なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか 動物化とスノビズムと村上春樹風(全体) 

pikarrr2008-02-09



1 動物化スノビズム村上春樹

2 村上春樹風超人とオタクの自己組織化

3 なぜ動物は死なないのか

4 村上春樹はなぜオーム真理教事件に惹かれたのか




1 動物化スノビズム村上春樹


不安と孤独の強度

現代において、人が立ち向かわなければならないものは、世界において自分は多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくるということだ。

この強度を受け入れることはそう簡単なことではない。人はこの強度による不安と孤独であわてふためき、逃亡をはかる。現代のテクノロジーが教えてくれるのは、よりよい逃亡の方法である。ゲームであり、ネットであり、お手軽なコミュニケーションによって、すみやかに逃亡を手助けする。

なぜこれほどに大量の消費が必要であるのかは、この孤独によるものだ。すなわち資本主義経済が成立するのはこのような原理によるとともに、資本主義経済は自由と平等と言う名の孤独を発明したともいえるだろう。



動物化スノビズム

このような現代において生きる道は二つある。先のように資本主義的な消費の熱狂に没入するか、あるいはあえて消費を抑制し、原理主義的な禁欲な夢をみるか。

これは、コジェーブのいう動物化スノビズムに対応するだろう。動物化とは、消費の熱狂に埋没して、孤独をふりはらい続ける。スノビズムは自らの人生を切り離さずに、大きな流れの一部として見いだすことといえるだろう。宗教においてはあの世へと続く、あるいは技術的なものとしては、技として後生につながっていく。だから物語は死によって終わらない。しかし現代の情報化社会において、一つの物語を信じ続けることはそれはまた難しいことだろう。



村上春樹永劫回帰

しかしさらにもうひとつの生き方がある。それは村上春樹風である。村上春樹風とはこの孤独の強度を受け入れ、ハードボイルドに生きる。*1

アメリカで生み出されたハードボイルドな小説は、肉体的タフさを糧に社会悪に対峙する作風であるが、村上春樹風は孤独、退屈という日常の強度に対して、タフさを発揮する。世界的に村上春樹が人気があるのは、現代の不安に対してこのような一つのスタイルを提示するからだろう。

たとえばボクが好きな村上春樹の作品に「プールサイド」がある。主人公は35歳の誕生日を迎えて、ここを人生の折り返し点と決める。そして折り返してはじめての煙草を吸い、豊かな生活、かわいい妻、そして愛人もいる、申し分ないと思う。でもなぜか10分間だけ、泣く。 それだけの物語だ。

 35歳になった春、彼は自分が人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。
 いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。
もちろん自分の人生が何年続くかなんて、誰でもわかるわけがない。もし78歳まで生きるとすれば、彼の人生の折りかえし点は39ということになるし、39になるまでにはまだ四年の余裕がある。それに日本人男性の平均寿命と彼自身の健康状態をかさねあわせて考えれば、78年の寿命はとくに楽天的な仮説というわけでもなかった。
・・・だから35回めの誕生日が目前に近づいてきた時、それを自分の人生の折りかえし点とすることに彼はまったくためらいを感じなかった。怯えることなんか何ひとつとしてありはしない。70年の半分、それくらいでいいじゃないかと彼は思った。もしかりに70年を越えて生きることができたとしらた、それはそれでありがたく生きればいい。しかし公式には彼の人生は70年なのだ。70年をフルスピードで泳ぐ−そう決めてしまうのだ。そうすれば俺はこの人生をなんとかうまく乗り切っていけるに違いない。
 そしてこれで半分が終わったのだ
 と彼は思う。


「プールサイド」 村上春樹 (ISBN:4062749068

折り返し点とは反復である。ただ消費に埋没し時をやり過ごすのでもなく、未来への可能性を夢見るのではなく、35歳にして反復を生きる。これは人生なんてこんなものだとわかったよ、というようなあきらめではない。人生の多くは孤独で、退屈であるということを受け入れて、強く生き抜く姿勢である。

村上春樹の小説には、このような「反復」にあふれている。ここには、ニーチェ永劫回帰に通じる生きる強さ(タフさ)がある。



オタクと村上春樹風の違い

オタクと村上春樹風はとても近いところがある。それは物へのこだわりである。村上春樹の小説では、人は無個性で、無機質化されているにもかかわらず、物は固有名によってディテイルにこだわって描写される。人は物の固有名の所有によって、単独性を確保されているようである。

このマニア性はとてもオタクに近いものである。しかしオタクはこの先に、二次創作による物語消費へと向かう。その過剰性の中に自らを埋没され、日常(の孤独)をやり過ごそうという逃避性が一般的にマイナスにみられる。これがオタクの動物化といわれる理由だろう。

それに対して、村上春樹は、物語消費の手前で踏みとどまり、孤独そのもの決して見失わない。ただ淡々と日常をこなしていく。ハードボイルドなタフさによって、クールに自らを止める。村上春樹風は小説のことであり、はたして実際には人はこのように強く生きられることができるのか、という疑問があるが・・・

孤独を忘却する動物化、孤独を再物語化するスノビズム、孤独をタフに受け入れる春樹風

キミはどう生きるかね。 m9( ̄□ ̄)




2 2 村上春樹風超人とオタクの自己組織化


「物語」とはなにか

まず「物語」とはなにか。それは動物と違う「人間」とはなにか、ということです。動物は「世界において自分は多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくる」世界を生きています。簡単にいえば、代替可能性です。自分がいなくなっても、誰かが代替するだけのことです。

しかし人間は、代替可能性を受け入れることはできません。たとえば子供を失った親は、違う子供で入れ替えることはできないということです。親にとって子供は唯一の存在です。そしてこの代替不可能性を支えるのが、その人の「物語」です。その人にはその人だけの物語があるのです。「自分の物語では自分が主人公」という歌がありましたが、人間であるということは、「物語」を生きるということです。この「物語」は主観的、形而上学的な物語です。



情報とはなにか

情報とはなにか、といえば、客観的、科学的な情報です。近代以降、社会は科学的な客観性を重視する社会となりました。科学的とは、還元的、帰納的ということです。人は科学的には、還元化され、物体(動物)として扱われます。すなわち代替可能な存在です。

すなわち現代において、ボクたちは絶えず囁きかけられているのです。「世界においてお前は多くの一人でしかない。もし自分がいなくなっても、機械のネジがかられるようにほかの人が問題なく補い、明日はなにも変わら流れる。」と。この拡散の強度をいかに生き抜くか。それが問題なのです。



動物としての生存の苦悩/人間としての収束と拡散の苦悩

再度いえば、物語とは、生で始まり死で終わるという私だけの一回限りのものです。同じ物語はどこにも存在しません。そして誰もがみな、自らの唯一の物語を生きているのです。それは失われると決して再生することはできません。だから人の命は尊いのです。

それに対して動物には、物語はありません。だから動物が死んでも次の動物で代替されるだけです。でも動物のペットに人々は愛情を注ぎ、代替できない、といえますが、これがペットが物語をもつのではなく、その人の物語の一部を構成するかけがえなさなのですね。すなわち唯一の物語への収束と代替可能性による物語の拡散。このような対立の構図がります。

このような収束と拡散の苦悩は、人間が本来もつ原罪のようなものです。これともう一つの苦悩は、動物としての生存の苦悩です。いかに安定した衣食住を確保するのか、どちらかといえば、人類にとってこちらの方が重要な悩みであり続けました。しかし近代、そして産業革命、高度情報化社会へと、生存の苦悩は緩和されてきました。

そして、現代において、生存の苦悩から解放され、コジェーブの動物化による「充足」、すなわち歴史の終焉へ向かう中で、「私とはなに?」という収束と拡散の苦悩がより大きなものになっているのです。



村上春樹風超人とオタクの自己組織的物語

村上春樹「プールサイド」「折りかえし点」という表現は、タイトルにもあるように水泳からきています。僕(村上春樹)と彼(この物語の主人公)はスイミングクラブで知り合い、この話を僕にします。彼はプールでの水泳を一つのメタファーにして人生を考えているのです。

プールとはただの四角いコンクリートの箱であり、それを往復(反復)するのです。すなわち彼がプールによって表したことは反復なのです。人生とはただの四角いコンクリートの箱を往復し続けることである、という人生哲学がそこに隠されています。彼のこの反復からくる退屈の強度をタフに泳ぎ続けている。

これをニーチェ永劫回帰にどのようにつながるのか。永劫回帰には様々な読みがありますが、ボクの「物語」論でいえば、人生は一度きりの「物語」であるということが自らの尊厳を支えますが、永劫回帰においては、この尊厳のよりどころの一回性が永遠に反復されるということです。そこにはそれでもこの反復を肯定する強い超人的な肯定(タフさ)が求められる、ということです。

果たして人は村上春樹風超人的に生きることにあこがれるだろうが、実際に生きることはできるだろうか。オタク的な生き方とは、このような強度を回避するために生み出されたともいえるかもしれません。オタクは反復をさけ、終わりのない物語として、自己組織的に物語を紡いでいくのです。



自らの物語を美しく描くか、集団のために潔く散るか

<折りかえし点>を見いだすということは、終わり(死)への覚悟をするということです。これはハイデガー「死への先駆的覚悟性」につなげることもできるでしょう。そしてとても西洋思想的で個人主義的なものです。

自己組織的に物語を紡いでいくというのは、単に死を直視することからの回避というネガティブな面だけでなく、東洋的な思考であるのかもしれません。

ボクがいった「物語」とは、生で始まり死で終わるという私だけの一回限りのものですが、私には親がいて、子がいてというような集団的な連続的な「物語」の一部として自らを受け入れる肯定することもできます。日本においては、むしろこのような集団の一部としての自らを見いだす、犠牲にする伝統を生きてきました。

このように考えると、自らの物語を美しく完成させようという村上春樹的な美学ではなく、自らは薄汚く散っても、それによって集団の物語が新陳代謝していくことを良しとする、美学がオタクの根底にはあるのかもしれません。それこそが動物化としてのオタクではなく、コジェーブがいった、日本的なスノビズムとしてのオタク文化でしょう。




3 なぜ動物は死なないのか


現存在的の物語

ボクがいう「物語」とは形而上学的なものです。よりわかりやすくいえば、「私はなにものであるか?」ということに対する答えです。「ボクは〜年生まれで、〜という父母の間に生まれて、〜のような性格で、〜のような経験をして、〜のような長所短所があり、〜のような夢をもち・・・」ということです。このような物語が物語として強度をもつ、すなわち「私はなんであるか?」により明確に答えようと紡がれる力は、現存在が現存在たるための、ハイデガー「死への先駆的覚悟性」によると考えています。すなわち死という終わりがあることで、物語は紡がれる。終わりがないところに物語は生まれない。だから動物には物語がなく、そして「死もない」、ということです。

コジェーブが動物化でいったことは、物質的な満足の中で、「私はなんであるか?」という問いが失われる。現存在が現存在たるための「死への先駆的覚悟性」が失われる。極端にいえば、ただ今が刺激的で満足であることで時間が経過し、気がつけば死んでいた、ということが理想的な動物化です。



言語ゲーム的な物語

物語にはまた異なる意味もあるということです。それはヴィトゲンシュタイン言語ゲームに近いものともいえます。言語ゲームは集団に共有されている物語です。では現存在的な物語と言語ゲーム的な物語の関係はどのようになっているのでしょうか。現存在的な物語は、言語ゲーム的な物語がなければ存在しません。しかし現存在的な物語は人それぞれ唯一のものです。

すなわち現存在的な物語は、言語ゲーム的な物語をリンクしつつ、独自性をもつということです。そして重要なことは現存在的な物語はどの程度、言語ゲーム的な物語を関係するか、ということです。



代替不可能な死

ボクは、動物には物語がなく、そして「死もない」、といいました。これはおかしいと思うでしょう。動物だって死ぬよ、と。これがこの議論の確信です。ボクはこれについていままでも何度も説明してきましたので、再度、引用してみましょう。

このような死への神性は虚構であるといえるだろう。しかし人の死と動物の死の違いは生物学的な差異ではなく倫理的な差異でしかない。すなわち死とはそもそもそこにしかない。だからこそ人は他者の死に対して背負えない負債をおうのだ。

たとえば、僕たちの内部では今も多くの細胞が「死んでいる」。これは、細胞を「個」と考えると、細胞は死んでいるのであるが、僕たちを「個」と考えると、僕という個を生存させるための新陳代謝である。あるいは蟻は細胞のように集団の役割にそってその形態が異なる。蟻1匹の死は個体の死であるが、集団の新陳代謝でもある。

そしてこれは生物学的には人間にも言えるだろう。人間の死は個体の死であるが、社会の新陳代謝であると。しかしこのような考えが問題であるのは、細胞であり、蟻であり、そこには代替可能があるからだ。1つの細胞が死ねば、すぐに他の細胞が代替する。1匹の蟻が死ねば、すぐに他の蟻が代替する。

しかし一人の人が死ねばすぐに他の人が代替するだろうか。交通事故で子供を亡くした親は他の子供で代替可能だろうか。このような「個」への強い思い、人はだれとも代替されない唯一の存在であるという代替不可能性が人間と動物を分ける倫理的な次元を開く。


なぜ科学技術は死を溶解するのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071017

生物学的(科学的)に死は、脳死などのようで定義されていますが、必ずしも移植などの利便性を考えて、最近定義されたものです。本来ボクたちが考える「死」とは、人の尊厳を支えるための倫理的なものでしかない。それは、人間は一人一人かけがえがない存在であるという「個」への強い思いによってのみ、支えられています。

これに対して、「集団」というものを重視するとき、個というものは集団の一部となり、個人の死は集団の新陳代謝としての面が強調されてしまいます。

再度、物語論にもどると、現存在的な物語とは「死」という終わりがあるから物語として成立する、「個」への強い思いに支えられてものです。言語ゲーム的な物語は、ある文化集団の神話ですが、これを強調する場合には、個人の死は物語の終わりでなく、集団の神話の新陳代謝として自己組織的に紡がれていくものです。これらはどちらかということではなく、どちらの傾向が強いかというようなものです。



物語への収束(代替不可能性)と物語の拡散(代替可能性)

ボクの物語論では、さらに、物語への収束(代替不可能性)と物語の拡散(代替可能性)という対立軸が入ってきます。

再度いえば、科学技術重視の情報化社会では、形而上学的な物語は主観的なものでしかないと攻撃されています。個の物語「私はなぜ生きているのか」には、「確率論の問題でたまたま生きているだけ。意味はない。」と解体され、集団の物語「人の尊厳とはなにか」「尊厳とは幻想であり、増殖が生物の本能だor集団の方が経済的に効率がよい」と還元主義的に解体される。この先には、ただ今が刺激的で満足であるならば、それでいいだろうという動物化があります。

人はそう簡単に動物化して充足することはできません。だから物語の拡散(動物化)の反動として、個の物語は村上春樹風に向かい、集団の物語はスノビズムに向かうのではないでしょうか。

まとめると以下のような図式になるでしょう。




4 村上春樹はなぜオーム真理教事件に惹かれたのか


DNA配列の危険

西洋哲学の根底には、人間/動物という対立が流れてきました。ギリシャ時代でいえば、人間とは労働から解放され、社会の中で自由で平等に振るまえる主人です。動物は奴隷など主人に従い、労働に従事するものです。今ではわかりにくいですが、このような人間/動物対立は科学的な客観性に相当するほど常識的なものでした。

大航海時代に有色人種に行われた非道は、同じ優秀な人間として認められていなかったという、常識を背景にしている面があります。あるいはナチスなどの優生学までもこの系譜はみることができるでしょう。人は生まれか、教育かという議論は最近までなされ、人間には優秀な人間から、下等な人間が存在すると信じられていました。
現代は、DNAの発見によって、人間/動物対立は科学的客観的なものになりました。もはや人間/動物という非常識な対立は遠い過去です。といえるでしょうか。

新たな科学的な還元主義を背景にした差別の可能性があります。人間と動物は、DNA配列によって差異化されたとして、人間の中でDNA配列の差によって、優劣が決められる可能性があります。たとえば精子バンクでは優秀な遺伝子というものがあります。あるいはDNAの解明によって、より客観的に根拠によって、優秀なDNAが特定され始めています。様々な病気に強いDNAであるとか、あるいは肥満に関係するDNAなど。

ここには明らかに還元主義的な短絡があります。人間の優秀さはDNAに還元できるのか。再度浮上するのは、人は生まれか、教育かという議論です。この先に、DNA優生学という差別が生まれる可能性は高いのです。

さらにDNAが保存されるとき、人にとっての死とはなにを意味するのでしょうか。それはまさに、「個」への強い思いが揺らぐのです。遺伝子に関する科学実験はたえず倫理的な議論を呼び続けているのはこのような背景によるものです。



物語化への転倒

このDNA優生学という例が示すのは、人は容易に情報化→物語化へのと転倒するということです。DNAは科学的に客観的に公平だ、というとき、すでに「DNA優生学の物語化が隠されています。

このような転倒はスティグレールのいう「アクティング・アウト(決行)」につながります。

文化コンテンツによる大衆のリビドーの捕捉は、究極的にはリビドー自体の破壊にまで及ぶ。様々な事件や凶行として現れる「アクティング・アウト(決行)」を招いている。

暴力的・犯罪的行為や凶行のもとには、自分は生きているのだという、存在感覚の喪失がある。消費者はマーケティングの標的となっていると、自分が自分として存在しているのだという感覚を失っていき、この実感の喪失ゆえに、自分は存在しているのだということを逆に証明せねばならなくなる。自己存在の証明のために、凶行に及ぶような行動をとるようになる。


「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレール http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911



村上春樹はなぜオーム真理教事件に惹かれたのか

特に最近、気になるのが、ポストモダン動物化)→ネオリベラル(環境管理化)→(しらずに)物語化の流れです。もともと物語化していることに自覚であれば、まだしも、物語化を否定しつつ、物語化してしまうことに危険があります。

「つまり、革新や進歩は下部構造によって勝手に強いられているのだから、もうあと人間はやることないんじゃないか、みたいな話なんだろう。(東)」

「グーグルがゴールとして目指しているのは、グーグルの技術者たちが作り込んでいく情報発電所がいったん動き出したら「人間の介在」なしに自動的に事を成していく」世界である。(ウェブ進化論 梅田)」

村上春樹風のタフさはこのような転倒をさける強さがあります。しかしこのタフさもまた日常という反復(退屈、不安)の強度に疲れたとき、気づかずに集団的な物語化へ転倒する可能性はあるでしょう。

村上春樹が一時期、近年日本で最大の転倒(物語化)であるオーム真理教事件に興味をもったことは、この狂気を行った人々の中に自分の姿を見てしまう恐怖があったのかもしれません。プールという四角いコンクリートの箱を往復し続けることに疲れたとき、魅力的でそして狂気な物語に魅力されてしまう・・・。

*1:ハードボイルド (hardboiled) とは、・・・感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷非情な、(精神的・肉体的に)強靭な、妥協しない、などの人間の性格を表す言葉となる。・・・ミステリの分野のうち、従来の思索型の探偵に対して、行動的でハードボイルドな性格の探偵を登場させ、そういった探偵役の行動を描くことを主眼とした作風を表す用語として定着した。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89