脱構築を脱構築する(全体) ラカン的、デリダ的主体論

*所々、未完成です。しばらく完成を目指すほどの時間がないので、とりあえずおきました。ご興味のある方はどうぞ。


1 収束(主体)−拡散(動物)

2 否定神学脱構築

3 マクドナルド化動物化

4 収束−発散構造論

5 終わりなき連鎖としての否定神学脱構築




1 収束(主体)−拡散(動物)


1) デリダの構造論と倫理論

たとえば「日本人」を考えましょう。日本人は、「日本人」に対して、「われわれ日本人というのは・・・」「日本人だから・・・」と、そこに共有された意味があるように語ります。

デリダはこれを形而上学と呼びます。「日本人」というエクリチュールは、様々な場面の中で、その都度その都度、使われ、その都度その都度の意味を持つものでしかありません。「日本人」というような共有された同じ意味は、そのはじめ(過去)にあるわけではなく、あるようにふるまっているのです。

脱構築とは、このような形而上学に対して、多様な意味を浮き彫りにすることで、宙づりにする手法です。ここでは、デリダが明らかにしたコミュニケーションの構造と、脱構築という倫理的な手法を分けて考えられると思います。



2) ヴィトゲンシュタインの経済的コミュニケーション構造

デリダの示したコミュニケーションの構造は、ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論にとても近接しています。ヴィトゲンシュタインの問いも、なぜコミュニケーションは可能なのか、ということでした。

ある人がある人に「馬鹿」という。これはどのような意味でしょうか。「オマエは頭が悪い」「おもしろいやつだな」、実は独り言・・・これはそのはじめから決定されていません。コミュニケーションが成立してときに事後的に了解される、ということです。これをヴィトゲンシュタイン言語ゲームと呼びました。

これは経済的な行為ではないでしょうか。そのはじめから意味を共有することはできない。しかしコミュニケーションは成立させないといけない。同じものが共有されているようにふるいあう。実際に意味は曖昧に、あるいは間違って伝わることはは多々起こります。

このようなコミュニケーションの構造としては、デリダ形而上学と呼ぶような同じもの性は批判されるものではなく、経済的な行為と言うことができます。



3) ラカンの主体論

このような人間のもつ「断絶」について、分析したのがフロイトです。フロイトは人間の性は倒錯しているといいました。動物は生殖のために決められた信号に反応するが、人間の性の趣向は、靴フェチや幼児性愛など個人個人で偏向し、多様というように倒錯的(フェティシズム)だ、ということです。

これは、ラカン「性関係は存在しない」につながります。人間には動物のようなプログラムされた的確なコミュニケーションが不可能であること、すなわち生殖のために行うという「正常な」性関係は失われている、ということです。

ニーチェは収束を力への意志としてその重要性を指摘しましたが、ここでラカン示すことは、根源的です。「性関係は存在しない」ということは、フロイトのように「断絶」があるということだけではなく、動物の性関係は生殖に根ざした生物的なものであるが、人間の性関係は言語であるということです。この「断絶」を繕うもの、すなわち言語こそが主体であるということです。

ただラカンが言うのは、これによって、「断絶」が言語によって埋められ、完全なコミュニケーションが成立するということではありません。ラカンは、「主体とはシニフィアンの主体であって、シニフィアンによって決定されている」と言います。主体が「日本人」というシニフィアンを受け取っても、「生真面目」というシニフィアンへの送られる・・・という終わりのないシニフィアンの連鎖において、十全な「日本人」というシニフィエ(意味)には決して到達しません。だからこと、人は語らいつづけるのです。

ここに収束側の極限があるのかもしれません。たとえば日本人が「われわれ日本人というのは・・・」というときの同じものこそを求める運動が主体であるということです。発散の極限が「動物」であるなら、収束の極限が「人間(主体)」であるということです。

                収束    −        拡散

                人間(主体)           動物




2 否定神学脱構築


4) ラカン否定神学的主体論

ラカンフロイトの一部、「快感原則の彼岸」と重要視し、展開した。簡単にいえば、人間は快感原則=動物とは違うということだ。どのように違うのか。動物は先天的な遺伝子情報によって、多くが決定されているが、人間は後天的な教育が多くを占めているということだ。これだけだとなんだ、と思うが、ラカンがこれを人間のもつ欠如として捉える。よく言われる、人間は壊れている、ということだ。

人間は生まれながらに欠けている。それを取り戻すことが、人間存在のあり方である。それは他者を真似ると言うことだ。他者を自分の中に取り込むことで、主体となる。まず体面の他者に想像的に鏡像を見いだす。しかしこのような関係は他者との取り合いという闘争に至る。だから次に社会文化を取り込むことで、社会的に主体になる。これは具体的には言語を学ぶ問うことだ。言語体系を自らのものとしていくなかで、人とはどうあるべきかを学ぶ。

しかし言語体系はすべての解を持っているわけではない。人を殺してはいけないというが、なぜそれがいけないのか、に答えはない。ラカンはこれを「主体はシニフィアンに従う」という。言語はシニフィアン(表記)とシニフィエ(意味)でできている。シニフィアンに従うとは、意味とは関係がなく、シニフィアンの文法的な法則によるということだ。

ラカン「無意識は言語のように構造化されている」とは、このように人は知らず知らずに無意識に、言語(シニフィアンの連鎖)に従っているだけだ、ということだ。人を・・・殺しては・・・いけないというシニフィアンが無意識にあるから、それに従っているだけだということだ。

人は生まれながらに欠けた存在なのだから、言語に従うしか主体となれないからだ。しかし不幸なことに、言語に従おうが、それでも満たされるわけではない。なぜ人を殺してはいけないのか、という意味は、そこにはない。人は充足した意味を求めて、シニフィアンの連鎖を横滑りしていくしかない。

そこにはなにか充足できる意味をあるようにふるまう。先の「日本人」の例にもどれば、日本人は、「日本人」に対して、「われわれ日本人というのは・・・」「日本人だから・・・」と、そこに共有された意味があるように語ることで、経済的にコミュニケーションを行うのではなく、そこに自らの欠損を埋める充足した意味を見いだそうとするのだ。それは他者の中に見いだすしかない。語らうしかないのだ。そして結局、日本人とは優秀だ・・・生真面目だ・・・などとシニフィアンの連鎖を繰り返していくだけなのだ。そして語りは、決して埋まらない(現実界への)穴の回りをぐるぐると回るしかない。

これはかなり強引に映るかもしれない。人の発話、あるいは行為はすべて自らの充実を求め、欠損を埋め続ける行為であるということだ。一元的な目的に還元されるゆえに、否定神学といわれる。



5) ベイトソンの学習理論

これをベイトソン学習理論と比較するとおもしろいだろう。ベイトソンはコミュニケーションが成立するということを前提に、学習(コミュニケーション)理論を考えた。

ゼロ学習とは、本能的な行動、生理的な反射という「動物」の領域である。そしてこのオブジェクト(ベタ)レベルから、メタレベルへと階層が上がっていく。学習1はゼロ学習の反復によって学習1をメタに認識する。学習2はさらに学習1の反復でメタに認識する。

人間は学習3まで可能とされる。たとえば、「馬鹿!」と強くいい驚かせ、笑うって冗談であることを示す。と言うような行為は、学習2の文脈(場の空気)を読むだけでなく、その文脈(場の空気)を意識的に操作している。その他、アイロニー、冗談、お笑いなど、文脈(場の空気)を操作することが学習3である。

その学習4は学習3のメタレベルに立つとされる。しかしこれは人間には不可能な領域であり、言葉を用いずに、正確なコミュニケーションができる、とされる。この段階ではもはや「断絶」は限りなく消失する、すなわち個体性そのものが消失しているといえる。エヴァンゲリオン人類補完計画が目指されたような領域といえるだろう。

ベイトソンによる学習のカテゴリー分類 (「文脈病」斉藤環ISBN:4791758714))


ゼロ学習・・・ある刺激に対する反応が一つに定まり、刺激−反応が単純な一対一の関係に固定された状態。あらかじめプログラムされた反応、たとえば本能的な行動や、生理的な反射、コンピュータによる演算など

学習1・・・刺激に対する対する反応が一つに定まる、その定まり方の変化。古典的パブロフ条件付け、慣れの形成過程

学習2・・・「学習1のコンテクスト」についての学習。文脈を理解し、多義語の意味を特定できる。習慣の形成。

学習3・・・学習1で学習された学習2のコンテクストの、そのまたコンテクストについての学習。学習2のカテゴリーに入る習慣形成を、よりスムーズに進行させる能力。

学習4・・・学習3に生じる変化。地球上のいかなる成体の生物もこのレベルに達していない。どのような相手とも、言葉を用いずに、正確なコミュニケーションができる。

これは、いままで示してきた、デリダヴィトゲンシュタインラカンのような「断絶」によって、意味、あるいはコンテクストがあるように振るまうことで、コミュニケーションが成立しているような状態とは異なる。ラカンの主体論でいえば、学習4は主体が目指すが決して到達しない充足の地点である。そこへ向けて、言葉は紡がれていくのである。

ラカンベイトソンのような立場に対して、メタ言語は存在しない」とった。たとえば最近の「KY(空気読めない)」というのはベイトソンでは学習2になるだろう。しかしラカンはそこに読むような空気がはじめからあるということを認めない。それは横滑りしていくだけなのである。「KY」ということで主体が示そうとしているのは、そこに空気があるようにふるまうことで、意味を獲得しようとする、自らの欲望だけである。

場の空気(コンテクスト)を読み、空気を和ませたり、笑わせたりするということは、場のためにではなく、自らがその場の一部として、宙づりから、なんらかの意味(場)へと着地したいという思いである。



6) デリダラカン批判

このようなラカンメタ言語批判の強力さは、デリダラカン否定神学)批判への反論として現れる。デリダラカン否定神学として脱構築する。

脱構築という行為は、ベイトソンでいえば学習3に相当するだろう。人々がなんらかの意味を想定していることを、宙づりにする。当然、デリダベイトソン的なコミュニケーションの成立を認めないが、脱構築する中で、自らがその場の一部として、宙づりから、なんらかの意味(場)へと着地したいという思いがないだろうか、という疑いが現れる。

すなわち脱構築がただ宙づりにするだけでなく、着地点を相対したとき、日本人はというようのがウヨ的だから、異なる意味で宙づりにしたい、という意図をもったときには、そこには学習3のメタ位置に立っているのではないか。

たとえば斉藤環脱構築批判もこのことを表しているのだろう。この斉藤の指摘は、脱構築そのものとと言うよりも、メタレベルに立つことの快感である。たとえば2ちゃんねるは、話をずらしメタレベルに立ち、優越すると言われる。あるいは、中二病があるだろう。当たり前とされることを、あえて問うことで、社会全体を宙づりにし、社会全体を所有した(わかった)ような優越を味わう。これによって、自分/社会の形而上学的二項対立の位置を確保し、自らの充実を求め欠損を埋め続けようとしている。

脱構築という技術は、体系の全体性。完結性が破綻する場所を暴いてゆくことで、体系の外部を徴候として示すことだ。しかしこの手続きでわれわれが本当に獲得するものは、何だろうか。それは決して「外部」そのものなどではないだろう。そうではなく、ここでわれわれが想像的に獲得するものこそが「体系の全体」なのである。われわれが脱構築を試みるとき、われわれは不完全性をテコにして、体系の全体性をそっくり獲得・所有したと信ずることが出来る。・・・不完全性を言い表し、それを表象することによって、不完全性はきわめて巧妙に脱構築する主体の視野から隠蔽されてしまうのである。これはおそらく臨床的事実と言って良いであろう。

脱構築もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る位置をメタレヴェルに繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽にされてしまう。メタレヴェルにおいて語るということの欲望は、所有の欲望にほかならない。P392-394


「文脈病」 斉藤環 (ISBN:4791758714



7) 「脱構築の欲望」

スピヴァクはこのような脱構築否定神学の近接、脱構築の欲望」の危険性について、デリダ自身がよくわかっていたと言う。脱構築には、すでに自らの充実を求め欠損を埋め続けようとする欲望(否定神学)が隠されている。

そもそもなぜテクストを解体し構築せねばならないのか?なぜ言葉や作者は「言っていることを意図している」と考えてはいけないのか?これは複雑な問題だ。脱構築の欲望それ自体が、支配を通じてテクストを積極的に再我有化し、テクストにそれが「知らない」ことを示したいという欲望になってしまうかもしれないことをデリダは認識している。

脱構築の欲望は逆の魅力にもかかわる。脱構築は認識の閉塞からの脱出口を与えてくれるように見える。テクスト性の開かれた不確実性を開始することで・・・それは自由としての深淵の魅力をわれわれに示す。脱構築という深淵への落下は、恐れと同じくらい快楽でもってわれわれを刺激する。決して底を打たないという見込みにわれわれは酔いしれるのだ。

こうして、さらなる脱構築脱構築脱構築する、基盤の追求としての、そして底がないという快楽としての脱構築を。そのための道具はわれわれの欲望である。欲望はそれ自体、われわれの自己というテクストからつねに異なり、つねにそれを延期する、脱構築的・・・である。

この過程は無限に続く。脱構築差延に住まわれたたえず自己を脱構築する運動である。いかなるテクストも完全に脱構築したり、されたりすることはない。デリダはいまや、脱構築しない、されない」のはある意味で不可能だと言おうとしている。P179-181


デリダ論」 ガヤトリ・C・スピヴァク (ISBN:4582765246



8) 「やらない脱構築否定神学)よりやる否定神学脱構築)」

2ちゃんねるで以前「やらない善よりやる偽善」という募金?のスローガンがあった。2ちゃんねるとはとてもアイロニーラカンは認めないだろうが)な空間である。ある発言があると、それを異なるコンテクストから宙づりにし続ける。宙づりゲームのようなとても高度なコミュニケーションの場である。よく言えば、高度すぎて意味が発散し、無意味化するほどである。

ここにも強烈なアイロニーがある。「良いことをするとすぐに偽善だと言う人がいる。そうだ、善とは所詮、偽善でしかない。偽善から逃れられる善などだろう。ならば開き直って善/偽善をやってみればいいんじゃない。」ここにはすでに「善」脱構築的な倫理があるのではないだろうか。

先のスローガンを書き換えれば、「やらない脱構築否定神学)よりやる否定神学脱構築)」となるだろう。脱構築をすることは否定神学から逃れられない。ならば開き直って脱構築否定神学をやってみればいいんじゃない。」そこにまさに「覚悟」が求められている。そしてそれは否定神学に転落する前に次へ向かうというアクロバティックな「覚悟」である。ラカンデリダ的に継続する「覚悟」ということだ。

ラカンは・・・裏切り者ポリュネイケスの埋葬を禁じる通俗「道徳」の権化たるクレオン王と、クレオンに背いて自らの命を懸けてまで兄ポリュネイケスを埋葬しようとするアンティゴネとを鋭く対立させたうえで、「己の欲望を譲らない」アンティゴネの態度こそ「倫理」にふさわしいとする。「道徳」「倫理」である。われわれがわれわれの中心だ・・・と思いこんでいるものとは、ほとんど<他者>の欲望に由来する「道徳」的なものである。己の欲望の現実界「倫理」はその平面にはありえない。したがって「道徳」の根拠はつねに問われなければならない。

したがって可能なデリダ脱構築とは、自分の立っている地平、たとえば現世的な法が恣意的で無根拠であることに固執しつづけるという意味で、アンティゴネ的、したがってラカン的な意味で「倫理的」なもののみである。P116-117


「貨幣と精神」 中野昌宏 (ISBN:4888489785



9) 主体論1

再度、収束−拡散の構造に戻れば、人はベイトソンの学習4という意味の完全な伝達という神の領域を目指すが、「断絶」によって、否定神学的主体として無意識に形而上学的な意味へとの収束する(意味があるように振るまう)しかない。

いかにその欲望から逃れようとしても、自己言及的に回帰するしかない。否定神学の収束は主体であるための条件であり、脱構築の欲望」として拡散しつつ収束するという反転から免れない。

だから倫理的行為として脱構築とは、収束に−拡散を往復し続けるような継続的な「覚悟」が必要とされる。それがデリダラカン的な倫理である、ということだ。

 意味の完全伝達  −   (意味の)収束     −     (意味の)拡散

   神(学習4)  <断絶>  否定神学的主体             動物

                              ←倫理(覚悟)→  脱構築否定神学   




3 マクドナルド化動物化


10) 歴史モデルとしてのラカン批判

ラカンの主体論の強力さを考えると、現代思想の展開の一つは、いかにラカンから脱出するか、にあったといえるだろう。主な方法としては2つ上げられているように思う。

一つはラカンの静構造を動構造へ変える。この代表はデリダだろう。有用な結果を出したが、それはラカンとの共犯関係においてだろう。

もう一つがラカン精神分析的主体は、普遍的な主体像として語られるが、あくまでも近代に成立したものでしかないという批判である。この代表はフーコーだ。ラカン派とフーコー派で議論があった。フーコーの権力論の規律訓練型権力ラカン否定神学的主体を利用するような権力であるが、これは近代に考え出されたものである、フーコーはと考える。そしてさらに権力は生権力へ変容しているということである。ドゥルーズも管理(=コントロール)社会」として、同様な論を展開する。

これは先の主体像に従えば、以下のような配置になるだろう。

 意味の完全伝達  −   (意味の)収束     −     (意味の)拡散
   神(学習4)  <断絶>   否定神学的主体             動物

                    規律訓練型権力         生権力(管理社会)   



11) 東浩紀 動物化/環境管理権力論

東浩紀動物化論もフーコーと同じようなにラカン批判の一翼を担っている。ラカンの主体論はフロイトを基本にしているが、もう一つの流れとして、ヘーゲルの動物/人間論を解読したコジェーブの人間論の影響が大きいと言われる。そこから「人間」を取り出してたのがラカンであるとすれば、残された残余として動物化がある。

ヘーゲルによればホモ・サピエンスはそのままで人間的なわけではない。人間が人間であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなけれならない。対して動物は、つねに自然と調和して生きている。したがって、消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカ消費社会は、彼の用語では、人間的というよりもむしろ「動物的」と読まれることになる。


動物化したポストモダン 東浩紀 (ISBN:4061495755

たとえばマーク・ポスターは、「情報様式論」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040413)の中で、デリダをふまえつつ、情報化社会では、主体の自己同一性は「錯乱」していると、間接的にラカン批判を行っているが、東の動物化論がおもしろのが、「オタク」という限定的な人々へ議論のポイントを絞り込んでいることである。

オタクとは一面ではあまりに人間くさい(ラカン的)でありすぎることがあり、そもそも形而上学的な存在であるために、オタクは動物化しているというのは、やや神秘主義くさい。しかし東が動物化論を、フーコーの生権力と同様な意味での環境管理型権力論と併走して語るとき、説得力が増すように思う。

20世紀の百年間をかけて、新しいタイプの「知恵」というか、秩序維持の方法が台頭してきた。それがセキュリティの発想であり、情報管理の発想だと思うんです。僕はこれを、ミシェル・フーコージル・ドゥルーズの仕事を参照して「環境管理権力」と呼んでいます。・・・環境管理型権力は人の行動を物理的に制御する権力ですが、規律訓練型権力はひとりひとりの内面に規範=規律を植えつける権力です。

動物化は、こういう秩序形成(環境管理型権力)の変化と密接に関わっています。・・・この「動物的な限界」をいかに有効に活用して社会秩序を形成するのか、それが今の社会の大きな方向だと思うんです。


自由を考える 東浩紀大澤真幸 (ISBN:4140019670



12) 樫村愛子 マクドナルド的主体」

樫村愛子は、このような状況を、マクドナルド的主体」という表現でより、現状=市場原理主義と結びて語っている。

なぜ、市場原理主義が貧しい形式的合理主義・マクドナルド的な再帰性に陥るのか・・・マクドナルド化における予測可能性とは、偶然性を排除することであり、計算可能性においては、質より量を重視する。

マクドナルド化は、形式的合理性の内部に留まり、実質的合理性を欠く事態を指す。ここから形式合理性の内部で反射的に振る舞うマクドナルド的主体」という概念が導き出される。哲学者の東浩紀は、この「主体のマクドナルド化動物化という概念で記述している。動物化とは、・・・通常の主体と構造は変わらず、形式的合理性の論理で行動するマクドナルド的主体」を指すものと考えられる。


ネオリベラリズム精神分析 樫村愛子 (ISBN:4334034152

東と樫村の構造はまったく同じであると言ってよいが、東が動物化をオタクとつなげることで新たな主体像の可能性としてみる。コジェーブをそのまま継承した形で、人は動物化によって充足する。そして環境管理型権力はそれを補完する。

それに対して樫村は、情報化・市場原理化、マクドナルド化によって、主体は「(人間として)貧困」になるという悲観的に見ている。



13) スティグレール「象徴の貧困」

このような樫村の考え方にも影響を与えているのが、スティグレール「象徴の貧困」である。マクドナルド化動物化は人の価値観を一元化することで、欲望が閉塞する。あるいは逆に無理な欲望の取り返し(アクティング・アウト)という暴力につながる。

「象徴的貧困」の進行・・・自分自身のリビドーを、固有の「欲望」として表現し構成していくための象徴的リソースを人びとは失っていく。テレビ番組やレコード音楽の「産業的時間対象」を通して自分の「時間」を構成するようになる。自ら想像したり、想い出を心に描いたり、自分自身の固有の欲望を生み出したりする「生のエネルギー」、すなわちフロイトの用語でいう「リビドー」を、文化産業に吸い取られていく。

「アクティング・アウト(決行)」・・・文化コンテンツによる大衆のリビドーの捕捉は、究極的にはリビドー自体の破壊にまで及ぶ。様々な事件や凶行として現れる「アクティング・アウト(決行)」を招いている。暴力的・犯罪的行為や凶行のもとには、自分は生きているのだという、存在感覚の喪失がある。消費者はマーケティングの標的となっていると、自分が自分として存在しているのだという感覚を失っていき、この実感の喪失ゆえに、自分は存在しているのだということを逆に証明せねばならなくなる。自己存在の証明のために、凶行に及ぶような行動をとるようになる。


「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌ベルナール・スティグレール  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911



14) 大澤真幸 「不可能性の時代」

大澤もまた、世代論として、「理想の時代」(1945年から1970年まで)から「虚構の時代」(1970年からオウム事件が起きた1995年まで)、そして「不可能性の時代」(1995年から)へ至り、スティグレールに近い、欲望の取り返しが起こっている。そのとしてオーム真理教やリストカットなどを上げている。

「理想」から「虚構」へという転換は、反−現実の現実からの乖離の度合いが、つまり反−現実度が、大きくなる過程だといえます。・・・虚構は現実から乖離し、逃避する度合いが大きく、理想は現実への距離がより小さい。・・・つまり戦後に流れを見た場合、参照点となる「反−現実」が、現実からの乖離の度合いを時間とともに大きくしてきた、と結論することができるわけです。

ところが、それにつづいて現在僕らが見ている現象は、こうした傾向、つまり現実から次第に乖離していくという傾向が反転させてしまうような現象ではないか。つまり、現実「からの」逃避が、現実「への」逃避へと転換しているように見えるわけです。しかも「現実への逃避」と言ったときの「現実」というのは、普通の現実ではない。「現実の中の現実」「現実以上の現実」、現実のまさに現実性を体現しているような激しく、暴力的な現実です。P123


大澤真幸 「現実の向こう」 (http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050318)



15) 忘却的な脱構築

収束とは、主体が否定神学的に、自らの存在としての充足を求め、意味を求める方向性ことである。これは、無意識に作動する人間原理である。発散は、意味が多様性に開かれていく。究極的には意味が消失し動物へ向かうだろう。

現状の情報化社会は不確実性が増すことで、否定神学的な意味の同じものを獲得するのが困難になっている。これは、一つの脱構築、忘却的な脱構築である、といおう。すなわちマクドナルド化動物化とは一つの脱構築である。

いかなる能動的な脱構築が、否定神学へと至る運命であり、デリダが考えるように不可能なものであるなら、ある意味で、この動物化される忘却的な脱構築こそが本当の脱構築であるといえる。

デリダにおける、知を通じての支配という問題・・・フロイトのおかげでデリダは、哲学の運動は必ずしもニーチェ的な暴力を必要としないと考えることとなった。人は差延によって形成されていること、「自己」なるものは「自己」が決して完全に認識できないことによって構成されていること、を単に認識するだけで十分なのだ。われわれは忘却とか偶然への愛とかを培う必要はない。われわれが、偶然と必然の戯れであるのだ。・・・デリダのそうした忘却の理解−フロイトの記憶の研究を媒介している−は、忘却は「われわれ自身」が知らぬ間にわれわれ「自己」を積極的に形成しているというものだ。


デリダ論」 ガヤトリ・C・スピヴァク (ISBN:4582765246



16) 主体論2

先の主体の構造にもどると、社会の情報化によって、発散の傾向は増している。すなわち動物化しているといえるだろうが、それ故に、反動として、否定神学的な主体へと、「暴力」的な転倒が起こっているということだろう。たとえば原理主義的に強烈に意味を求めて、多様性を排除するような暴力が起こっている。人はこの間で、ふれている存在ということだろう。

 意味の完全伝達  −   (意味の)収束     −     (意味の)拡散
   神(学習4)  <断絶>  否定神学的主体             動物
        規律訓練型         管理社会(マクドナルド化

                                → 動物化(忘却=受動的脱構築
                                ← 転倒(アクティング・アウト)

                          ←想像力/覚悟→能動的脱構築   

このような現状認識に対して、人/社会はいかにあるべきか、という倫理が問われるだろう。果たして、先のデリダラカン的な倫理は有用だろうか。

このような動物化する社会において、いかに倫理は確保されるべきか、問題である。

このような状態に対する倫理は、中庸ということになるのだろう。程良く収束、程良く拡散。そして情報化社会では、発散にふれている面がある。開かれすぎには、何着地点を見いださなければならない。強い収束には、想像力によって、他である可能性にも開こう。




4 収束−発散構造論


17) 収束−発散構造論の整理

全体を、このような収束−発散の構図でまとめた。再度言えば、収束とは、ラカンの欲望論をもとにした、否定神学構造をもつ主体である。自らの存在の起源へと投企するような主体であるが、そこは他者を介してしか得られないと言う意味で、<他者>への投企である。すなわち言語コミュニケーションとは、必ず(無意識の)欲望が混入しているということである。

発散とは、このような収束をゆるめる傾向である。それを能動的に行うのが、ニーチェの系譜学であったり、デリダ脱構築であるが、言語コミュニケーションそのものが(無意識の)欲望が混入しているならば、そこには反転として、否定神学から逃れることはできない。系譜学であり、脱構築であり、その行為によって、ただに宙づりするのではなく、そこに意図が混入してしまう。

能動的な発散はこのような困難さがある。それに対して、受動的な脱構築がある。これは生理的な脱構築、情報化と忘却である。ある意味への思いこみがあったとして、人は時間とともに思いが薄れる、忘却する。それと、大量の情報にさらされることで、思いは薄れる。権力者、マスメディアなどの権力の偏向があるという議論があるが、基本的には情報の多様化は、それだけで受動的に脱構築している。そこに意図がないということで、ある意味で純粋な脱構築であると言える。

この傾向が、近代以降の社会論につながる。フーコーでいえば、規律訓練型権力から生権力につながる。あるいは最近ならばマクドナルド化がある。この議論は、受動的に脱構築された主体は、共有された意味を失うとともに、物理的な豊かさの中で、充足するという、動物化に向かう。より端的にいえば、これは家畜化されるということである。これは最近のネオリベラル化によって言われるが、そもそも近代以降の資本主義の市場経済がもつ傾向である。家畜化によって起こっているのが、逆に強引な否定神学への転倒が起こっている、ということだ。



18) アガンベン 人類学機械

アガンベンは、人間/動物と、「人類学機械」と呼んだ。これは哲学そのものが持つ構造である。ここでは人間が救出されなければならない。それは、動物を排除することで行われるのである。かつては人間/動物 主人/奴隷として成立していたが、近代以降、精神/身体へと向かった。

ホモ・サピエンスは、明確に定義された実質でも種でもない。むしろそれは、ひとつの機会、あるいは人間認識を生み出すためのひとつの装置なのである。・・・この人間発生装置(人類学機械)は、人間が見つめると自分の姿がつねにすでに歪んで猿の容貌として見えるような一連の鏡からなる、ひとつの光学器械なのである。人類とは「人間の形をした」ものとして構成された動物であり、この動物が人間的たりうるためには、人間ならざるもののうちにみずからを認識しなければならないのである。P46

人類学機械は、一種の例外状態、つまり外部が内部の排除でしかなく内部が外部の包摂でしかないような未確定の領域を現実に生み出すのである。・・・人類学機器はすでに人間であるものものを(いまだ)人間ならざるものとして自己から排除することによって作動している。つまり、人間を動物化し、人間のうちから非人間的なもの、すなわちホモ・アラルス、あるいは猿人を分離することによって作動しているのである。


「開かれ」 ジョルジョ・アガンベン (ISBN:458270249X



19) 家畜化としての動物化

東/樫村/スティグレールは、結局、人間/動物にとらわれているのかもしれない。動物化否定神学として、作動しているのかもしれない。動物化は「人間ではない」ということを意味する。「オタクは〜だから人間ではない。」その否定において、「動物(家畜)」という決して到達しない充実されイメージ、家畜のようにもはや何事にも悩まされないという充実したイメージが指示されている。そしてオタクは「動物」を欲望する。


主体とはこのような収束−発散の間を揺れるような存在であるということである。完全発散から不確実性が進入しつづけ、それを規則へと解消し、秩序をつくろうとする。一つは言語によって。そこに充足した意味が生まれる。象徴界の構築である。

もう一つは道具によって。数学/論理によって。どちらも人間/動物の対立に基づく。

ロゴスは人を人間とし、道具は人を動物とする。この動物は、本当の動物ではなく、家畜である。東がいう動物とは家畜化である。

もう一つの動物化として野生がある。デリダの思想は、人間に家畜ではなく、野生を混入させる。人間/動物の形而上学的二項対立に、野生を混入させる。それは不確実性の混入である。

ベイトソンの学習理論も同様な構図にあるだろう。機械論である。動物はゼロ学習という機械である。それが人間へと高度化し、神へ向かうという、構図を持っている。ゼロ学習で自然の不確実性を生きることをできるだろうか。西洋哲学自体が、野生を抑圧する。



20) 野生としての人間

さらに根源的に考えると、収束−発散とは、エントロピーの増減に対応した、秩序−混沌である。ここには連続性が存在する。人間の特別性が、この連続性を断絶させる。ラカン否定神学はこれを継承しているといえる。断絶を、なんとしても打ち立てなければならない。人とは道具と使うことと、話すこと。なぜ人は話すのか。否定神学的な主体であるからだ。

ここに、強烈に秩序−収束を取り込むとき、なにが起こるだろうか。そのためには認識論をとりはらわなければ、ならない。認識論は、我という特異点を見いだしてします。素朴実在論に戻るしかないだろう。それとともにより超越的な視点が必要である。人間がただの霊長類である、と還元するために、猿/人間の差異を解消するような、より大きな差異である。

「人間は否定神学的な動物である」。より高度な伝達を行うために、断絶=柔軟性を広げた。動物においても同様に柔軟性があるだろう。ネオニティである。言語の自己言及性でフリーズする特性がある。言語の力は、より高い秩序を生み出し、自然の予測可能性を排除し、管理して、そして増殖している。

このたくましさ。この根源的な力とはなんだろうか。それはただただ生命の力である。ニーチェはこれを作用と呼んだ。

ドゥルーズ「アンチ・オイディプスニーチェの影響を受けていることがわかる。器官なき身体とは力の粒であり、それが「欲望する機械」として、生権力かしていく。

それほど、象徴の貧困を起こしているのだろうか。この価値多様な社会で、オタクや、ネットユーザー、「女子高生」などなど、意味不明な大量の人々が生まれている現状をどのように考えるのだろう。特にネット上の2ちゃんねるや、ニコニコなどの多様性、混沌さはなんだろうか。「まともな人」にとって、受動的な脱構築の暴力に、精神的なショックを受けるのではないだろうか。豊かになったのだから、人々はその豊かさを享受するために家畜化されつつ、野生化している、といえないだろうか。




5 終わりなき連鎖としての否定神学脱構築


21) 内部(収束)/外部(発散)

真の<断絶>は動物の彼岸にあるのだろう。それは、不確実であり、認識してない外部である。人はこのような不確実性に絶えずさらされている。それを秩序へ回収するために、言語によって意味として、道具によって構造物(アーキテクチャー)として、進めてきた。言語を使用し、道具を使用するもの人間であり、言語を持たず、道具に管理されるのが動物である。

内部・・・収束(神/人間/動物)<断絶>
外部・・・拡散(野生、不確実性)



22) ニーチェの収束と拡散論

デリダの思考は、ニーチェニーチェの系譜学に大きく影響されたと言われています。ニーチェは、道徳の系譜学において、道徳としてあたりまえとされる「真実」を、遠近法的(パースペクティブ)に分析することで、他でもありえることを示しました。そして同じものへ収束させる指向は、人間が本来持つ生物的な力であるとして、力への意志と呼びました。

これに対して、ニーチェの拡散の思想は、系譜学を経て、「忘却」に向かうのは、必然かもしれません。収束する力が、生物学的な力(力への意志)まで遡ったとき、もはや系譜学のような小手先の拡散手法では太刀打ちできない。「忘却」こそが、力への意志に対抗できる生物学的な拡散の力です。

しかしただ時間を待つと言うことではなく、ニーチェ「能動的な忘却」というややパラドキシカルな概念に向かいます。積極的に忘れる、とはなんでしょうか。忘れようとすればするほどに、意識するのではないでしょうか。

それは、多量の情報を受け入れると言うことです。発散とは、多量な情報を受け入れることで、形而上学的な同一性を忘却する。

デリダは、形而上学と解体することが倫理であるというニーチェの思考において大きく影響されていることがわかります。



23) 不確実性の混入

ニーチェの弱肉強食的な力の思想は初歩的な進化論の誤読だろう。生物は多くにおいて共生して生きている。ダーウィンはそのように考えていた。しかし生命力を物理的な作用としてとらえるのは、哲学史において存在論の再起として重要だろう。それは不確実性の混入である。

有機界におけるすべての発生は、一つの圧服であり、支配である。そしてあらゆる圧服や支配は、更に一つの新解釈であり、一つの修正であって、そこではこれまでの「意義」「目的」は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまう。P89


道徳の系譜 ニーチェ (ISBN:4003363949

この不確実性はこの世界の成立条件である。すなわち時間とはエントロピーの増大としてあらわれる。予測不可能性は真の外部であるが、時間として我々がまさに住まう場所である。

たとえば、古典物理学的世界は、可逆性であり、時間が流れない。時間項tがあると思うが、たとえばコップからこぼれた水は法則上、そのまま逆に水をコップに戻ることが可能である。すなわち時間とは非可逆性である。



24) 不確実性(外部)は止揚点(外部)へ集約される

たとえばカントやラカンは、外部をがかたるが、不確実性としての外部ではなく、否定神学的に内部から投影された外部でそれは隠蔽された外部、あくまで内部である。だからカント、ラカンには外部が無い。ただラカンの場合はそれをメタ言語で語る。ラカンが外部を隠蔽したのではなく、主体とは外部を隠蔽する、ということをしめした。メタ言語は存在しない」が有名なラカンのテーゼであるが、たえずネタとして語るところがラカンの用心深い?ところである。

これら二つの外部はよく混同され、知らないうちに転倒している。柄谷は「探究」の単独性の議論で、不確実性を語りながら、最後に他者性という否定神学的外部にみごとに集約してしまった。

東は郵便的でそれを指摘したが、動物化ではみごとに同じ間違いをしている。動物という充足なイメージにすべてを回収し、不確実な外部を隠蔽した。(ラカン同様にネタの次元は担保されているわけだが)

すなわち否定進学的な主体は、この不確実性を認識論的に予測可能性に回収し、体系化する(象徴界)。そして否定神学的な外部(現実界)とは、ここに生まれる矛盾を認識外へ投影する止揚点である。

それは物自体として認識できないだけでなく、象徴界が完全であるように、触れないように神聖化により蓋がされる。不確実性としての外部→象徴界現実界の隠蔽(隠蔽することであるように振るまわれるが、そこにはほんとうは何もない)。



25) ラカン 欲望

そもそも言語が不確実な外部を還元し回収する装置である。たとえばヘーゲルは猫を「猫」という言語で呼ぶことで、死んだ猫になる、といった。ラカン「欲望」と呼ぶのはまさにこの言葉による還元のことである。いわば言葉を使うことが欲望であり、現実界への投影であるというあまりに強力な理論である。

そして、基本的にデリダかいっていることも同じだろう。ただ倫理としてラカン「正しく」投影しようといい、デリダ「正しく」不確実性へ解体しようと、ハイデガーよろしく、言葉を末梢の下におくような子供じみた表現をする、のは「欲望」をこえたいと想いからだ。結局、「正しく」とは適度にいうであり、二人は同じことをいっているのだ。



26) ニーチェ 能動的な忘却

不確実性を考える場合には、ニーチェのいった「能動的な忘却」が一つの足がかりになるだろう。では、再度言えば、不確実性とはどのように捕らえればよいのだろうか。

健忘は浅薄者流の信じているように、単なる<惰力>ではない。むしろ一つの能動的な、厳密な意味において積極的な阻止能力であって、いやしくもわれわれによって体験され、経験され、われわれに摂取されるほどのものが消化(それは「精神的消化」と呼んでよいであろう)の状態になってわれわれの意識に上らないのも、この阻止能力のせいである。この健忘な動物にあっては、健忘は一つの力、…能動的な健忘の効用である。P62


道徳の系譜 ニーチェ (ISBN:4003363949

不確実性(外部)は止揚点(外部)へ「収束」されるというのが主体の力であるなら、この集約を再び不確実へ「発散」させる忘却の(能動的な)力である。忘却は力と言うことで能動的であるが、そこに欲望が働かないということで受動的であり、不確実である。



27) フロイトエス

このニーチェの表現はフロイト的であるが、デリダは、ニーチェの忘却よりも、フロイトエスによる比喩を支持する。フロイトはなぜ忘却されないのかを、分析した。たとえば子供の頃の記憶が大人になってからのように時間を隔てて、さらにはかつての記憶と因果関係がない形で、回帰する。それは悪夢として、身体の機能不全としてなど。それをたどるのが精神分析の治療である。

デリダは、このエスの回帰に不確実性をみた。所詮、言葉は、真実(エス)から断絶され、発散した形でしか現れない。主体は、この不確実性(外部)を止揚点(外部)へ「収束」されている。脱構築とはこの「収束」を他の可能性を示すことで再び発散させる。

しかし脱構築が言葉によって発散させるときに、それもまた欲望、すなわち脱構築の欲望として作動してしまう。その意味でいえば、ニーチェ「忘却」はより発散としては根源的である。これはいわば、多くの情報にさらされるということだ。それによって、収束は「自然と」発散する。

不確実性とは、人間の意志、言葉、欲望の彼岸でなければならない。それを人間の行為としたときには、意志、言葉、欲望が働き、否定神学的な外部(現実界)へと転倒する。だからデリダが認めているように、純粋な意味で、脱構築という行為は不可能なのである。



28) デリダの狂気の世界

再度、拡散−収束をコミュニケーションの構造論として考えると、多量の情報にさらされ、意味が拡散し、コミュニケーションが失敗することをさけるために、意味の同じもの性があるようにふるまわれる。

そして拡散の可能性において、ニーチェよりも、ヴィトゲンシュタインよりも、デリダの思考は誰よりも強力です。これがデリダのまさに思想史に名を残す核心部分です。

デリダ「日本人」というエクリチュールの意味を無限の可能性に広げます。それはすでに誰かがいったということではなく、現前しなかったことを含めて、多様性を読み込むのです。

ここにあるのは、不確実性です。「日本人」というエクリチュールがどのような意味をもつかは、決して過去に決定されていたり、予測されたりするようなものではなく、予測不可能な不確実性へと発散するのです。可能性として、究極的に発散すれば、「日本人」は使うごとに意味が異なり、コミュニケーションが成立しません。それはもはや精神病的な世界です。デリダはこのようなことに言及していませんが、その狂気への可能性に、デリダ自身が恐怖する場面があります。



29) ベンヤミンの暴力批判論

「法の力」デリダベンヤミン「暴力批判論」について語ります。ベンヤミン「暴力批判論」では法の暴力を、「神話的暴力」「神的暴力」に分けています。神話的暴力とは、たとえは日本という法治国家において、その法を守られるために行使される警察の暴力であったり、新たな植民地を手に入れれば、そこで日本の法が守られるように行使される軍隊の暴力です。

それに対して、「神的暴力」は不思議な暴力です。

いっさいの領域で神話が神に対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない


「暴力批判論」 ベンヤミン (ISBN:4003246314

前者(神話的暴力)が罪をつくり、あがなわせるなら、後者(神的動力)は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。……まさに滅ぼしながらも、この裁きは、同時に罪を取り去っている。……前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受け入れる


「法の力」 ジャック・デリダ (ASIN:4588006517

この神話的な暴力に対する、神的な暴力とはなにを意味するのでしょうか。ボクはそれはデリダが開いた究極の拡散による狂気の地点ではないかと考えいます。



30) 神話的暴力/神的暴力

たとえば宇宙生命体が巨大な暴力をもって地球を浸食してきたとき、もはや「日本人」であること、さらには私が何者であるかなど、意味をもたないでしょう。あるいは「人間」であることも意味をなさないかもしれません。遺伝子がたかだか数%しか違わない猿の一部とに属するかもしれません。そこにあるのは、宇宙生命体/地球生命体の差異です。すなわち人間は「動物」となるのです。

たとえばライオンがシマウマを殺すことは、善でしょうか、悪でしょうか。どちらでもないでいしょう。この殺戮が人間の価値の彼岸にあるからです。善悪というのはあくまで人間内部の倫理でしかありません。

たとえば家畜を殺すことに罪の意識がないのはなぜでしょうか。それは彼らが「動物」であるからです。「動物」とは、人間の外部であり、善悪の彼岸にあるからです。宇宙生命体が地球を征服したとき、それはそれらの価値に支配されます。そこには何らかの価値があるかも人間には関係がありません。ウィルスのようにただ地球生命体に感染し、蝕み、繁殖するのかもしれません。そこでは人間の価値観は消失し、「動物」となるのです。善悪の価値などなく、ただ人は殺されるのです。

まさに人間の神話的暴力に対立する、この宇宙生命体の暴力こそが、「神的暴力」の一つの形態ではないでしょうか。そしてこれこそが究極的に拡散した世界ではないでしょうか。



31) デリダの尻込み

宇宙生命体があまりに極端であるなら、これは新大陸時代に西洋人が世界を植民地化した場面を想定することができるかもしれません。ある形而上学的な秩序によって保たれている共同体が、異なる秩序をもったより巨大な共同体によって、解体される場面です。

あるいはデリダホロコーストに神的な暴力の場面をみて、恐怖するのです。

最後に私は、このテクストに含まれるもっとも恐るべきものに注意を促しておきたいと思います。それは……あのホロコーストを、あらゆる解釈に抗う神的暴力の表われとして考えることに他なりません。……ここでわたしたちは、あのホロコーストが法の罪の許しであり、『神』の暴力的な怒りと正義の、判読しがたい署名であったという解釈の可能性に震え上がり、震撼させられることになるのです。


「法の力」 ジャック・デリダ (ASIN:4588006517

動物としての人間が野蛮なのでない。そこに倫理の消失が起こる、外部へ開かれれば、善悪が希薄になるのは当然である。そこにあるのは、ただ力である。そしてそれは単に殺戮するという負のイメージではない。純粋贈与は、純粋暴力である。雨が降る。これは善であるか、悪であるか。人はそれぞれに判断するが、雨はただ降るだけである。



32) デリダ 純粋贈与

さらに端的に言ってしまえば、不確実性とは自然なのだ。(「自然」といってしまう時点で、それは意志、言葉、欲望によって、あるイメージを想起してしまうので、デリダにならって、抹消の下におこう。)

デリダは、贈与論批判として、純粋贈与というものを指摘する。「贈与論」では、「未開あるいは太古の社会類型において、贈り物を受けた場合に、その返礼を義務づける法的経済的規則はいかなるものであるか、贈られた物には、いかなる力があって、受贈者にその返礼をなさしめるか(モース)」と問う。

モースはまず、提供・受容・返礼という義務、そしてそれを命ずる贈答規則−<贈与は必ず返礼を伴う>−を、人類学的、博物誌的事例から抽出する。そしてそのうえで、この贈与の回路を永続させる<力>、贈答規則それ自体を創出する呪術的な<力>を見いだす。そしてその<力>の内実とされるのが、「マナ」であり「ハウ」である。P130

レヴィ=ストロースにとっては、交換のシステム、言語のシステムを含む人間の織りなすシステムはすべからく「一挙」に与えられる。

「純粋贈与」とは究極の無償贈与であり、たとえば神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなものを想定すればよいだろう。(デリダ

デリダは・・・純粋贈与の次元を強調していた。それは「円環」からはみ出るものである。・・・「円環」とは、・・・物質的には何も生み出さない自動運動としての象徴システム回路のこと、もっといえばまさに象徴界のことである。・・・その円環の中で、次の島へと・・・回送する動力は、モースの「贈与」、すなわち「想像的」な負債とその相殺という運動での次元にあると考えてよいだろう。(つまりそれは想像界に属するものだ)。しかし、その因果連鎖をもっとも起源まで遡れば、ある原動力が極限的なものとして想定されなければならない。それこそ「不可能なもの」であり、「現実的なもの」である。そんなものを想定してよいのかという意見もあるかもしれないが、もしこれなしで済まそうとするなら、われわれは最も通俗的構造主義へと堕することになるのだ。


「貨幣と精神」 中野昌宏 (ISBN:4888489785

しかしここで中野は外部を両義的につかっている。一つはデリダ的な「純粋贈与」であり、もう一つはラカン的な「現実的なもの」である。まさにここに不確実性への転倒がある。

「純粋贈与」とは不確実性である。雨が降る。これは作物を育てるには天の恵みであるかもしれないが、それによって害を被る場合もある。これは受ける人の考え方でしかない。「純粋贈与」とは「純粋暴力」でもある。そしてこの地点が神的暴力の領域です。大地震がおこり、壊滅的な被害を被る。しかしこれされも、ある人にとっては天の恵みではありえる。大地震はただ起こっただけです。さらにいえば、地震でさえもない。それは抹消の下に置かれる。「純粋贈与」「神的暴力」という名付けることさえ許されない地点です。名づけた時点で意味をもってしまう。そして人は、それを名づけることで、世界に意味を与え、コントロールしようとする/できているようにふるまうことで安心する。



33) 否定神学脱構築の終わらない連鎖

結局、否定神学とはなにかといえば、その思想のリミットである。たとえばラカン現実界ということで、生理的なものは現実界へと排除される。ラカンは生理的ものがないといっているのではなく、いわば「語らない」と言っているのだ。あるいはベンヤミン「暴力批判論」の最後のわずかで「神的暴力」を語り出すとき、そのようななにかがあるが、リミットとして示しているのだ。

ヴィトゲンシュタイン「語り得ぬものは語り得ない」と超越論を排除することを宣言したように、自らの思想の限界(境界)を示すことは、その思想についてよく理解していることであり、神的暴力と抹消の下においくよりも、潔いのではないだろうか。

思想には必ずリミットがある。その中でより深く思考する。ならば脱構築とは、先陣がマークしたリミットを越えていくことに意味があるのだろう。そしてそこにはまたリミットが打ち立てられる。これは単純な進歩史観ではないだろうが、世代を越えていく終わらない物語である。

そして先に示した収束−拡散構造が、主体に独我論的、個人主義的に閉じこめられているとすれば、否定神学的リミットがリンクとなり、連鎖はつながっていくのだろう。