「なぜお金はすべてなのか」Q&A 

pikarrr2007-10-06


はてな住人むちゃするな〜(笑)」


なにがおこったのだろうか。「[まとめ]なぜお金はすべてなのか 純粋贈与と、贈与と、交換(全体)」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071004に大量のブックマークがついている。はてな住人むちゃするな〜(笑)」。どうかんがえても、こんなにブクマがつくエントリーではない。

自画自賛になるが、確かに様々な新しいアイディアがつまったいままで1番の力作にしあがって、かなり満足している。今後、展開する可能性を多く秘めている。しかしぶっちゃけ、哲学知識がない「しろうと」に簡単に理解できるものではないだろう。

内容が難しいというだけでなく、哲学用語や、引用が解説なく、使われている。引用している本が前提としてあり、その批判として書かれているところが多々あるので、関連書を読んでいないとわかりにくいだろう。柄谷行人「探求Ⅰ」ISBN:4061590154)、マルクスの可能性の中心」ISBN:4061589318)、「世界共和国へ」ISBN:4004310016) 、中野昌宏「貨幣と精神」ISBN:4888489785) 、中沢新一「愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュ〈3〉」ISBN:4062582600)あたりはぜひおすすめ。

さらには全体の構成が先にあって書いたのでなく、書きながら考えているので思考のあとのようなもので、言ってしまえは、自分でもこの内容の可能性をくみ尽くしていとは言えないほどの原石である。これを「しろうと」にも分かるように書くとすれば、本1冊分は必要だろう。

大量ブクマの理由を考えると、気楽につけた仮題「なぜお金がすべてなのか」に反応したのではないだろうか。経験的にいえば、ブクマの数は題名のおもしろさで50%きまる。はてなの題名は出オチ」の法則、あとは「あとで読む」はあとで読まない」の法則に従がえば、実際に全部を読んだ人は、5人いないだろう。まあ、いつものことだが・・・

それでもいくつかの質問があったので、答えてみよう。




Q:現実界と純粋贈与の違いはなにか


マルクスは商品の交換を「命がけの飛躍」といい、交換する人の間にある断絶を指摘する。この断絶が現実界。柄谷はこの交換の断絶(現実界)を「他者性」と呼ぶ。

私が対関係とよぶのは、共同的・一般的な規則がたんに”事後的”にしか成立しえないような関係のことである。私が「売る立場」「教える立場」というかたちでいってきたのは、すべてこのような対関係をさいしている。それは、同一の言語ゲームをもたないゆえに、「命がけの飛躍」をはらんでいる。これに比べると、いわゆる対話には明らかに他者はいても<<他者>>はいない。いいかえれば、他者の"他者性"がない。


柄谷行人 「探求Ⅰ」ISBN:4061590154) P228

しかし交換に向かうことを前提にしている時点で、すでに最初に相手が「人間」であるようなコミュニケーション可能性が想定されているのではないか。なぜならもしほしいものをもつ相手が「犬」だったら、ただ略奪するだろう。あるいはもしほしいものが森になる果実だったら、すぐにもぎ取る(略奪)するだろう。まさにこの「めぐみ」が純粋贈与(略奪)である。

すなわち純粋贈与の方が「より外部」にある。人は不思議なことに、自然のめぐみ(純粋贈与)に感謝したりする。これは「外部」に対して、コミュニケーションが可能なような他者を想像する。コミュニケーション可能性とは、外部のあとに現れるべきであり、柄谷やデリダのように、外部に対してはじめから「他者性」を想定するのはおかしい。

と言いたいが、話はそう簡単ではない。なぜならば、商品の交換の間に断絶があるということは、相手は人間でなく、犬でも、森でもよい。交換の成功も失敗も、”事後的”にしかわからないからだ。すなわち柄谷の「他者性」も人間である必要はなく、犬でもよいことになるだろう。

理論的にはそうなのだけれど、どうも柄谷やデリダ「他者性」というときには、実在的な人間が想定されている「臭い」。それに対して純粋贈与はより外部にある。




Q:本来、マルクスの搾取は、剰余価値によって語られるが、貨幣の非対称性を取り上げるのはなぜか


資本家への批判の典型として、金の力にものを言わせて、政治家へ贈収賄など不正に利権をえる、というものがあります。このような政治的な問題と、マルクスの搾取論はなんの関係もありません。マルクスの搾取論は、資本主義における正常状態の中にひそむ搾取の構造を経済学的に指摘しました。不正ではなく、正常そのものを問題にしたのです。それがマルクス剰余価値論です。資本主義社会において資本家が剰余価値を生み出したから、捕まることはありません。それこそが資本主義社会の正常なのです。不正が問題がならば、いまの正常を強化すればよいのですが、正常が問題ならば新たな正常を作らないといけない、マルクスが革命を目指すのはそのためです。

今回のボクの内容の主題の一つは、経済学の彼岸を語ることです。経済学が基本にする「純粋な交換」はどこにも存在しません。貨幣交換においても合理的に割り切れないドグマなものが作用しているという当たり前の事実が、経済学では排除されます。そこに贈与性を導入することが今回の目的です。だから経済学の内部にある剰余価値は重要ではありません。エントリー中の以下の文章はまさにそのようなことを意味します。

科学技術は自然(労働力も含む)を解体することで資源化する。そこに時間的、空間的差異を生み出す。そして貨幣の非対称性によって、貨幣価値し市場に流し込む。これらの運用を国家権力が補強する。

マルクスは資本家が(特別)剰余価値を生み出すために、技術革新は必要とされる、といったことに対応するようであるが、科学技術−国家(法)−貨幣は相補的に利益を生むだけでなく、「例外状態」を制定することで、正当化される。正当化とは、生存を保証することで、神の位置に立ち、人々に負債感を与え続けているのだ。


なぜお金はすべてなのか(全体) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071004

この場合の経済学の彼岸を語るとは、簡単にいうと、経済学では社会の成員の経済的行為によって社会は成立しているということに対して、この社会の成員の一人として「神」(純粋贈与)を加える必要があるのではないかということです。それによって、経済学的合理性では語れない贈与性を、含めた(超越論的)経済学のようなものを語ることができるのではないか、ということが今回の試みです。だからマルクスでいえば、剰余価値論ではなく、貨幣の非対称性であり、商品の物神性が重要なるのです。




Q:ホッブズ的な自然状態(略奪)を、贈与関係の繋がりの希薄化、科学技術で語るとはどのようなことか。


最近では国家の前に、贈与関係による共同体があったことが一般的に知られています。するとホッブスの自然状態は消失してしまいます。しかし今回参照した中野昌宏「貨幣と精神」ISBN:4888489785)でホッブズ的秩序問題」を貨幣の成立につなげるように、そして柄谷が「レヴァイアサン」が書かれた時代背景を考えたように、ホッブズの自然状態を考える必要があります。

ホッブズ「レヴァイアサン」を書いたのは、ピューリタン革命の最中においてです。ホッブズが絶対主義王権を擁護するために書かれたのではないということは明らかです。・・・彼の考えでは、大事なのは、王政でであろうと、共和制であろうと、とにかく主権者が存在するということ、そして、それによって暴力的な「自然状態」がなくなるということです。もちろん、それは国家の内部だけでのことであって、他の国家との間では「自然状態」が存続するのです。


柄谷行人 「世界共和国へ」ISBN:4004310016) P117-118

今回のエントリーのキーワードは、純粋贈与(略奪)です。すなわち人類社会の変化を、外部圧とその外部圧を開拓する技術の関係で語ろうということです。技術とは不確実性(外部)を予測可能性(内部)へ回収するものです。「主権者とは例外状態について決定する者である。(シュミット)」ということをつなげれば、主権者とは、技術の行使を独占するものである、ということです。

近代にホッブズ「レヴァイアサン」を書いたのは、その時代の外部圧とその外部圧を開拓する技術と関係するだろう。すなわち贈与=共同体から科学技術=国家への変化を背景に考える必要があるわけです。

このような考えに近いものに、ホッブズの秩序問題を中心に語った「資本」論―取引する身体/取引される身体」稲葉振一郎ISBN:4480062645)があります。

ホッブズ的自然状態を解釈するもっとも自然で、おそらく有意義なやり方は、それを国家以前の状態と解釈するのではなく、何らかの理由で国家が解体してしまった後の無政府状態と解釈する、というものでしょう。・・・もちろんまず思いつくのが、ホッブズも意識していたであろう、文字通り戦争を通じての、国家の解体です。・・・しかし本書で言う意味でのロック的=生態学パースペクティブはもう少し踏み込むことを可能にします。・・・つまり「技術」「生産力」のことです。・・・生産力の発展、経済成長によって、法と国家にとっての「エコロジカルな条件」は変わりうるのです。


「資本」論―取引する身体/取引される身体」 稲葉振一郎ISBN:4480062645)P34-37




Q:「世界共和国なんてどうだっていいじゃないですか?」


今回の「神々の闘争」でいったことを、ぶっちゃけると、世界はいつも戦争状態(武力だけでなく、経済的、政治的に)だった。だからいまも世界には貧民の方が多い。ぶっちゃければ、環境が悪くなってツバル共和国が海に沈んで難民になっても、貧民が少しふえるだけで、神々(国家間)の闘争は終わらないだろう。世界共和国なんて、宇宙人でもこないかぎりないだろう。と、シニカル?なオチになっています。 このあたりは今後、今回の論理の可能性について、自分でも読解が必要だと思っています。
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