど、科学技術−国家(法)−貨幣の活動が生み出している例外状態で生まれる。

これを表す象徴的な物語はAIDSである。AIDSは本来、アフリカ奥地の猿に感染するウィルスであったという。これは社会の外部の存在であるが、まだ外部とは言えない。AIDSウィルスが外部であるのは、それが内部に到来し、人々に恐怖を与えることにおいてである。

これはアガンベンの用語で言えば、外部と内部の境界、開拓された外部=グレイゾーンの問題いうことだできるだろう。



なぜビン・ラディンは脅威なのか

先進国の権力への反動ということで、現代のテロリズムも、また開拓された外部、回帰した外部である。このような権力への抵抗運動は耐えず存在するが、ビン・ラディンの脅威は、一人の金持ちが現代の「帝国」とも呼ばれるアメリカと対等に戦えているという事実である。

ここにはビン・ラディンは宗教的な指導者と近い位置にいるが、それとは異なるのは、彼が神格化されることで暴力を手に入れたというよりも、テロリズムという暴力の行使によって、神格化されたということだ。

イラク北朝鮮などの原子爆弾の流出の可能性など、従来は高価で高い位置にいる者のみが手に入れることができた科学技術である兵器、情報(ネット)技術などが安価で手にはいるようになっていることで、「科学技術−独自の信念」によって、アメリカに対抗できるまでになっているということが現代のテロリズムの脅威である。

ここには「科学技術−国家(法)−貨幣」の秩序体系における、科学技術の突出がある。科学技術の発展が、国家、貨幣の秩序を越えた例外状態を作り出し、その秩序を脅かしている。



なぜネットには多くの神がいるのか

ネットもまた科学技術の発展が、国家、貨幣を抑えて、その秩序を脅かす、回帰した外部である。安価で世界へ情報発信し、コミュニケーションすることが可能にすることで、国家(法)の秩序を飛び越え、危険な情報や、法的な公共性において認められないような誹謗中傷などが、無法地帯として氾濫している。国家(法)の秩序が及ばない例外状態=略奪(闘争)の場であり、貨幣交換も安心してできない。

だから贈与関係の強度が浮上し、ネットの社会性を支えている。ネットにおいての「神」は、国家(法)でも、貨幣でもなく、贈与するものである。高価なソフトをアップするもの、一般には知りえない有用な情報を公開するもの、無償の労働で有用な意見を発信するアルファブロガーなどは、まさに「神」と呼ばれ、自らの裸体を晒す女性は「女神」と呼ばれる。ネットでは多くにおいて、匿名であり、それ故に、「小さな」純粋贈与=天からの贈り物と行うものであるために、小さな「神」なのである。

しかしテロリズムやネットはまた「科学技術−国家(法)−貨幣」の秩序体系が世界を開拓する時に生まれる遷移状態であるといえるのかもしれない。中東にも確実に資本主義的な秩序は浸透し続けているし、ネット技術はまさにグローバリズムを押し進めるツールである。ネットへの国家権力の行使の緩さは、「ネット上で人は殺せない」というような直接的な生存と離れているためであるとも言える。テロリズム「神」もネットの「神」も、現代の「神」=科学技術−国家(法)−貨幣にかわり、人々の生存を保証する可能性は低く、新たな時代の神とはなりえないだろう。



なぜ環境問題対策はうまくいかないのか

環境問題もまた、現代の「神」=科学技術−国家(法)−貨幣が生み出した、回帰した外部(自然の脅威)である。環境問題に対する、科学技術−国家(法)−貨幣のシステムの対応方法の一つは省エネなどの科学技術が考えられる。しかし環境対策はメーカーには開発費がかさみ、消費者には価格アップになる。だからこのような技術の導入は、国家(法)主導による強制としての規制、環境税補助金などが必要である。

しかしこれは本質的な対策にはならない。なぜなら科学技術−国家(法)−貨幣は、環境問題という例外状態においても利潤を生み出さなければ、その「神」としての存在意義を問われるからだ。環境問題は、1国だけで解決できず、国家間の利害が絡んでうまくいっていないのは、それぞれの国家がその存在意義として、環境対策をしながら、利益を確保するという矛盾に陥っているからだ。

このようなことは、世界の貧困が平準化しないのも、グローバリズムでも変わらない。現在のシステムでは国家間の闘争=神々の闘争でしか解決できない。そこには神々を納める神はいない。だから環境問題が深刻化しても、国家はただみずからの存在意義をかけ、神々の闘争、国家間の闘争を激化させる。最近の中国による世界資源の争奪などに、その傾向が見えているのかもしれない。



「世界共和国」の可能性

このような国家の強固さは、自国民(ネーション)の生存にかかわっているからだ。しかしここに循環論があるだろう。自国民(ネンーション)は国家に先行して存在するわけではなく、国家がなければ自国民(ネンーション)は存在しない。すなわちここにまさにラカン的象徴化装置による神の構図がある。

柄谷の「世界共和国」論が単に、国家の上位概念として国際組織を作ることだけを意味せず、アソシエーションとして、科学技術−世界共和国(法)−贈与というシステムそのもののシフト(革命)を提案するは、神々が調停することは不可能で、新たな神が生まれるしか解決策がないためだろう。

しかし「世界共和国」が可能であるとすれば、このような神々の闘争が徹底的に混沌としてた先にしかないだろう。あるいは宇宙人が攻めてきて「地球人」としての生存が危ぶまれるとき、すなわち一気に強力な純粋贈与(略奪)が到来するとき、地球人すべての負債感を回収するような「世界共和国」というような強い神は作動するだろう。
*1